3
目を覚ますと、世界は暗い。窓からはうっすらと光が差し込んで、部屋はほんのりと照らしている。体を起こすと髪がふわりとゆれた。手を組んでぐっと前方に伸ばす。口の端からもれた気泡が頬や目じりをそってのぼっていった。
両手を合わせて、すぐに解いた。今日は少し違った作り方をしてみよう。右手の、ひとさし指に力を集める。文字を書くときのことを頭に思い浮かべ、指の通ったあとに線ができる様子を意識する。小さな水流が出来たのを確認して、円を描いた。形が崩れないように、続けて少しずつひねりをくわえながら指を動かしていく。線となった水流がつながりあい、淡い光を放ちながら少しいびつな球を作った。なかに光源をいれるのをすっかりわすれていた。
球を伴いながら研究日記を手に取った。ふわふわ浮く前髪を触る。淡い光を近づけて手元を照らしながら、裏表紙から三枚めくった。きのうは、どんなことがあったんだったか。文字に目を滑らせるまえに、わたしの街では見ない、緑色の封筒がふわりと浮いた。植物でできているそれで、弟子を取ることになった日を思い出した。
「透明の魔女様ー! 朝だよー!」
上から声がする。呼び鈴をつけるのはやめた。あの子がいらないと言ったからだ。返事を催促することばを聞きながら、手紙ごと日記を閉じた。わたし以外の声が家から聞こえてくるのは、いまだになれない。
「おはよう! はやくごはん食べよう」
研究室まであがると、トクサと目が合った。彼はにぱっとわらって席を進める。研究室の真ん中にさいきん置かれた二人掛けの食卓には、パンとベーコン、べつの皿にサラダが盛られてあった。すすめられるままに席に座ると、向かい側に腰掛けたトクサが手を合わせる。わたしも真似をして、目を伏せた。
「いただきます!」
同じ言葉を口の中で転がす。これも、まだ慣れない。
トクサは、すぐに街になじんだ。彼の存在が知れたのは、彼が来たその日に家に子供がたずねてきたからだ。気に入っているおもちゃの腕が取れてしまったのだという。外に出ると一緒にトクサがついてきて、そこからわたしに弟子ができたことが広まった。トクサはよく笑い、よく話し、よく動くので街の子供たちと気が合うのだろう。大人たちもまた彼を受け入れているようすだった。
パンをかみちぎった。口を動かして飲み込む作業を繰り返すと、サラダに塩を振りかけていたトクサがほほえんだ。わたしに食事をするように言ったのは彼だ。あまりにも食べろとうるさいので言うとおりにしている。家にはあの一日だけで、トクサの部屋と台所と食卓が増えた。料理をするのはすべてトクサで、そのおかげで水媒体を使った熱の発生はもうできるようになった。
コップや皿をひっくり返しそうになりながら食事をすすめていたトクサが、ふと思いついたように声を出した。
「透明の魔女様には名前はないの?」
なまえ?
「名前。僕はトクサって名前でしょ。緑の魔女様はヒスイってお名前がある。じゃあ透明の魔女様は?」
トクサの手に力がこもった。表情がすこしゆがんでいる。どうしたんだろう。じっと見つめてみたけれど、彼がなにを考えているかはわからなかった。あたりまえだ。
わたしの名前は「透明の魔女」だ。ほかのなにものでもない。問いに答えると、トクサは眉尻をと口端を下げた。
「それは透明の街にいる魔女、って意味。なまえじゃないよ」
ベーコンを二つ折りにして口に入れる。塩辛い脂が舌の上で広がり、顎を上下に動かすと簡単に身が裂けて細かくなって、味が薄くなる。
真剣になるトクサがよくわからない。透明の街にいる魔女はいま、わたししかいない。同じ色の名前をもつ魔女が同時代にふたり存在するのはあり得ない。世界で常に一人しかいない存在を表す言葉なのだから名前でいいではないかと思う。名前なんて、呼びかけられれば十分意味をなしているじゃないか。
だが、それではトクサは気に食わないらしい。しばらくわたしの顔をじっと見つめる。身を乗り出しているせいで皿の端っこが体に押されて、パンがつるつると滑る。パンが皿から滑り落ちたころに大きくうなずいた。
「よし、きめた。今日から透明の魔女様のお名前は“アサギ”で決まり!」
トクサのことばはいつも唐突だ。今日はそれなりにつながりはあったけれど、それでもわたしは驚かされる。何度かまばたきをしてトクサを見上げると、彼はわたしが訊ねたかったことを察したのか、自分の瞳を指さした。
「緑の街では、子供の瞳の色で名前を付けることが多いんだ。緑の街では透明の魔女様の瞳の色を浅葱色って呼んでる、だからアサギ」
ということはトクサの瞳の色はとくさいろ、なのだろうか。食事の手を止めてすこし濁った緑色を見つめる。光にあたるとほんの少し色を薄め、影では濃くなり、細められるとにじむ。数々の場面で色を変える緑は、ころころと表情の変わるトクサにぴったりだ。
「魔女様はこんどからアサギって名乗るんだよ。言ってみて?」
トクサは口を大きく二度ひらいて、最後に引き伸ばした。それを真似して声に出す。あ、さ、ぎ。ひとつずつ丁寧に出した音は、舌の上で軽く転がって、のどに飛び込んできた。すとんと胃に落ちる。あさぎ、アサギ、アサギ。胃に落ちた単語はぼんやりとひろがって、すこし暖かかった。
「ふふ、アサギちゃん」
声が高い。顔をあげると、トクサは目を細めて笑った。トクサはよくこの顔をする。このまえ、腕を修理した男と同じ表情だ。なんで笑うんだろう。訊ねると、彼はわたしとは逆の向きに首を傾けた。
「反応してくれたのがうれしいんだ。気に入ってくれたみたいでよかった」
トクサはさらに笑みを深くしてパンにかぶりついた。笑って、目を細めていたらうれしいのか。食べて、と催促されてサラダを口に入れた。ほんの少し苦い。わたしが口を動かすのを見て、トクサは「うれしい」顔をした。これがうれしいときの顔、なら、このまえ来たふたりも、子供たちも、みんなうれしかったのか。街にいったときに笑うのも、うれしかったからなのか。人間の表情が感情を表すなんて初めて知った。
ひとりひとりのうれしい顔を思い出した。歯が欠けていたり、顔じゅうしわだらけであったり、洟が垂れていたり、ひとつひとつ違うけれどみんな笑っている。施しをうけるのは、うれしいんだ。望みが満たされるとうれしいらしい。
パンをかじる。口のなかがもそもそした。コップに入った水をあおる。食べるときは、水分を取るのがいいのだそうだ。トクサが来てするようになった習慣のなかで、わたしは飲むのがなによりすきだ。食べ物を飲み込んだときは体の中を通っていく感覚がするけれど、水は口に入れた瞬間に消える。じわりと口内にしみ込む。からだじゅうが潤う。それがとっても気持ちいい。ふだん自分があやつっているものを体内にいれるのは、すこし変な印象があるけれど。
つぎにトクサのうれしい顔を思い浮かべた。日の当たった葉の色の目を器用に細めて、口をゆがめて笑うすがたが、あたまのなかにも目の前にもある。けれど浮かんだのは笑顔ばっかりじゃなかった。トクサの表情はころころと変わる。
笑顔以外の表情はたくさんあったが、どの顔がどういう気持ちを表しているのかがさっぱりわからなかった。笑うとうれしいなら、目を見開いたときは? きゅっと顔をしかめたときは? ……うれしいときって、どんな心地がするんだろう。全く想像がつかない。
もしわたしに人間たちとおなじように感情があらわれるとして、望みをかなえたとき、魔力を解明したとき、わたしはいったいどんな感覚を覚えるんだろう。
***
わたしはトクサと一緒によく街へ行くようになった。買い物をしたり、トクサがみんなと話しているのを聞いたり、トクサに泳ぎや術を教えたりする。施しをする回数も増えた。
人間たちはトクサを見つけるとうれしい顔をして近づいてきて、わたし達に挨拶をする。おはようございます。アサギ様、お散歩ですか。今日もいい天気ですねえ。名前を呼ばれたときは不思議だった。どうやら、わたしが知らないうちにトクサが触れ回ったらしい。そのときのわたしの様子を見たトクサの瞳は弓なりになって、うれしいかおとは少し違うふうに笑っていた。なんとなく胸のあたりがちりちりとして、媒体でトクサの袖をひっぱると、彼は目を見開いて手足をバタバタさせてから水に落ちた。溺れる前に持ち上げると、息をついた後わたしに頭を下げる。
「ごめん、そんなに怒らないで」
おこる、がどういうものなのか、いまいちわからないけれど、これだけはわかった。わたしは別におこってない。たぶん、おこってない。
「アサギ様、ありがとう!」
まちなかで施しをしたあと、子供がわたしをみてうれしい顔をした。ポケットのなかに手を入れて何かをつかむ。握りこぶしをつきだして、反対の手でわたしの手をとった。これあげるね! 掌に転がったのは紙に包まれた飴玉だった。この街で作られている嗜好品だ。扇型に広がった端っこを引っ張ると中身が見える。わたしの肌の色が見えるくらいに透明で、けれど気泡のせいですこし白っぽく見えた。
指でつまんで口に入れる。硬い音を立てて歯にぶつかった。じわりと甘い。トクサのまねをして子供の頭に手を置いてお礼を言うと、子供はおどろく顔をして、ぱっと頬を赤く染めた。
「アサギちゃん、おいしい顔してる」
トクサがわたしの顔を見て笑った。これはうれしい顔じゃない。たのしい顔だった。どんな表情だろうと水面で自分のすがたを見てみても、いつもとなにも変わりない。わたしは人間たちみたいに表情が変わらないのに、なぜかみんなはわたしがどんな顔をしているかわかるのだ。両手で頬の肉を押し上げると、視界がつぶれて、わたしの顔もつぶれた。
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