6
ぽたぽた。落ちていく。わたしの腕から、髪から、額から、のどから、足から、胴体から、しずくが落ちる。
指の先から落ちた水滴が床に落ちて溶けた。離れていたものがひとつになるように、空いた穴を埋めるように、しずくはすっと吸い込まれていった。しみなんてできやしなかった。
「わあ、きれいだなあ」
ふとそんな声がした。街の人間たちと、トクサといっしょに夕陽を見たときの言葉だった。黄色から赤に、赤から青に、青から黒に色を変えていく空。この世に生まれ落ちてから、何度もひとりで見た光景だった。毎日見ているものだろうに、人間たちはほう、と息を吐いてきれいだなあ、とトクサと同じ言葉を吐いた。
わたしは空から視線を離して、夕日を見る人間たちを見た。それぞれに違う色の瞳が夕陽の色に染まっている。肌も服も赤い色をたたえている。きれい。小さくつぶやくと、トクサがわたしを見た。右目は赤色で、左目はいつもどおりだった。
「アサギちゃんも赤いね」
水面と同じ色してる。トクサの指がわたしの服に触れた。わたしはゆらゆらと揺れる水面を見た。わたしと同じ透明は人間たちと同じように表面だけ赤く染まっていた。
***
呼び鈴が鳴った。トクサがはーい、と返事をして玄関へ走る。わたしはガラスの器を肌に這わせるようにして机に置いて、空いた手でペンを持った。腕からしたたるしずくが順調に器にたまる。
「アサギちゃん、アオがおもちゃ直してほしいんだって」
ゆっくりと首を振ると、トクサと買いに行った日誌にしずくが垂れた。顔をおさえる。急いで腕を動かしたせいで、しずくを貯めていた器がひっくり返った。服にしずくが染み込み、首飾りを濡らす。閉じた指のあいだから、またひとつしずくが落ちた。
トクサが足音を立ててそばに来た気配がした。かさ、と花同士がこすれあう音がする。わたしの顔を覗き込む。眉尻を下げて少しだけ口を開けていた。その顔はさいきん覚えた。「心配」か「かなしい」顔だ。日誌を閉じてトクサに向き合う。大丈夫。わたしの声に、トクサはすこし視線をさまよわせてから、手に持っていた花束をわたしに持たせた。
「これ、街のみんなから。はやくよくなるといいねって言ってたよ」
トクサが街へ行くたび、だれかがここへ来るたびにわたしはその言葉と花やたべものをもらう。トクサからわたしの状況を聞き出したのだろう。この街の人間はお人よしが多いから、施しができない状態のわたしを心配してくれる。
トクサは街の子供たちにするようにわたしの頭を撫でた。
「アサギちゃんはここにいてね」
すぐ帰ってくる、といって彼は出て行った。魔術が使えなくなったわたしの代わりに、街に施しをするのだ。彼はそれくらい、水媒体の扱いを心得つつあった。
花弁を撫でてから、さきほど閉じた日誌に手をかける。わたしが魔女として生まれ落ちてからかかさず書いていた研究日誌だ。気がはやるのをおさえて文字に目を通す。時間がない。見落とすわけにはいかなかった。
トクサはたぶんわたしのことをなんらかの病気にかかったのだと思っているだろう。わたしにも原因はわからないけれど、これは知っている。魔術がつかえなくなった魔女はあぶない。わたしたちは研究をするのが存在理由なのに、ずっと魔力を貯めたままでいると媒体に侵食されて死んでしまう。魔女の死因は侵食か同類に殺されるかのふたつしかない。
術が使えなくなった日から毎日確認している瞳の色は、もうずいぶんと色が抜けてきている。トクサがつけてくれたわたしの名前がなくなり始めている。水面を見て自分のすがたを確認するたび、じっくり観察しようとしてからだから落ちたしずくが邪魔をするたびにのどよりもずっと奥底からなにかが込みあがってくるような気持ち悪さに襲われる。ずっと背筋がつめたく、気が落ち着かない。
媒体に侵食され始めた状態からもとにもどった魔女はいないとされていた。当然だ。からだを治すにも魔女でい続けるにも魔術を使う必要がある。なぜ魔術が使えないのかと研究するにも魔術が必要だった。ほかの魔女に頼ろうにも、連絡手段がない。なにより、魔女はひとつの媒体しか扱えない。わたしを生かせるのはわたししかいない。
トクサはさいきんうれしい顔をしてくれなかった。前は、わたしがトクサの言うことをきくたびに笑ってくれていたのに、今はぎゃくになにをしてもつらい顔をする。わたしが動くとしずくがおちるから、からだの不調を隠せないのだ。あんなに街のみんなとたのしい顔で話していたのに、わたしがこうなってからはすぐ家に帰ってくるようになってしまった。遊びに行かなくなってしまった。トクサは、もっところころ表情を変えているほうが似合うのに。
トクサに笑ってほしくて、これまで書いてきたすべての研究日誌を見返した。どこかにてがかりが載っていないか、なにか少しでも、魔術が使えるようになる方法がないか、端から端までじっくり読み直していく。けれど、日誌に書いてあるのはどうして熱がうまれるのだとか、雷を閉じ込められるのかだとか、そんなつまらないことばかりだった。わたしは、これまでに一度もどうやって魔術が発生するのかを考えたことがなかった。
わたしはいままで何をしてきたんだろう。魔力について研究するのに、魔力の塊と言える自分自身のことを考えなくてどうするんだ。また日誌にしずくがおちた。胸が焦げるようだ。
媒体が扱われている感覚がした。トクサが、子供の願いをかなえている。魔術がつかえなくなってから、媒体の動きがまえよりも明確にわかるようになった。水に触れていれば、街にいるだれがどのあたりで何をしているのかまでを知ることができる。トクサがまっすぐ家に帰ってくるのもわかってしまう。
トクサはうまくおもちゃを直せたようだった。トクサは媒体と仲良くなるのが上手いから、日を追うごとに媒体の扱いがうまくなっていく。魔法使いは媒体とどれだけ交流をはかれるかで術の扱いの差が生まれる。どんくさいところもあるけれど、それを補って有り余るくらいに、魔法使い──
ぼたり、と大きな粒が床に落ちた。それと比べ物にならないくらいにおおきなものが、水に落ちた。息が詰まる。子供が叫ぶ声が聞こえた。トクサだ。トクサが落ちた。血を、流している。浮かび上がる努力もできずに、異常な速さで沈んでいく。媒体がトクサの口から体内に入る。ひゅうう、気持ち悪い音を頭のどこかで聞いた。
日誌を投げて玄関を出る。同時に激しく呼び鈴が鳴った。視線の先には二隻の小舟があって、片方に子供がのっていた。アオだ。彼がわたしのすがたを認めるよりも早く、わたしは水の中に飛び込んだ。
ゆったりと泳いでいた魚たちがわたしを見る。肌が溶ける感覚がする。媒体がわたしの全身にトクサの居場所を押し付けてくる。ちょうど小舟が浮かんでいた真下あたりをトクサは沈んでいた。手足をがむしゃらに動かして彼のもとまで泳ぐ。こっちへこいと何度念じても、引き揚げろと望んでも、媒体が応えることはなかった。
トクサは頭から血を流していた。傷口を手で押さえるが気休めにしかならない。腕をつかみ、体を抱き上げて足を動かす。つま先の感覚がない。開けた口から大きな気泡が漏れた。
水面から顔を出すと、子供が手を伸ばしていた。トクサの服をつかんでもらい、わたしは足を下から押して船に上げる。
力任せに小舟に乗り込む。トクサ、トクサと呼びかけている子供と一緒になって頬をたたいた。トクサの顔色は青白く、いつかの夜に上下していた胸はすこしだって動かない。いつもはころころと変わる表情も叩かれるままになって、小さく空いた口からは体内に入った水がぽたぽたと垂れている。水が入っているから呼吸ができないのだ。人間は、呼吸をしないと死ぬ。死んでしまえば、魔術では二度と直せない。
どくり、と胸が大きくなって、ぶわりと汗が噴き出した。トクサのからだがはじけ飛ぶさまが頭をよぎる。気持ち悪いくらい手が震えた。体内に、入れようとした魔力が体をめぐる。はやく治療をしなければとおもう。同時にわたしが触れたせいでいのちを失う彼が安易に想像できてしまう。でも、このままでは。ごくりとつばを飲み込んだとき、ぼろぼろと涙をこぼす子供が目に入った。死なないで、と声をかけている。わたしも、トクサに死なないでほしい。ぼうっとしているあいだに冷たくなっていくのは嫌だ。
両手をたがいに強くつねってからトクサの胸に両手を押し当てた。首飾りが揺れる。彼の肺を満たす媒体を感じる。これを外に出せれば、トクサは息ができる。また動きだせるはずだ。ぽたたた、と連続して額から、髪からしずくが落ち、両腕からはつたってトクサの上に落ちた。首飾りが揺れる。
掌から魔力を流し込んでなかの媒体に干渉する。でていけ。水は動かない。でていけ。まだそこにある。でていけ。ずっとおのれのからだのように動かしていたのに。でていけ。トクサの胸に爪を立てる。でていけ。わたしはこのほかに方法を知らない。
でていけ、でていけ、でていけ、でていけ!
「でていけ!」
大声で叫んだとき、媒体がぐるりと回転した。魔力が媒体に受け入れられた心地がする。でていけ。もう一度念じると、さきほどまでの頑固さがうそのようにすんなりと媒体が動き、トクサの口から帯状になって外に出て行った。魔術が、つかえた。
名前を呼びながらもういちど頬をたたく。まだ胸は動かない。もう水はなくなったのに、呼吸はできるはずなのに。これ以上どうすればいいのかわからず、ひたすら胸を押し続けた。通常の動きができるように、本来の動き方を教えるために。媒体で肺に空気を送り込みながら、ずっとそれを繰り返す。額の傷の手当も済ませる。
彼の最後に見た表情は悲しい顔だった。わたしが見たいのはそれじゃない。わたしは、トクサの笑った顔が見たいんだ。うれしい顔でも、たのしい顔でも、なにか企んでる顔でもいい。おこった顔でもいい。悲しかったり、今みたいな何もないものでなければなんでもいい。なんでもいいから、ほら。
びくり、とトクサのからだが大きく波打った。次いでほそいところに、空気が通る音がした。腕がびくびくと連続してふるえ、眉間にしわを寄せて苦しい顔で大きくせき込む。そうしてから息を吸い、吐いた。一度だけではない。なんどもなんども、胸が上下している。意識は飛んだままだけれど、彼は確かに呼吸をしていた。ああ、よかった。彼は生きてる──
ぱたたた、と硬いものに水がぶつかる音がした。
はっとして自分の腕を見る。わたしの腕は、体は、絶えずしずくを生み出していた。これまでの比じゃない。常に体から雨が降っているようなそんな勢いで、わたしのからだは水を吐き出していた。子供が驚いた顔で私を見る。
もう魔術はつかえるようになったのに、どうして。視界の端で媒体が波打ったのが見えた。誰も動いていない、風も吹いていない、水面が揺れる要素なんてひとつもないのに、たった一部だけが奇妙に動く。そして、それは、わたしを見た。
皮膚の表面だけに冷たい雷が走った。膝を立てて立ち上がり後ずさる。追いかけてくるとすぐにわかった。口がからっからに乾いて、でもぜったいに水は飲みたくない。いま媒体を体内にいれれば、わたしは。いまにも奇妙なうねりが襲い掛かってくるように揺れた。わたしはトクサを子供に任せてその場を逃げ出した。
***
走って、走って、走って、走って! もっとはやく、もっと遠くに! 腕を振って、足を上げて、地面をける。子供たちみたいに大振りに、けれどもっと真剣に、早く。もっと遠くに逃げなければ、できるだけ、水のないところに。そうやって腕を振るたび、足を上げるたびにわたしの後ろでぽたりと音がする。わたしから零れ落ちたしずくが、地面を少しだけえぐる音がする。終わりが追いかけてくる。
魔術を使えないのがこんなにももどかしいなんて、考えてもみなかった。走るのがこんなにも遅くて、つらくて、くるしいなんて初めて知った。こんな、最後に気付くなんて、思ってもみなかった。
手が視界に入るたび、指が消えていく。しずくをまとって、ぽろぽろと雨のように地面に落ちてまだらを作る。もう首飾りに触れることができない。あの暖かさを感じることができない。首を絞められたような気分になった。耳元で何かがくすくす笑う。時折残念そうに息をつく。
足がもつれて、すこしの浮遊感のあと思いっきり地面に顔を打ち付けた。首飾りが顎に当たる。痛みはない。体を支える腕がない。立ち上がる足の感覚も、ない。こけたのも初めてだ。どう立ち上がればいいのかわからなかった。視界がゆがんで、生暖かいものが頬を濡らした。うめき声が漏れる。地面に額をこすりつける。目からぽろぽろと落ちていく熱いものがわたしでできた小さな空間に模様を作った。首飾りが濡れて、夕日の色に染まる。
逃げられない。わかっていた。どれだけ水のないところに行ったって無駄なんだ。ずず、と洟をすする。だってわたしは、水そのものなんだから。
のどに詰まってせき込んで、そんなことでさえ初めてだった。人間ならうまれたばかりの赤子だってわかることを、わたしは今、初めて知るのだ。地面に頬をつける。もう、頭を打ち付けることさえできない。胴がない。
それでもわたしは意識があった。人間でないからだ。生きていないからだ。最後の最後まで水で、ただの意識でしかない。くやしくて、いやで、唇をかんだ。思いっきり、噛みちぎってやる気持ちで歯を立てた。でも、血も出ない。感覚もない。もちろん噛みちぎれもしない。
強く目をつぶって、開いてを繰り返してにじむ視界をなんとか取り払った。一番近いのは土の色、でも眼球を動かすとなんとか空が見える。黄色から赤に、赤から青に、青から黒に色を変えていくきれいな空。あの子と見た空。街の子供たちが、大人たちが美しいと言った空。水が形を変えて登っていくところ。
右目の視界がゆがんで、次第に見えなくなった。視界が回る。左目もだんだんゆがんでいく。赤と、青と、黒が奇妙にうずまいていく。汚く濁る。
もっと見たかったのに。もっと、あの空を、この先を、見たかったのに。
「もっと、生きた
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