5
目を覚ますと、世界は暗い。窓からさしてくる光はなくて、部屋は真夜中のような冷たい闇をもっていた。体を起こして伸びをすると、口の端からごぽごぽと気泡があふれていった。
両手を軽く合わせて力を込めると、指のあいだからやわらかな光が漏れた。そっと開くと、光が閉じ込められた水の球体がころりとてのひらを転がる。今日はうまく丸まった。指で押し上げるように放ると、気泡のようにゆれながら天井に張り付いてまばゆく光る。すこし明るくし過ぎてしまったみたいだ。
明るくなった部屋を髪を触りながら横切る。研究日記を開いて眠る前にやっていたことを確認する。昨日はなぜ魔力が体を動かすのかについて考えていたけれど、手がかりさえつかめなかった。どのように作用して魔力が体を動かしているのかがわかれば、わたしの研究は大きく前に進むのに。
なにか手がかりがないかと、ひとつまえの日記までさかのぼって目を通す。明かりの研究、熱の研究、いちから斜めに読んでいって、もうすぐおわるというところで、緑の封筒が顔を出した。あの子がこの家に来たときに持ってきた緑の魔女からの手紙だった。あの日のことを思い出すといつもすこしふわふわする。ついで首飾りに触れた。水の中でも、ほんの少し暖かく感じる。もう一度手紙を読もうとして、手が止まった。そういえば、今日はあの子が呼びかけてこない。
なんとなしに、気分が悪くなった。
日記と明かりをつれて部屋を出る。ここを急いで登ったのは初めてだ。ばちゃ、と大きな音を立てながら水面を割った。そのまま媒体の上に乗り、階段を滑るようにしてのぼる。窓からは水で屈折した月がゆらゆらと揺れて見えた。
ドアを押し開けると、部屋はまっくらで、極端にしずかに思えた。夜なのだから当たりまえだけど、そうじゃない。いそいでいつものところに明かりを押し込み部屋全体を照らした。かきおきはない、なら家の中にいるはず。日記を机の上に放り投げて、あの子がよくいる場所を端から見ていく。まずはあの子の部屋、つぎに台所、つぎに居間、つぎに──……とそこまで見て回って、やっと媒体で探せばいいことに気が付いた。これでは、ただの人間じゃないか。
すぐに媒体で家じゅうのものをひっくり返した。ベッドのした、収納棚のなか、街の子供が好んで隠れそうなところはすべてさがした。けれど、どこにも、あの子のすがたが見えない。びりびりと目の端が細かくしびれる。
いつもちょろちょろとわたしのそばを歩くあの子、目を器用に細め口をゆがめてわらうあの子、魔力を使っては媒体に振り回されてドジをするあの子がいなかった。呼びかけたって、返事がない。どんなときでも返ってくる、ちょっぴり舌足らずなことばがない。
下から這い上がってきたなにかが耳の周りではじけるような音がした。うるさい、首を振る。無駄に上下する胸をおさえながら息を吐ききった。落ち着け、落ち着け。考えろ。眠るまえはなにをして、あの子はどこにいたっけ。
目を閉じると、あの子がにこにこしながら手を振ったようすが浮かんだ。妙に楽しそうだった。あの子はいつも楽しそうだ。だから、何も気にしないで部屋にはいった。わからない。つつ、と背中に冷たいものが伝っていくような感覚がして、自然とからだが震えた。足元がどろどろとくずれるような、水に変わっていくような。考えがまとまらないのに妙に頭は冷たくさえて、いま、わたしがすべきことを探していた。
ぎし、と屋根がきしんだ。慣れない重みに悲鳴を上げたような、そんな音だ。わたしの力でできたこの家は、強い風や大雨にさらされたってびくともしないのに。すぐさま外に出て屋根に上る。そこには、あおむけになってまぶたを閉じるあの子がいた。あのこが、いた。
すがたを認めると足の力が抜けて、その場に座り込んだ。苦しかった胸のつっかえが取れて呼吸が楽になる。よかった。ほう、と息をついて視線を落とすと、わたしは首飾りを強く握りしめていた。そんなことをした覚えがない。手を離そうとするが、うまく力が抜けなかった。自分のからだなのに制御できないなんて。軽く振ってもこわばりは取れない。だからといって強くひっぱるわけにもいかず、空いた左手でむりやり指をのばすことでなんとかとることができた。
もう一度立ち上がる気力は起きない。四つん這いになって彼のそばに行く。トクサは両手足を広げたまま動かない。無防備だった。もとの寝床にかえしてやらなければ。頬をたたいたり、名前を呼び掛けてみてもトクサは唸るばかりで目を開こうとしなかった。眉間にしわを寄せ、ゆっくりと首を振ったのちおとなしくなる。困った。わたしはどうやって人間のまぶたを開かせるのかを知らない。
どうしようかと迷っているうちにあることに気が付いた。そういえば、人間が眠っているところをみるのは初めてだ。よく小さな失敗をする彼は、わたしのまえで居眠りをしたりしない。作った食事を、わたしよりさきに食べない。
白いまぶたは閉じられて、たまにぴくりと動く。口は小さく開いてもごもごと動くときがあった。腕をにぎってみても、ちょっとした音を立てても覚醒する気配がない。こんな、鈍い感覚のまま夜を過ごすのか。わたしは眠っていても、媒体があるからいつでも周りがどんな状況にあるのか感じ取れる。人間すべてがこうなら、街全体に壁を張っておいたほうがいいかもしれない。
トクサの全体をみながら、水が薄く持ち上がるようすを想像した。薄茶色の髪、水面が揺れる、短いまつげ、子供の腕くらいの薄さにする、細い首、音を立てないように壁を高くしていく、上下する胸、壁が建物の高さを、越え
あ。ちいさい音が遠くで聞こえた。せっかく順調に高くしていた壁が音を立てて崩れる。水面が大きく揺れて、舟がかたむく。橋が水をかぶる。魚が驚いて街の中心に逃げる。そのすべてを感じ取った。あ、あ。また小さい音が聞こえる。胸はあいかわらず上下している。規則的に空気を取り込み、吐き出している。ぷつぷつと肌からなにかが噴き出した。あのなかには、臓器がたくさんはいっている。臓器は骨と肉に包まれていて、体中を血潮が巡っている。耳に手をやると、さっきから聞こえていた音がより大きくなった。あれは生きるためのうごきだ。魔力があるからじゃない。
人間は、自分で生きているんだ。
大きな粒が頬を伝った。不自然に吸った空気がのどを詰まらせて、つぶれて、醜い音を立てた。
「……う」
からだが動いた。なかにきしむ骨があることを表すようにゆっくりと腕がもちあがり、わたしの視線をうばう。腕はしろいまぶたを乱暴にこすって、なかにある日に焼けた葉の色を明らかにした。頭が動き、首の肌をひきつらせる。
「……あ、あさぎちゃん。おはよう」
生きているトクサが、わたしをみてうれしい顔をした。顎にまで伝った粒が、彼の腕に落ちた。
その日から、わたしは魔術が使えなくなった。
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