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部屋はただただ白くて、そのなかではっきりした色があったのはぼくだけだった。けれど、今日は違っていた。
「おはよう」
扉が開いて閉まる音がした。それだけでいつもと違った。職員は部屋の外でぼくを待っているものなのに、そのひとは部屋に入ってきて、ぼくを見た。目を細めて口の端っこをあげている。初めに言われた言葉も違って、それがどういう意味なのかよくわからなかった。
「あら、まだ眠たいのかしら。起きてる?」
首を横に倒して、そのひとはぼくのそばに歩いてきた。目の前で膝をつく。白衣が白い床に広がるのを見た。この部屋の中で、こんなに職員と顔が近いのは初めてだった。
「今日はここで検査?」
話すのは久しぶりだった。知らない人の声みたいだ。声は壁に吸い込まれるようにして消えていった。職員はきょとんと眼を見開いて、首を振った。
「いいえ。どうして?」
「いつもと違うから」
そういってから、ふと思った。もしかしたらこうした会話も検査の一部なのかもしれない。いままでは腕を切ったり血を取ったりするだけだったけれど、それじゃいい成果はみられなかったのか。だからといってぼくのすべてが変わるわけじゃない。
職員は顔にしわを寄せた。それからまた口の端っこをあげて、ぼくの頭に手をのせる。
「今日も同じ検査をするわ。それからは私とお話ししましょう」
「お話し」
「そうよ。今みたいにね」
「わかった」
こうして言葉を交わすことが「お話し」らしい。なぜそんなことをするのか、それも検査のひとつなのか、それはすべてぼくには関係のないことだった。職員の言うことを聞くのがぼくの役目であって、それの意味だとか、理由だとかは知る必要がない。そう教えられた。
うなずくと、職員は立ち上がってぼくの手を握った。見上げると、職員はぼくを見下ろして言った。
「一緒に行きましょうか。私はティーナ。よろしくね」
一緒に、ティーナ、よろしく。すべてが初めて言われた言葉だった。どうすればいいのかもわからなかった。何か指示をされたのだろうか。どういう意味か聞くと、握られた手に力がこもった。
「こういう時はね、自分の名前を言って、よろしくって言うのよ」
「名前」
「そう。私の名前はティーナ。あなたは何て呼ばれているの?」
「ポエナ」
ここで初めて目覚めたときに、職員がそう呼んだ。あとは検査のときによく聞いた。ポエナの体内数値が、だとか、ポエナの行動が、だとか、そんな言葉を交わしている。呼ばれる言葉が名前というのなら、ぼくの名前はポエナなんだろう。
職員はまた顔にしわを寄せた。それがどういう意味を持つのかわからなかった。いままでの職員はみんなこんな顔をしなかったし、ぼくに必要以上の言葉をかけることもなかった。
「……そうなのね。よろしく、ポエナ」
「よろしく」
言われたとおりにやると、職員は目を細めた。
***
もう会うことはないだろうと思っていたのに、あの職員は毎日ぼくを呼びに来る。扉を開けて、おはようと言って、ぼくを検査室に連れて行った。検査から帰ってきたあとは、部屋から出て行かずにぼくと「お話し」をした。
ティーナはよくしゃべって、よくぼくに話を求めた。ポエナは? と聞かれても、ぼくはなにを言えばいいのかわからなくて、ティーナの言葉の意味ばかり訊ねた。ティーナはわからないことは何でも聞くようにぼくに指示した。
「おはよう」というのは朝の挨拶らしい。目が覚めて、初めてあった人には「おはよう」と声をかけるものなのだと、ティーナは言った。
「おはよう、ポエナ」
「おはよう、ティーナ」
身支度を済ませると、ティーナが部屋に入ってきた。ぼくが何をしているかは腕に付けている機械である程度わかるらしい。ティーナは口の端っこをきゅっとあげて、ぼくの髪を触った。
「ポエナの髪はいつもさらさらね。寝相がいいのかしら」
「寝相」
「寝てる間にどれだけ動いているのかってことよ」
「寝てるのに動く?」
「たくさん動いてベッドから落ちちゃう人もいるのよ」
それはもう起きてるんじゃないだろうか。そう思ったけれど、ほかのひとが寝ているところを見たことがないし、寝ているときは意識がないから判断できなかった。
「検査が終わったらいいものを持ってきてあげる」
「……いいもの?」
「いいものよ。あなたのためになるもの」
ティーナがぼくの手を握る。ぼくのためってなんだろう。よくわからない。
「今日も頑張って、あとでいっぱいお話ししましょうね」
「うん」
ぼくが返事をすると、ティーナは細めている目をさらに細めて、口の端っこを普段よりもきゅっと上げる。うれしいとか楽しいと思ったときにそんな顔になるらしい。うれしい、たのしい。初めて聞いた言葉だった。それが何なのかを訊ねると、ティーナは心がどきどきしたり、ふわふわすることなのだと言った。わくわくも、ふわふわも、ぼくは感じたことがなかったけれど、ティーナがしゃべりながらうれしい顔をするから、どんなものか聞く気が失せてしまった。
痛い検査があったあとは、しばらく「さいけつ」だけの検査が続く。さいけつが終わったあとは別の部屋に連れていかれて、職員に見られながら機械のうえを走って、「にっこう」を浴びるための小さな部屋にしばらく入る。そのあとは白い部屋に戻って、身体をきれいにする。ティーナとお話しするのはそれからだ。
「本日は病原菌の注入、発病が確認されてからと修復あとに採血をします。速度が要求される作業です。よろしくお願いします」
椅子に乗せられると、ゆっくりと椅子が倒れて行った。ベッドに横になるのと似ている。今日の拘束は両手足と頭だけだった。今日は痛いじゃなくて苦しい検査だ。痛い検査か苦しい検査が終わったあとは走るのも「にっこう」を浴びることもせずに白い部屋に戻される。
瞼を閉じた。苦しい検査は痛い検査よりも長い。早く終わればいいのにと思う。ティーナがいつも言う「がんばる」はどうすればいいのかわからないけれど、検査のとき、ぼくがしなければいけないのは、ただじっとしていることだ。これが「がんばる」だったらいい。そうしたら、ティーナの指示を守ったことになる。
部屋に戻って体を洗い、服を身に付けたころにティーナが来た。両手で何かを抱えている。
「お疲れさま、ポエナ」
「うん」
ティーナは抱えていたものを棚の上に置いて、ぼくの髪に触れた。頭の形に添って手を動かしている。
「今日は辛かったんじゃない? 頑張ったわね」
「つらい?」
「苦しかったでしょう?」
苦しかったのはそうだ。苦しい検査のときは日によって違うけれど、だいたい身体が熱くなって、重くなって、息がし辛くなる。痛いときよりも長いから苦しいと思う。
「それがつらい?」
「ええと。もうやめたいってなるのが辛いってことなんだけど……」
ティーナは眉を下げた。すこし細くなった瞳でぼくをじっと見る。
「あなたは検査が辛くないの?」
考えてみた。検査は痛かったり苦しかったりする。なにをされているのかはわからないけれど、声をあげないように、身体を動かさないようにしなくちゃいけない。それをやめたい、って思うのが「つらい」らしい。
そこでふと、思った。
「……検査をやめる?」
ティーナが一瞬うれしい顔をした。やめるってなんだろう。意味はわかる。やめる、しなくなることだ。痛くて苦しい検査を、しなくなるってどういうことなんだろう。そんなことできるものなのだろうか。
「やめたいとか、つらいとか、考えたことない」
職員の指示を聞くことと体を清潔に保つことがぼくの仕事だ。検査をするのも職員に指示されるからで、痛いのも苦しいのも指示についてきたものだった。痛いのと苦しいのがつらいだったとして、それをやめるってことは指示に従わないってことになる。そうしたときに、ぼくはどうなるんだろう。
「教えて、ティーナ」
検査をやめたらどうなるの?
わからないことは聞けと指示したのはティーナだ。ティーナはぼくが知らないことを知っている。指示に従ったのに、ティーナは顔にたくさんしわを寄せた。ティーナはたまにこんな顔をする。ぼくが何かを聞いたときばっかりだ。
ティーナは膝をついた。ぼくを呼ぶ。近付いてよく見えるようになったティーナの瞳はいつもより水気が多かった。眠いのかもしれない。ぼくは眠る前に目がにじむことがよくある。
眠いの、と訊くとティーナは首を振ってぼくの背中に腕を回した。引き寄せられて、肩がぶつかる。体が重なる。ティーナの肩に顎をのせる形になった。ぼくはティーナの真似をして、背中に手を回した。じわりと、すこしだけ触れたところがしびれるような感覚がした。
「……いつか。いつかあなたをここから出してあげるからね」
「うん」
耳元で聞こえた声は震えていた。ここから、というのがどこのことかはわからなかったけれど、いま訊ねてはいけない気がして、ただ返事をした。
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