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呼び鈴が鳴った。数は控えめだが元気のいい音だ。礼儀正しい子供だろうか。それとも若々しい大人かもしれない。頭に思いついていたことをすべて日記に書き留めてから上着をと帽子を身に付ける。帽子のせいで押さえつけられた前髪が目に入ってしまって、額との隙間に手を差し込んで横に流した。
今日の水面はとくべつ静かだった。風がないせいだ。しんとして、けれど冷たくはない。自由に泳ぐ魚たちを遮らずに見せる真平な水面に、子供の乗る船だけがゆがみを与えていた。ほんの少しの波で日をはね返してきらきらと輝く。わたしのところまでは届かない。
船に揺られ、うまく体制を整えられないでいた子供がこちらを見た。
「こんにちは、透明の魔女様!」
わたしをその丸い瞳に入れたその彼は、みるみるうちに顔をほころばせて笑った。この街の人間でないことは明らかだった。足をしっかりと覆う靴、指先までをつつむ袖、つねに水とともにあるこの街の人間の服装じゃない。なにより、わざわざわたしを色の名前で呼ぶのは、ほかに身近な魔女がいるという証拠だった。
一歩踏み出すと、わたしの足は何の抵抗もなく、まるで水面のほうから吸い付くように受け止められた。ゆらりと足元の水が一瞬揺れる、穏やかに泳ぐ魚たちがわたしをみる。水面が私の一部になったように感じる。船のそばまで来たわたしを見た子供は、日に当たりすぎた葉の色の瞳を見開いて、数回瞬きをして見せた。
「不思議な髪の色だなあ。白っぽい水色から、だんだん透き通ってる」
魔女の髪色が人間とは違うのは当然だ。驚くようなことではないのに、あまりにも子供がわたしの髪を見つめるものだから、視界にちらつく毛先を指でつまんでみた。見やすいようにひっぱるが、髪は見慣れた色でなんの新鮮みもなかった。
上着から出た肌がだんだんと熱を持ち始めていた。腕をおろして用件を訊ねる。すると子供ははっとした様子で目を開くと、いそいそと身だしなみを整えだした。おかしいところがないかを確認し、背筋を伸ばし、指先を伸ばした両腕を体の側面に合わせる。頬はすこし上気して、瞳がうるんできらきらとかがやいて見えた。
「緑の街から来ました、トクサといいます! とっ、透明の魔女様にお、かれましてっわっ?! ああああ!」
子供はおおきく息を吸い込んで、けれど喉の詰まった声で格式ばったあいさつを述べようとした。だが、不安定な船の上で足をそろえたのがきっと一番いけなかった。
しずかにしていた風が突然強く吹き、水面が大きく波打った。ぴたりと足を閉じたままの子供は揺れる小舟の上で重心がおぼつかず、そのまま後ろにひっくり返った。水しぶきが上がり、飛んできたしずくがわたしの服や肌や髪にしみこんでいく。
すこし船内に水が入っただけで済んだ小舟がゆらゆらと揺れて小さな波を作った。そのふちに衣服に包まれた手がかかり、体を持ち上げようとして、失敗した。下手だ。こんどこそ小舟は大量に水の侵入を許してしずむ。
まずそれをもとの状態に戻して水を抜いた。媒体で子供をうかせ、椅子を作り座らせる。ほかの街の人間はあまり泳ぐことができないと、いつか緑の魔女から聞いたことがあった。これなら誤って溺れることもないだろう。
子供はきょろきょろしながら自分の状況を把握して、すごい、と高い声を上げた。ちょいちょいとひじかけを指でつついてみたり、かと思えば手をつっこんで閉じる開くをくりかえしたり、濡れた服に驚いたりと忙しい。どんなかたちをしようと水は水だ。
じっと見上げていると視線が合った。ぱかっと口を開けてあやまったあと、表情をひきしめる。つまりつつではあったが先ほど言いかけた台詞を言い終え、それから、大きな声を出した。
「ぼくを弟子にしてください!」
弟子。子供の顔がななめに傾いていった。帽子が少しずれて視界を遮る。わたしの顔が傾いていたらしい。つばをひっぱり元の位置になおす。真剣な顔をした子供がわたしのことばを待っていた。
わざわざここまで来なくても、街にいる魔女に弟子入りしたらいいのに。なぜここに来たのかを問うと、彼は小さく声を漏らしたあと、荷物の中から大事そうになにかを取り出した。見覚えがある。
「ヒスイ様からのお手紙です」
彼の幼い手にあったのは緑色の封筒だった。わたしはあれを知っている。紙のようにみえるが、触り心地は若葉のように柔らかで、木の幹のようにつよい。あんなに丁寧に扱わなくとも破れることなんてないだろう。ヒスイということばも、知っている。わたしが生まれたとき、うすらと笑みを浮かべながらやってきた緑の魔女がもつ名前だ。彼女は人間だったころの名前を好んで使っている。
手紙を受け取る必要はなかった。わたしが手紙の存在をみとめてすぐに子供の手から離れて目の前までやってきたからだ。手紙はみずから封を開き、中から手で握れるほどの黒い塊をだした。種だ。それはわたしの掌の上にころりと転がると、わたしの魔力を吸ってみるみるうちに芽を出し根を張り、やがて人の形をした小さな幹となった。頭部のくちらしき部分がぱくぱくと動く。
『お久しぶり、ご機嫌いかが?
とつぜん私の街の子供がきて驚いた? その子ね、私の弟子なの。緑の媒体はだいたい扱えるようになったから、ほかの魔術を覚えてほしくて、あなたのところに行ってもらったのよ。驚いてもらえたかしら。なにも知らせなかったけれど、引き受けてくれるわよね? やさしいあなたのことだから、きっとうまくやってくれることを願っています。
そういえば、このあいだは雨をありがとう。媒体たちがとっても喜んでたわ。黄色の魔女からの依頼だったのかしら、雷がけっこう鳴っていたわね。とってもうれしそうに鳴るものだから、ついつい笑っちゃった。ねえ、あなたはきちんと家にいた? あなたは雷に弱いんだから、ちゃんと隠れていないとだめよ。
トクサは素直でドジで可愛いの。きっと、可愛いあなたと仲良くなれると思うわ。よろしくね。またお話ししましょう』
彼女が目の前にいるような勢いで(しゃべり口は穏やかなのだけれど)話した人型の幹は、時を巻き戻すようにして種に戻った。ころりと掌を転がる種を見、そしていまだ緊張した顔でわたしを見つめる子供を見る。彼は両手を膝におき、のどを上下させたあと、勢いよく頭を下げた。薄茶色の髪がゆれる。
「よろしくおねがいします!」
彼が頭を下げる理由がよくわからない。けれど、彼がわたしの弟子になり、わたしが彼に術を授けるのは変わりなかった。そこがはっきりしているなら、わたしの行動は決まっている。緑の魔女からの依頼を受けたことを伝えれば、子供はぱっと顔をあげ、笑顔で礼を述べた。ほかの魔女からの依頼をこなすのは当然のことだ。わたしはまだなにもしていないのに。人間は、よくわからない。
家までの道を媒体で作り、そのうえに子供をおろしてからそういえば、と思いついた。依頼を受けたはいいけれど、教える方法がまったくわからない。わたしは弟子を取ったことがなかった。弟子の存在は知っている。魔女の弟子、魔法使いというのは魔術が使える魔女以外のもののことだ。体を動かすための少ない魔力を使って、わたしたちよりも小規模な術を行う。
緑の魔女のもとでどういうふうに学んでいたかを聞くと、子供は首をひねって唸り、指折り数えた。
「ええと、ヒスイ様のお家に住まわせてもらって、研究のお手伝いをしたり、術式を教えてもらったり、魔術を使って簡単な行動をしたり、媒体や街の友達とあそんだりしてました」
じゃあそのとおりにしよう。媒体を動かし、家のそばにかためる。わたしの部屋と同じくらいの大きさがあればいいだろうか。自分の部屋をあたまに想像する。床、壁、窓と屋根を構成する。床がしっかりしたら、寝床と、本棚と、机を配置して全面に白く色を付ける。通路を作ってわたしの家とを廊下でつなげれば完成だ。家のなかに入りきちんと研究室と小屋が行き来できることを確認する。外に出て今日からここで住むように言うと、子供はぽかんと小屋を見上げ、ゆっくりとわたしに視線を移し、また小屋に戻した。
「と、透明の魔女様は、ぜんぶ媒体でやっちゃうんだね……」
魔女なのだから当然だ。そう答えると間抜けな顔でええ?と首を傾げられた。緑の魔女はそうではなかったのだろうか。認識にずれがある。問うてみようとして、やめた。そうか。こういうこともやらせたほうがいいのか。いままではすべて自分でやってきたけれど、考えを改めなければならない。子供が言いたかったのはそういうことだろう。ほしいものがあったら自分で作るように言うと、そうするには魔力が足りないと訴えられた。なにかさせるには、まずはなにができるのかをまとめることから始めなければいけなさそうだ。
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