あの日から、ぼくの部屋には少しだけ色が増えた。

 ティーナが持っていたものは『本』というらしい。誰かが考えたお話や、それぞれの出来事について詳しく書いてあるものがあるのだとティーナは言った。ティーナが抱えていた本は後者で、本のなかでも『辞書』と呼ばれるものだった。辞書にはたくさんの言葉や、文字が載っている。ぼくにはただ黒い線がたくさん書かれているようにしか見えなかった。

 ティーナは職員がよく持っている『ペン』と『紙』をぼくに渡して、辞書の文字を書き写させたり言葉の意味を教えたりした。ぼくには『勉強』が必要らしい。勉強をすればいまよりもわかることが増えて、『視野』が広がるのだと言った。それはぼくにとっていいことなのだとも。それはよくわからないけれど、わかることが増えるのはいいなあと思った。勉強すれば、ティーナが言う『がんばる』がどういうことなのかわかるのかもしれない。ティーナの顔の動きの意味がわかるのかもしれない。それがわかれば、きっとぼくはもっとティーナの指示を聞ける。いままでの職員たちとは違って、ティーナの指示はたまによくわからない。ぼくがきちんと仕事をするために、勉強は必要なことのように思えた。

 ティーナは辞書とは別の本もくれた。

「これもあげる」

「なに?」

「あなたが文字の勉強をしっかりして、ちゃんと文章が読めるようになったとき、一番に読んでほしい本よ」

「誰にも見つからないように隠していてね。……私とあなただけの秘密」

 唇に人差し指をあてて、ティーナはぼくと目を合わせた。ぼくは頷いた。この部屋にはティーナ以外入ってこないから、隠すのは難しくなかった。なにも隠すなとはほかの職員に言われたことはないし、ティーナだって職員だ。ぼくはティーナから受け取った、辞書より少しだけ薄い本を枕の下に入れた。


   ***


 部屋に戻って体を清潔にすると、ティーナは部屋にくる。ティーナがどこからか持ってきた白くて丸い机のうえに辞書と紙とペンを用意して、椅子に座ると勉強が始まる。

「あなたの瞳は海みたいに綺麗ね」

「うみ」

 ティーナがぼくの顔を覗き込みながら言った。知らない言葉だった。繰り返すと、ティーナは紙の上にその言葉を書いた。最近覚えてきた文字ひとつひとつの真似をする。ティーナの文字のしたに、ぼくが書いたいびつな文字が増えた。

「海」

「上手ね。辞書で意味を引いてみて」

 辞書の使い方は教えてもらった。単語の頭の文字から探すのだ。ぱらぱらと紙をめくって、本に書かれた文字を指と目で確かめていく。ティーナがやって見せてくれたときみたいに早くはできないけれど、ティーナは手を出さずにじっと待っている。

「……あった」

「よくできました。書き写して」

「……できた」

「地表上、広範囲に水をたたえている部分……わかりにくく書いてあるけど、とっても深くて大きな水たまりのことなの。水たまりっているのは、そのまま水が溜まってる場所ってことね」

「コップに入ってる水も水たまり?」

「いいえ。どこでもいいんだけど、平らなところが少しくぼんでいると、雨が降ったときに自然と水がたまるでしょう?」

「あめ」

「……外に出たことないものね。たとえばね、少しくぼんでいるところにシャワーをかけるでしょう。そしたら水がたまるわね? それが水たまり。外には地面っていうものがあって、地面は床みたいに平坦じゃないの。だからすぐに水たまりができるし、海があるのよ」

 ティーナはまぶたを閉じて、それが目の前にあるかのように海について話した。海の水はしょっぱいこと、視界に収まりきらないくらい大きいこと、海の中にはたくさん生き物がいること、海を渡った先には別の地面があること。海も、地面も、そんなにおおきいものも見たことがないぼくには何一つ想像は出来なかった。ティーナはしきりに、海はきれいなのだと言った。

「海の水自体は透明なんだけれど、海は青いのよ。青色はわかる?」

「わからない」

「明日、青いものを持ってきてあげる。海の色に近い青ね。ああ、緑もあればいいかしら。この国の海はほんとうに美しいのよ」

 あなたの瞳は、その海と同じ色をしてる。

 ティーナの手が、ぼくの髪を触った。耳元でさらさらと髪がこすれる音がする。目が細くなって、口角が上がっている。ティーナのその顔の動きを見たとき、ほんのすこしだけ、胸の奥がうごめいた。自分の瞳の色を想像しようとしても、真っ白な中で生きてきたぼくのまぶたの裏は、ただただ白いままだった。

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