6
ティーナがいなくなっても、ぼくはそのまま施設にいた。朝起きて、身支度をして、検査をして、体を洗って、眠る。ずっとそれを繰り返していた。引越しをする、といって一度施設が変わったけれど、ぼくのやることは変わらない。ぼくの仕事は体を清潔に保つことと、職員の指示を聞くことだ。ぼくは道具だから、そのとおりにするのは当然のことだった。勉強は出来なくなった。引越しをするときに、辞書や、ティーナが置いていったすべてを職員が持ち去ってしまったからだ。それでもいいと思った。どれだけ勉強しても、ぼくはここから出られない。教えてくれる人も、頭を撫でてくれる人もいない。ティーナがくれたものがなくなるのはすこし苦しく感じたけれど、いざなくなってしまうとそれでよかった気がする。色が付いたものや、勉強できるものがあるとどうしてもティーナがいなくなったときのことを思い出してしまう。もうほかのことはなにも考えたくなかった。自分で外に出ようと決めたあの日から、体が重くて仕方なかった。ぼくの部屋はまた真っ白にもどった。
***
目を開くと、白い天井があった。いつもどおりの景色だった。手を挙げて視界を確認する。爪の甘皮も、細やかなしわまではっきりと見えた。
スリッパに足を入れて、機械が用意した食事を食べる。輪切りにされたバケットと、スープと、果物、いつもどおりだった。食べ終えて、歯を磨く。顔を洗って、検査着に着替える。前までは扉を開けるたびにティーナがいるかもしれないと思っていたけれど、いつしかそれもやめてしまった。だっていないのだ。どれだけ探しても、どれだけ待っていても、もうティーナはいない。二度と会えない。検査以外で苦しいと思うのはやめるべきだ。
脱衣所を出ればすぐに職員が呼びに来る。毎日繰り返されているそれは、ティーナがいたときをのぞいて狂ったことがない。だから今日もすぐに検査が始まるのだと思っていた。
職員はいつまで経っても来なかった。どうしたんだろう、と思うけれど、自分から部屋を出たりはしない。ぼくの仕事は職員の指示を聞くことだ。部屋を出ろと指示されていないのなら、ぼくは検査の指示があるまで待っていなければならない。
どれくらい時間が経ったのだろう。なにもせずにぼうっとしていると眠ってしまいそうで、足をぶらつかせてそれを遮った。それを五度くりかえして、六度目の眠気が来たとき、勢いよく扉が開いた。顔をあげる。
そこにいたのは、職員ではなかった。
「ポエナ!」
「……ティーナ?」
扉を開けたのはティーナだった。腰まであった髪は短くなり、右目を白い何かで隠していて、白衣も着ていなかったけれど、たしかにティーナだ。ぼくに向ける声が、表情が、勉強をしていたときのものと重なる。
ぼくは動けなかった。ほんとうにティーナなのか自信がなかった。もしかしたら夢を見ているのかもしれないとすら思った。いままで見たこともなかったけれど、勉強していたころに単語を調べたからどういうものなのかは知っていた。
ティーナは瞳を潤ませながら、かつてよりもぎこちない動きでぼくに近付いた。腕を伸ばして強く、強くぼくを抱きしめる。温かかった。力が強すぎてすこし肩が痛くなって、それでやっと目の前にいるティーナが本物だということに気が付いた。
「ティーナ、」
「待たせてしまってごめんなさい。迎えに来たわ」
背中に手を回す。服を握ると、ティーナの力はより強くなった。ここにいる。夢じゃない。胸の奥が熱くなって、その熱が遡って喉を焼いた。まぶたの裏に伝わって、視界がにじむ。白い部屋が見えなくなる。
「来てくれたの」
「もちろん」
「ひとりで、そとに、出ちゃったのかと思った」
「ごめんね」
「しんじゃったって、言われたのに……!」
「あなたのために生きたの」
鼻が詰まって息がし辛かった。喉が詰まって変な音が出た。何度まばたきをしても視界ははっきりしなくて、頬が温かい何かでぬれた。ぼくの肩から顔を離したティーナが、目を潤ませたまま、眉を下げて笑う。温かい手で、ぼくのほほを撫でる。親指がまぶたの下をなぞった。
「ひとりで、よく頑張ったわね」
「……!」
がんばった、がんばったと言われた。ぼろぼろと目からあたたかいものがこぼれてくる。ティーナに会うために外に出ようとした。一度だけでも会えるように職員とお話もした。それでもだめで、どうしようもなくて、ティーナのことを忘れようとしていた。あれは、『がんばる』だったのか。ぼくは、頑張っていたんだ。
ティーナがぼくの頭を撫でる。服の袖を伸ばして、ぼくの目に当てる。あのね。
「私の名前はね、ほんとうはティーナじゃなくてステルラって言うの」
「すてるら」
「私の故郷の昔の言葉で、星って意味なのよ」
知っている。夜になったら空にたくさん見えるきらめきのことだ。ティーナの目がほそまって、瞳を覆っていた水が光を受けて色を変えた。ぼくは星を見たことがない。けれど、きっと、星ってこういう色をしているんだろう。ぼくの瞳を海のようだとティーナが言ったときのことを思い出しながら、そう思った。
ステルラは立ち上がって、ぼくに手を伸ばした。その手を握る。ティーナが外に連れ出してくれようとしたあの日の夜みたいに、強く、離れないように。
扉の外には、職員じゃないほかのひとたちがたくさんいた。みんながぼくと、ステルラを見て笑っている。ステルラが息を吸った。
「今度こそ、一緒に外へ行きましょう」
「うん。……よろしく、ステルラ」
ティーナに初めてあったときに教えてもらったことを口にした。本当は初めて会ったわけじゃないけれど、ティーナとステルラは同じ人だけれど、それでも。顔をあげてステルラの顔を見ると、ステルラはぱちりと目を見開いて、それからうれしそうに笑った。
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