第一章 2-2
車の中に充満する沈黙。
アシュリーは湿度の高い呼吸を繰り返し、ケヴィンは平然としながら、車の進行方向を監視する。
窓から見える景色が、マンハッタンのミッドタウンの賑やかな街並みに移り変わった。いつの間にか、フォーギヴまであと少しのところまで来ていた。
悲しみを引きずってはいけない。やめよう。
アシュリーは、気分を入れ替えろと自分に言い聞かせた。
友人まで巻き込んではいけない。友人の笑顔を引き出すのが、私の幸せなのだから。
「アシュリー、笑ってください」
心臓に直接触れられたかのような驚きを覚えたアシュリーは、隣に座るケヴィンを見た。
「え?」
「笑顔が足りないと思います」
「そう、だよね。ちょっと考えごとをしてたの」
「心配ごとは、笑顔が解決してくれます。あなたの人生は、いつもそうでした。私は記憶しています。あなたは笑うことで悲しみを消してきました」
「うん、そうだよね。でも、社会が作り出す悲しみは粘りが強くて、なかなか取れないの」
「そうだとしても、あなたに消せないはずがありません。私は知っています」
ケヴィンの言葉が、粘着質の悲しみを綺麗に剥がし取った。
車の中に充満していた沈黙が消え、
その匂いは、太陽の下で笑い合う二人を包む、暖かな屋上菜園の大気の香りに似ていた。
彼女の心は、肉親よりも親密と言っても過言ではない友の言葉によって、社会を覆う汚らわしい欲が及ばない場所に回帰した。
汚らわしい欲が消えることはないが、それによって生じる悲しみを振り払ってくれる友がいる。
彼女は孤独ではないことを思い出し、これからも孤独にはならないという確信を得て、心の底から安堵した。
「ごめんね、ありがとう、ケヴィン。また考えすぎちゃったみたい」
「それは優しさの裏返しです。それもまた、あなたの良いところなのですから、どうか気になさらずに」
ケヴィンは命を持たない物だ。しかし、最も身近で、最も優しい物だ。
最も信頼する物との会話を楽しめるほどの余裕を持ち始めたその時、自動運転車が、目的地のレストランであるフォーギヴの前に到着した。
フォーギヴは、伝統ある老舗の本屋のように上品で、悪く言えば、非常に地味な店構えをしたレストランだ。
角地に建っている派手なバーに隣接するビルの一階で、慎ましく営業している。
店のオーナーは二階から上の賃貸アパートも経営していて、安定した家賃収入があることで、歴史ある小規模なレストランを憂うことなく運営し続けられている。
車載コンピュータであるドライバーが報告した。
「目的地に到着しました。降車後、私はマンションに戻ります。ご帰宅の際は、事前に御連絡ください」
「わかった。また、あとで」
車を降りて歩道に立ったアシュリーは、深呼吸をしながら顔を上げた。
太陽の姿はビルに遮られていて眺めることは叶わなかったが、向かい合うビルの窓によって幾度も反射して届いた太陽の光が、彼女の震える心を照らし、暖めた。
やれること、やらなきゃ。ケヴィンのためにも。
アシュリーは心身の健康を保ちながら、欲に抗い、より多くの寄付資金を稼ぐ決意を固めた。
続いてケヴィンも下車し、速やかに
気持ちを新たにしたアシュリーが、目的のレストランの入口に向かって歩き始めた、その時だった。
「止まってください」
ケヴィンが右腕を横に伸ばしてアシュリーの上半身を押しとどめ、その歩みを強制的に制止した。
たたらを踏んだアシュリーの踵が、歩道を擦り鳴らす。
驚いたアシュリーはケヴィンの顔を見たが、視線が重なることはなかった。彼の視覚センサーはアシュリーの瞳を見ずに、その向こうにあるらしい何かを捉えているようだった。
アシュリーが彼の視線を追って振り返ると、そこには、こちらに歩いてくる細身の老婆の姿があった。
老婆は衣服の下に歩行補助機を装着しているようで、年季を見せつける肌の質感にそぐわない足取りで、背筋を伸ばして颯爽と歩いてくる。
歩行補助機は、細いが丈夫なフレームの上に、厚みの少ない人工筋肉を被せたスーツ型の補助器具だ。
眼鏡型端末や耳端末で脳波を感知し、その情報を元に人工筋肉を動かすことで、安定した歩行補助を実現している。
バッテリーは人工筋肉内部に仕込まれており、衣服の下に不自然な膨らみを生じさせないので、注視しなければ着用を見抜くのは難しい。
老婆を見送ったケヴィンが、腕を下ろして謝罪した。
「失礼しました。ご婦人がいらっしゃったもので。いくら歩行補助機を装着していたとしても、接触すれば転倒してしまう危険があります」
「そうね、気をつけなくちゃ。ありがとう」
二人は改めて通行人の姿がないか確認し、それからケヴィンが先導して、フォーギヴのドアを開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
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