第一章 2-1

 アシュリーとケヴィンは思い出の世界から現実に戻り、急いで着替えてメイクを直し、姿見を覗き込んで顔と髪と緑のワンピースドレスを確認してから、ペントハウス専用のエレベーターに乗り込んだ。エレベーターは、ケヴィンが無線接続して操作する。


「地下駐車場の車を呼び出しています。接続。受理されました。すぐに到着します」


 ケヴィンは手に持っていた中折れ帽を被りながら、地下に停めてある車に無線接続し、エレベーターで降りた先に車を配置した。




 地下で停止したエレベーターから出ると、すぐ手前にある車両待機スペースには、古典的なデザインの白い国産車がいつものように駐車されていた。


 一九六〇年代の国産車のリメイク版で、外装も内装も古典的だが、最先端のバッテリーとモーターを搭載している高級電気自動運転車だ。


 車外のセンサーによって所有者認証を済ませた車が、後部座席のドアを開けてあるじを迎える。


 アシュリーはバリア構造再現ヘアアイロンの作用によって軽やかに風をかわす髪を翻しながら、後部座席に乗り込んだ。


 ケヴィンは反対側のドアに回り込み、アシュリーの左隣に乗り込む。


 全ての車両が交通システムの管理下で自動的に走行するようになって自己運転が禁止されたので、事故など起きるはずもないのだが、アンドロイドは万が一に備えてあるじのすぐ横に座り、腹部の分厚い擬似皮膚で衝撃を吸収して守るように定められている。


 あるじと従者の体が車内に収まったことを確認した車載コンピュータがドアを閉め、淡々と役割をこなす。



「こんにちは、アシュリー様。行き先を指示してください」



「こんにちは、ドライバー。ローワー・イースト・サイドのフォーギヴに向かって」



「かしこまりました。発車いたします」



 眩しいほどに煌々と照らされた地下駐車場を徐行し、一転して柔らかな自然光が溢れる地上に出たフェロウズ=オオモリ家の古めかしい最新高級車は、北にあるウィリアムズバーグ橋へとハンドルを切った。




 すれ違う車の多くは、大昔と比べて随分と料金が安くなったバスとタクシーだ。自家用車を所有できるのは、高すぎる自動車税を納める余裕のある富裕層だけだ。


 ほとんどの国民がバスやタクシーを利用するなか、富裕層は自動運転車を所有し、快適なプライベート空間を満喫しながら移動している。アシュリーもその一人だ。


 父の車は少々目立つので、いつも居心地が悪い思いをさせられる。


 割り当てられた複数の駐車スペースは父の車でいっぱいだし、一台も手放す気がないらしい。そのせいでアシュリーは自分の車を買うことができずにいて、仕方なく父の車に乗っているのだった。




 アシュリーは、すれ違った可愛らしいデザインの電気自動車に羨望の眼差しを注いで見送ると、小さな溜息を吐き、それから、一定速度で流れていく街並みを無感情に眺めた。


 交通システムは全ての道の交通量を常に把握しており、渋滞が発生しないよう的確に誘導するので速度が一定であるし、昔から公道での自己運転が禁止されているので、楽しみも緊張感もない。


 そのため、車に乗っている人は、しばしば強烈な眠気を引き起こされる。


 アシュリーも子供の頃からずっとそうだった。大人になった今も、まだ少ししか走行していないにもかかわらず、早くも眠気に襲われていた。


 車窓の外には、古風な茶色の外壁のアパートと、第三次世界大戦後に建てられた金属パーツが目立つ新築の白いマンションが並ぶ、代わり映えがない景色が続く。眠気は増すばかりだった。


 アシュリーは物悲しい目つきで、個人商店の壁にもたれて座る路上生活者らしき男性を見送った。眠気と相まって、彼女の吐息は溜息のような重みを纏う。



 どうして、貧富の差がなくならないんだろう。



 アシュリーは心の中でそう呟いた。彼女の頭をいっぱいにしているのは、誰に宛てるわけでもない、漠然とした憂いだった。




 この世界はおかしい。


 ロボット同士の代理戦争が頻発した冷戦が終わっても、多くの人が亡くなった大きな戦争が終わっても、全ての人が幸せになる日は来なかった。


 国同士が競う必要などなくなったはずなのに、まだ戦う準備をしてるみたい。


 次はどの国が襲ってくるのかと、疑いの眼差しで睨み合っている。


 これ以上、何を望むというの。


 お金を稼ぐことに躍起になって、国内で生じる貧富の差を改善しようともしてないじゃない。


 戦前の軍事介入によって増大した戦費が膨れ上がったせいで、人々の暮らしを良くするためのテクノロジーの進化は遅れてしまった。


 軍需以外の経済は疲弊し、一般市民が恩恵を受ける進歩が齎されなかった。戦争に関する技術ばかりが進歩した。


 こんな未来なんか、誰も夢見てなかったはず。


 テクノロジーは皆を幸せにするはずだったのに。


 幸せになったのは、軍需産業と、兵器を動かすための電力を作り出すエネルギー産業ばかり。


 ごく一部の人々が豊かになっただけ。



 私も、その一部?



 裕福な家庭に生まれたアシュリーは、自身が富める者であり、貧しい者の気持ちの全てを理解することができないこと、そして、自身の一族が資本主義の貧富の仕組みに大きく加担していることに改めて苛立ち、染み込んで来るような自己嫌悪を覚えた。


 アシュリーは牧師から紹介された路上生活者保護施設に多額の寄付をしているのだが、それが焼け石に水であることを知っている。


 個人で抗っても無意味だった。金銭を必要としている人は、他にも大勢いる。


 もっと寄付しなくてはならないことを認識しているが、全財産を寄付する勇気は持てなかった。これまで嫌というほど目の当たりにしてきた、喪失と貧困を恐れているからだ。


 富を失うことへの恐怖が、貧富の差をさらに加速させていることも理解していたが、彼女はどうしても克服できなかった。




 私も支配されてる。


 人間社会を支配してる汚らわしい欲が、私の中にも存在してる。私も、悪しき連鎖に加担してる。


 私は恐れてる。自分が損をしない程度に寄付することしかできない。


 欲に抗うのは困難だから、私は私に出来ることだけを続けるしかない。このまま、保身的な寄付を続けるしかない。




 虚無の中で行われたアシュリーの自問自答は終わった。彼女はまた、欲に敗北した。


 改めて車外を眺めてみると、いつの間にかウィリアムズバーグ橋を渡り終えるところまで来ていた。ここから右折して北方向へ向かえば、すぐ目的地に着く。


 アシュリーは自己嫌悪を拭い去るように、ケヴィンに話しかけた。


「ねえ、フェロウズ=オオモリ家に居て、幸せ?」


「はい」


 期待はずれの、無味無臭の答えだった。


 ケヴィンは特別な存在で、他のアンドロイドよりも人間らしいところがあるが、当然ながら人間ではない。


 アンドロイドの心は、熱を持たない。心が凍えそうなときに温めてはくれない。



「私、もっといっぱい施設に寄付したいと思ってるの。だから応援して」


「はい、応援します。私もたくさんの金銭を稼ぐことができればいいのですが、勤労が禁止されているので手伝えません」



 切なさが増す。


 アシュリーは、もっと熱く応援して欲しかった。


 いつもなら嬉しく感じるであろうケヴィンの言葉も、今はひどく平坦に聞こえる。

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