第三小節 心を失うことはできないけれど、壊れた心も二度と元には戻らない
……そうして、ティアは夢から覚めた。
うっすらと、瞳を開いたティアが最初に見たものは、煙突が刺さった木の天井だった。どうやら、寝台の上に寝かされているらしい。
しゅんしゅんと湯の沸く柔らかい音に気づき、ゆっくりと横を向けば、塗装の剥げた鉄ストーブの上、白いケトルの蓋がにわかに揺れていのが見えた。煙突はそこから天井に伸びていた。
しかしその古ぼけたストーブも、かけられた温かな布団と毛布も、天井の太い梁も、枕元で尻尾を丸めて寝ている金色の小動物も、ティアには見覚えがない。いったいここはどこなのだろう。
いや、それよりも
「今のは、ゆめ……?」
つぶやき、ぼんやりと起き上がる。
ブランシュと呼ばれた少女の夢を、ブランシュではないはずの
自分はブランシュなのか、それとも違うのか、ますます境界があやふやになっていくも、起き抜けの頭ではうまく判断することもできない。
と。
「あ、目が覚めたか?」
緩やかに落ちてきた声に、ティアは振り返っていた。
ガタついた木扉を後手に閉め、中に入ってきたのは──鳥の飛べない蒼。
「……エルス?」
塔で落下したティアを助け、その後、姿をくらました少年。
どうして彼がここにいるのだろう。と軽く戸惑っている間に、エルスは紺の外套を壁際にかけると寝台に腰掛けてきた。ティアの胸中に気づいた様子もなく、指先部分のない手袋を外して、ティアの額へ手を伸ばしてくる。ティアより一回り大きく、いくらか体温の低い、ひんやりとした手のひら。気持ちいい。大人しく目を閉じる。
「ん……」
「熱は……もう、大丈夫そうだな。どこか具合が悪いところは?」
ふるふる、とティアは首を横に振った。
そうか、と言ってエルスは立ち上がった。ケトルの前に移動した後、カップを二つ持って戻ってくる。
はい、とエルスから差し出されたカップから、ほわりと湯気が立つ。深く甘い香り。
「甘い匂い……お砂糖?」
「メープルシロップ。お湯で割ってるけど」
ティアはエルスからカップを両手で受け取ろうとして、自分の手が袖の余る黒いシャツに覆われていることに気づいた。手を半分まで隠した、身体より一回り大きいシャツをまじまじと見つめる。
と、エルスは気づいたらしく、説明してきた。
「悪い。俺が勝手に着替えさせた。……服が汚れていたから」
「それはいいんですけど、ええと、そうじゃなくて」
「そうか? いや、まあ、いいならいいんだが」
なぜかエルスも聞き返してから、自身のカップに口つけた。
ティアもエルスに倣い、息を吹きかけて冷ましながら陶器のフチに口付ける。匂い立つ甘さと温かさが身体中を満たし、緊張感がゆるゆるとほどけていく。
半分ほど飲み、ほぅと息をこぼしたところで、ティアは改めて聞いた。
「あの、私。ここはどこで……わたし、なんで……」
つたないティアの言葉に、エルスが、ああ、と一つうなずいた。
「ここは、帝都カレヴァラ。白樹の塔フレーヌの周囲に浮かぶ人工大陸のメルヒオール区と呼ばれるとこだ。まあ、君からしてみれば外ってことになるかもな」
外、という言葉に、とくん、とティアの鼓動が一つ高鳴る。彼の外という言葉と、彼女の中での外という言葉が頭の中で寸秒遅れて結びついた。
「そと……?」
「ああ、外だよ」
「そ、と……?」
およそ信じられない気持ちで、ティアは窓ガラスを見やった。
窓は雪が降り積もったように真っ白く染まっている。手が冷たくなるのも気にせず、窓の表面についた水滴を手の平で拭いた。そおっとのぞき込む。
外。見たことのない、きらきらと宝物のように輝いた世界。手を伸ばしても届かず、ずっと夢見て憧れていたもの。
どんなものが見えるんだろう。
どんなものが聞こえるんだろう。
そう期待に胸を膨らませたティアが見たものは──
……どこか、ゴミ捨て場のような町並みだった。
鬱々とした薄暗い雲の下、ゴミや瓶が白い雪道に放置されている。
昼間だというのに人通りは全くない。不気味な静けさに包まれた町は、死体でも転がっていそうな雰囲気だった。さすがに人は倒れていないようだが、雑踏に轢かれた手袋が無惨な姿で転がっていた。
ティアは肩透かしのようなものを食らってへたり込んだ。
自分でもよくわからない、ぽっかりとした虚ろな感情が胸を覆う。
ティアにとって、外、とは──
幼い子どもたちは、はしゃぎながら広場を走り。
見守る大人たちは噴水の傍、他愛もない話に花を咲かせ。
その日の仕事が終われば、一杯を飲み交わした後、家に帰り。
そして、夜には明かりが灯り。
食卓で、家族が笑い声を響かせながら語らい合い。
穏やかな眠りにつくような。
そんな、素敵なもの──だった、のに。
「これが、……外」
音のような声がティアの唇から落ちる。知らず、表情は消えていた。
ティアはそのまま放心した格好で、窓の外を見つめていた。
カーテンを開いている家はほとんどない。だが、少しだけ開いた隙間から人の目が光るのが見え、ティアはびくりと肩を震わせた。慌ててカーテンを閉める。
直後、なにか自分が良くないことをしてしまったような気がして、どうしてそんなことをしてしまったのだろう、と胸を押さえて考え込む。悪いことをしたときのような痛みが、ちくりと胸を刺す。それを振り払い、ティアはエルスに問い尋ねた。
「……あの……、私は、どうしてここに」
言いながらティア自身も己の記憶をたどる。
意識の途絶える直前、なにが、あったのか――そもそも、あの塔で自分は何を見て――フィディールが撃って――イリーナは――倒れて。
そこで、はっと、ティアは目を見開いた。甲高い声が上がる。
「イリーナさん……イリーナさんは!?」
「イリーナ?」
「私のそばで倒れてた人です! 教えてください! イリーナさんは──あの後どうなったんですか!」
立ち上がり、エルスの服を握り締める。
エルスは無言だった。
……いやな、予感。
冴えた蒼い瞳が何か言葉を発する気配はない。落ち着いた彼のそれが、今は逆にティアの胸騒ぎを掻き立てる。木床の冷たさがじわりと足に滲み、どくんどくんと乱れた動悸が頭まで聞こえてくる。
エルスはティアの手を取ると、丁寧に自身の服から外した。何かを言うのも忘れてエルスを見送ると、彼はテーブルの上に乗っているラジオに触れた。
箱の表面にある円盤状の金属から、ノイズまみれの音声が流れ始める。
『──それでは引き続き先週の事件をお伝えします』
知らない女性の声。
『一週間前、白樹の塔フレーヌ爆弾を仕掛けた犯人ですが、調査の結果、勤務しているイリーナという女性が犯人であることが判明しました』
ざっと血液が逆流する音が聞こえた。
『爆発事件当日、その犯人である女性は死亡し、今は現状復帰のため塔は封鎖されています。なお、爆発に乗じて塔に潜入した少年は、現在も国内を逃亡中で──』
ぶつん、と音は途切れた。エルスがラジオのスイッチを押している。
だが、そんなことは、今のティアにはどうでもよかった。
ラジオの女性の声が、ティアの脳裏で繰り返される。
イリーナという女性が犯人である──
その女性は死亡し──
死亡。
ぐらり、と。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走るのを感じた。足から力が抜け、その場に座り込む。力を失った両手が、だらんと垂れる。
「……どう、して」
どうして、こんなことに。
だって、こんな。こんな、こんなの。こんなのって。
訳がわからなかった。
何かを言う気力さえも失い、考えることすらままらない。
ただ、なぜ、という疑問だけがティアの頭を空回りしていた。
ケトルが湯を沸かす音だけが流れていた。
*
表情を失ったティアが、寝台の前に座り込んでいた。叫び声すらあげず、泣きもせず、狂ったように笑いもしない。両手をだらんと垂らし、翡翠色の瞳からは光が失われ、今は硝子玉のように濁りきっている。
エルスは怪訝に思って呼びかけた。
「……ティア?」
反応はない。表情がなくなると、とたん精緻なつくりの人形に見えてくる。
それはまるで、壊れかけた人形か、心をどこかに失ってしまったようで──
──心を失うことは、できないけれど。
ある青年の台詞が、エルスの脳裏に蘇った。
──人は絶望を知っても、心を失うことは出来ないんだ。たとえ壊れてしまっても。
記憶の中の青年が、やんわりとエルスの頭を撫でる。
──だけど、壊れてしまった心もまた、二度と元には戻らない。
おもちゃだろうが傷だろうがなんだろうが、どんなものでも、一度壊れたものは絶対に元通りにならない。砕けた硝子を接着剤でつなぎ合わせても、ひび割れは残るように、傷が癒えても傷跡は残る。
そう、
かつて、エルスがそうだったように。
すると、考えるよりも早く、エルスの身体は動いていた。座り込んだまま立ち上がろうともしない少女の手を取って立ち上がらせる。
エルス自身、どうして、そんなことをしようと思ったのかはよくわからない。
ただ、壊れてしまうと思った。
このままでは、壊れてしまうと思ったのだ。
だから、どうにかしなければならない──と。
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