第ニ小節 埋葬された記憶
その日、ブランシュは母を探していた。
「母さま」
ブランシュが目覚めた先、白いレースが揺れる部屋には、空っぽの寝台が二つ。
いつも微笑みかけてくれる母の姿はなく、弟もどこかへ行ってしまったのか、部屋には誰もいない。
心細くなって、ブランシュは部屋を出た。
ぺたぺたと、ブランシュの小さな足音が学校みたいな廊下に響く。廊下にも人らしい人は見当たらない。
フィディールのばか、とブランシュは文句を呟いた。姉である自分を置いて勝手にどこかへ行くなんて。そう不機嫌を露わにしていれば、どうしたの、と、頭の上から声。足音を聞きつけてか、白衣を着た幾人かの男女が部屋の扉を開いて、ブランシュに微笑みかけている。
ここでは誰もがブランシュに優しかった。その理由をブランシュは知らなかったし、深く考えたこともなかったのだが、自分に優しくしてくれる大人たちが好きだった。
「あのね、フィディールと母さまを探してるの」
すると、大人たちは窓の外、森の奥を指さした。湖のほうじゃないかな、と。
ぱあっと顔を輝かせる。ブランシュは、ありがとう、と言って走り出した。
外は、明るかった。
空の色は澄み、風の音は柔らかく、枝に開く新芽の緑がまぶしい。
緑と土に覆われた木立を抜けた先、小さな湖が光る。湖のほとりに母の姿はあった。
ほっとしたブランシュは、急ぎ足で母に駆け寄った。
「母さまっ」
彼女は母親の後ろから白いワンピースに飛びついた。岸辺に咲きこぼれた黄色い水仙が揺れ、幼い金髪の子供と白い服をまとった金髪の女性が、透明な水面に映り込む。
母は振り返りながら、ブランシュの頭に手を乗せてくれた。
「あら、ブランシュ。起きちゃったの?」
「うん。母さまはこんなところで何をしているの?」
「埋葬よ」
「まいそう?」
母親のスカートを掴みながら、ブランシュは母の前を見る。
そこには、大きく広げられた布の上、青白い顔をした男が横たわっていた。生気のない顔はぴくりと動かず不気味だ。ぎゅっと服を握る手に力を込めながら、母の後ろに隠れる。
そんなブランシュを見た母は、仕方がないような、少しだけ寂しげに苦笑した。
「この人が亡くなってしまったから、お墓を作っているの」
「この人はどうして動かないの?」
「死んでしまったから」
湖畔に寄り添う木々の影がざわめく。
「死んでしまうとその人は二度と起き上がれなくなってしまうの」
そう言う母は男を静かに見下ろしていた。やせ細った男はおぞましいものを見た瞬間、時を止められてしまったかのよう。男の断末魔の叫びが今にも聞こえてきそうだ。
「……母さま。なんだか怖い」
「そうね。生きている人と死んでいる人は違うから。でも、生きているものはいつか死んでしまう。私達も同じように」
瞼を半分ほど閉じ、語る母はどこか遠い人に見えた。
「母様も、いつか死んでしまうの……?」
「母様はそう簡単には死にません」
母は両の腰に手を当て、ふんぞり返った。
ぷっ、とブランシュは吹き出した。そうだ。母様はうんと強いんだった。生き生きとした力に満ち溢れた母の強くしなやかな身体をまぶしく見つめながら確信する。
母はブランシュの頭を撫でてから、男の前にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさいね。私はこの人を埋葬するから、ちょっと待っててちょうだい」
うん、とブランシュはうなずいた。
母は男の服を脱がせると、湖に桶を差し入れた。泳ぐ銀の小魚をかきわけて水をすくう。それから、大きな男の身体をその細腕で拭いていく。草木を吹き渡る風のなか、母の白い首がうっすらと汗ばむのが見えた。
目を見開いたまま横たわる男は今にも奇声を上げながら動き出しそうで、逆にそれが気味が悪い。逃げ出してしまいたくなるも、だが、母を置いて一人逃げ出すことなど出来るわけもない。ブランシュは拳を握って我慢する。
すると、母が森の奥を指差した。
「あのね、ブランシュ、花を摘んで来てくれないかしら」
「花?」
「ええ、お墓を作った後、この人に捧げてあげるための。お願いできるかしら」
「う、うんっ」
ブランシュは、ほっとしてうなずいた。
苔生す巨木の根を跨ぎこえ、明るい森の奥を目指す。
あふれる光を浴びててらてらと輝く水を含んだ土から、小さな花を摘み取っていく。三色すみれ、青リンドウ、キンポウゲの白い花、枝から落ちた薄紫の大きなモクレン。緑の草の上、手に入れたたくさんの花を両手に走る。
ブランシュが湖へ戻って来たときには、男は服を着ていた。
「あとは、この人を埋めるだけね」
「なんだかそれも大変そう……」
「大丈夫よ」
そう言った母の身体を淡い光が包む。
すると、土が生き物のように鳴動した。大地が隆起し、左右に引き裂いたような裂け目が生まれる。
「わ、あ……!」
まるで手品みたいだ。大人一人がすっぽり収まる大きな穴を上から覗き見る。
今度は男の身体がふわりと宙に浮かんだ。そのまま水底に沈むように。その体が穴へゆっくりと降ろされていく。
「……これでどうか安らかに」
「母さま、母さまっ。さっきの穴を掘ったりこの人を浮かべたりってどうやったの?」
「これ? これは魔法よ」
「マホウ?」
「ええ。世のため人のため誰かのためなら、奇跡さえも起こす万能の秘術。それが魔法なの」
「すごいっ。母さまは魔法が使えるの?」
ブランシュは目をきらきらと輝かせる。
「ええ。でも、ブランシュ。あなたも使えるのよ」
「わたしも……?」
「ええ、だってあなたは母様の子だもの」
それを聞いたブランシュは、胸が嬉しくなるのを感じた。
素敵で優しい母。そんな母と同じように、自分も魔法が使えるのだ。なんだか褒められたような、誰かに自慢したくなるような気持ちになって、母の服を引っ張る。
「どうやって、どうやったら使えるの?」
「慌てない。今度教えてあげるから」
「今! 今教えて!」
「今は先にこの人に土をかけて、眠らせてあげましょう」
「あ……」
「せめて土ぐらい、私達の手でかけてあげたいわ。ブランシュ、手伝ってもらえるかしら」
「うん」
やがて、男を埋めた土の上、摘んできた花を添える。
母は両手を組み、祈るように目を閉じていた。ブランシュも倣う。意味はわからないがこうするものなのだろう。
すると、ブランシュの背後から、自分とそっくりな声が聞こえてきた。
「母さま」
母と一緒に、声の方を見やる。
金色の髪に翡翠色の瞳。ブランシュと同じ背丈。同じ身体。弟のフィディールだった。頭は俯き加減の落ち込んだ様子で、とぼとぼと歩いてくる。
ブランシュは自分と瓜二つの顔が、泣きそうに歪んでいることに気づき、駆け寄った。
「どうしたのフィディール」
「うん……」
フィディールはブランシュを見た後、母に手のひらを差し出した。
「母さま。チロルが動かないの」
手のひらの上、黄色の小鳥はぴくりともしない。
チロルはフィディールが拾ってきた小鳥だ。親とはぐれ、木から落ちていたひな鳥。それをチロルと名付け、二人は妹か弟のようにとても可愛がっていた。
ブランシュは小鳥を覗き込んだ。羽に触れ、その冷たさと硬さに、ひゃっと悲鳴を上げかける。
「チロル……。ねえ、チロルはどうしちゃったの?」
「わかんない……。だんだん元気がなくなって、そのうち冷たくなって動かなくなっちゃった」
途方に暮れたフィディールの目に、見るみる涙が溜まっていく。チロルを可愛がっていたフィディールのことだ。いきなり動かなくなって驚いたに違いない。
今にも泣き出しそうなフィディールにつられ、ブランシュの瞳が揺れる。
フィディールが悲しいとブランシュも悲しくなる。
「母さま。チロル治る?」
そう質問するフィディールに、母は酷く悲しそうな顔をした。
「いいえ。この子は死んでしまったの。だからもう動かないし飛べない」
「でも、母さまは前に不思議な力でぼくのけがを治してくれたじゃない。だからお願い。チロルがもう一回空を飛べるようにしてよ」
「そうだよ。母さま。さっき手を使わないで穴を掘ったみたいに、魔法でチロルを元気にしてあげてよ」
母は首を横に振った。悲しげに瞼を伏せる。
「私達は神様じゃない。たとえどんなことをしても、私達は人を、命を蘇らせることはできないの」
「そんな……」
裏切られたようなフィディールの表情。
「だからね? お墓を作ってあげましょう。それが、私達にできることだから」
「そんなの……そんなのいやだよ」
いやだ、と聞き分けのない子どものようにフィディールが首を振る。そんな弟を母が包み込むように抱きしめる。とうとう泣き出してしまったフィディールの背中を、母はあやすように何度も撫でてやっていた。
そうして──
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