ぼくは青を知った。赤を知った。眠るときが夜なのだと知った。運動のあとに浴びる『にっこう』が太陽の光なのだと知った。ぼくがいる場所が世界のすべてでないと知った。この施設の外には地面があって、植物があって、たくさんの色があふれていることを知った。文字のすべてと文章の組み立て方を知った。ティーナの顔の動きが、気持ちを表しているのだと知った。すべてティーナが教えてくれたことだ。ぼくが勉強したことだ。ことばを知るごとに頭の中に浮かぶことが増えていった。これが視野が広がるということなのかもしれない。まだ『がんばる』はわからないけれど、それも、このまま勉強していけば理解できるんだろう。

 そう、思っていた。

「……な、ポエナ」

 体がぐらぐらと揺れた。まぶたを開けると、真っ暗な中でうっすらとティーナの顔が見えた。視線があうと、ティーナがやわらかく笑う。

「……てぃ、な?」

「起こしちゃってごめんなさいね。でも目を覚まして」

 目をこすって体を起こす。白い部屋はやっぱり暗かった。明るくないということは、まだ起きる時間でないということだ。同じ時間に起きて同じ時間に眠り、しっかり食事をとって、適度に動く。ぼくがこの建物の中でやっていたことはすべて体が元気にいるために必要なことらしい。それは清潔でいることと同じくらいに大事なぼくの仕事だった。

 ティーナはぼくがやらなければいけないことを遮ることはいままでしてこなかった。どうしてだろう。こんな時間に検査はないのに。訊ねる前に、ティーナはぼくの肩を両手でつかんだ。初めて抱きしめられた時よりもずっと、強い力だった。そして少しだけ、震えていた。

「前に一緒に外に出るって約束したこと覚えてる?」

「覚えてる」

「今よ」

 ティーナの、薄い茶色の瞳が揺れたように見えた。

「いま、一緒に外に出ましょう」

 ティーナはぼくの肩から腕に手を滑らせて、ぐっと引いた。ぼくはそのまま、ベッドから降りる。いつもと違う、と思った。ティーナは腕を引っ張ったりしない。ぼくになにかしよう、ということはあるけど、ぼくが返事をする前になにかさせようとはしなかった。

 ティーナはなにをしようとしているんだろう。どうして今、外に出ようと言ったんだろう。わからないことはたくさんあった。胸のあたりがもやもやとして、それが不思議だった。こんなのは初めてだ。勉強してわからないことが減ってきたと思っていたけれど、それは気のせいだったのかもしれない。

 ティーナはぼくの手を握って、扉に手をかけた。

「いい? いまから外に出るけど、何を見ても声を出さないようにしてね。静かに歩くの。私が腕を強く引っ張ったら走って」

「わかった」

「……ほんとうはあなたの意思を確認しないといけないんだけど」

 そうも言ってられなくなったの。ごめんね。

 そういったティーナの表情は悲しそうで、でもすこし固かった。ごめん、なにか悪いことをしたときの言葉だ。ぼくは不思議になって、静かにしろと言われたのに、声を出した。

「どうして謝るの? ティーナは、職員だから、指示に従うのは当然なのに」

 ティーナは目を見開いて、それから唇をかんだ。眉間にしわが寄っている。

「……もうすぐ、自由になれるからね」

 つぶやいた声は、聞いたことがないくらいにかすれていた。

 部屋の扉を開けた。建物のなかは暗くて静かだった。ピ、ピ、と機械の音だけがときおりなっている。遠くで物が落ちても聞こえてきそうなくらいだ。検査で毎日部屋を出ているけれど、ぼくはいつも誰かと歩いているし、そこらじゅうに職員がいるから、ここまで静かになることなんてなかった。

 ティーナのとなりを歩く。足音がしないと思ったら、ティーナはいつも履いている靴を履いていなかった。靴は、と訊こうとして、口をふさいだ。声を出してはいけないんだった。

 ティーナは天井を見上げたり、あたりをきょろきょろとしながら、なるべく廊下の端っこを歩いた。暗がりの中でも、ティーナの表情が硬いのがわかる。手しか触れていないのに、どくりどくりとティーナの心臓の音が伝わってきた。心臓は体の中にある器官、その動きが早く強くなるのは走ったあとだったり、気が高ぶったときだったり、なんにせよ普通じゃないときだと聞いた。ふつうじゃないとどうなるのかはまだわからないけれど、ティーナにはいつも通りでいて欲しかった。いつものように、笑っていて欲しかった。今のティーナは笑ってない。声を出さない代わりにつないだ手の力を強くすると、同じくらいの強さで握り返された。ティーナの掌はじっとりしていて、熱かった。

 立ち止まったり、歩いたりしてぼくらは誰もいない施設の中を進む。ティーナは外に出るのだと言っていた。外に出るということは、地面や、空や、植物がみられるということだ。それぞれのことは、辞書をしっかり読んだから知っている。でもそれは意味を知っているだけであって、実物を見たことがないからどんなものか想像ができなかった。

 空が視界に収まらないくらい広いのはほんとうなんだろうか。太陽が、直接見られないくらい明るいのは? 地面はざらざらしているものだとティーナは言ったけれど、ざらざらって一体どんなふうなんだろう。気になることばかりだ。すべてティーナに質問したことで、ティーナは説明するよりも見たほうが早いといつも笑った。これから、それが見られる。そう思うと、ティーナが起こしに来てからずっと感じていたもやもやが消えてきて、代わりにぼくの心臓もたくさん動き始めた。胸に手を当てる。ぼくも普通じゃなくなってきたらしかった。ぼくの仕事は職員の言うことを聞いて、体を清潔に保つことなのに、ふつうじゃなくなってもいいんだろうか。白い服の上にある白い自分の手を見て、ぱっと頭にひらめくものがあった。

「……あ、」

 本を持ってくるのを忘れた。

 声に出ていたと気が付いたのは、それがあたりに響いてからだった。ぎゅっと口を閉じる前に大きく機械の音が鳴り始める。暗かった施設に、赤色の光がともって、点滅した。繋いでいた手が強く引っ張られた。走る合図だ。

 まばたきをするたびに、視界が赤かったり暗かったり忙しい。その間隔よりも早く、ティーナとつないだ手に付けられた機械が点滅していた。ティーナの足は速い。足を上げるたびに体が浮いているような感覚がした。は、は、と短く口から息が漏れて、さっきとは違う風に心臓がたくさん動いている。

 いままで見たことがないくらい、周りの景色が早く動いていった。ティーナに握られた手は痛いくらいで、うるさい息遣いの中でぼくはやっと、自分が何をしたのかに気が付いた。ぼくは言いつけを守らなかったんだ。声を出してはいけないと言われていたのに、破ってしまった。

 のどが変な音を立てはじめた。目の前がかすんで、足がもつれる。転んではいけない、と強く思った。ここで転んだらティーナはきっと困る。ぼくは一度指示を破ってしまった。転んだら駄目だという指示は受けていないけれど、もう困らせてはいけない。なるべく足を上げるようにする。足の裏がいたくても、強く床を蹴った。

 唐突に、ティーナが足を止めた。ぼくは勢いのままに前に出そうになって、そうなるまえにティーナに抱きしめられる。服で周りがどうなっているのかわからなくて、顔を植えに上げると、赤い光に照らされたティーナの顔が見えた。汗が伝っている。いままでに見たことがないくらい、ティーナの眉と目じりはつりあがって、唇に歯を立てていた。

 ビー、ビー、とけたたましく機械の音はなり続けている。そのなかで、知らない、低い声が聞こえた。

「撃たれたくなければ早くそれを渡せ。貴重なんだよ」

「……もの扱いして」

「お前だってそうだろう。意思も確認せず連れ出そうとしている」

「この子は外に出るべきなの」

「自分たちの主張をはっきりさせるための道具だろう?」

「ポエナは人間の道具なんかじゃない! 生きているのよ!」

「それを糧に寿命を延ばしたのが私たち人間だ」

 ティーナ、と呼んだ声は機械の音にかき消された。ティーナが叫んでいる。道具ってどういう意味だろう。貴重? 寿命? ティーナは職員なのに、ここには職員しかいないのに、なんで誰かと言い合っているの。わからないことだらけだったけれど、ティーナがどういう状態なのかは分かった。これがきっと怒るってことだ。ティーナには笑っていて欲しいと思う。いつもみたいに優しい声で話してほしいと思う。笑った顔が見たかった。ぼくを見てほしかった。だから、ティーナの腰に腕を回して抱きしめ返した。こうしたら、ティーナはいつも笑っていた。うれしい顔をしていたから。

「てぃ、」

 とすり、となにかが刺さる音がした。せなかがいたい。ふりかえろうとして、ティーナがぼくを呼ぶ声がして、それで。

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