一章

第一話 ちちうえ

 赤子の誕生。それは親にとって幸福の絶頂期である。


「パパでちゅよ~」


 我が群青ぐんじょう家に待望の長男が生まれた。

 俺は居間で生後一ヵ月の息子を両腕に抱えながら、そして小刻みに揺らしていた。


 しかし可愛い。可愛すぎる。

 もしや天使となるべき子が、間違えて我が家に生まれてきたのかもわからん。

 汚れなど知る筈もない瞳が愛しいぞ夕陽ゆうひよ。

 ふわふわの柔らかいお手てが、感情サインとして忙しなくにぎにぎと動いている。

 何を言うでもなく口をパクパクさせている。

 ──パパ愛してまちゅ、とか言ってるに違いない。

 そうかそうか。相思相愛だな! 夕陽よ!


 我が息子、夕陽には目を見張る魅力がある。

 生後一か月の赤ん坊にして、既に雄々しさのような雰囲気があるのだ。

 この幼い時点で、既に逞しさを放つばかりか、母譲りの菩薩のような笑みを時折零す。

 きっと強く優しい子になる。

 おっとモテる二大条件じゃないか。

 夕陽よ、将来はモテモテだな!

 これは大変だ、果ては俳優か、モデルか、アイドルか。

 この夕陽の魅力を前に業界が放っておくわけがないのだ。

 しかしあの手の業界は悪もまた混在すると聞く。

 仕方ない夕陽。父である俺が、現職である本屋さんを退職し、お前専属のマネージャーになるしかないな。

 構わん構わん! 父は一向に構わんよ!

 お前に忍び寄る毒牙、この父が全て払ってくれるわ!


「夕陽……パパがお前を守ってやるからな!」


 幸福の絶頂期だった。

 何を返すわけでもない赤子へ話しかけ、理解出来る筈もないと知りつつも、自分の胸の中に収めてはおけない愛情を伝えている毎日だった。

 あぁこの日常が永遠に続けばいい。

 夕陽、別に大きくならなくてもいいんだ。

 俺が守ってやるとも。

 ただもしも大きくなり、いつか喋れるようになったその時には。

 どうか、どうか父のことを、「パパ」と呼んで欲しい。

 一位がパパ、二位がお父さん、三位は親父。

 正し一位と二位の間にはかなりの差があるものとする。

 それがパパの、今の唯一の夢だ。

 俺は子供が出来たら、パパと呼ばれるのが夢だったのだ。

 もしもお前が大きくなった時には、その夢だけ叶えてくれれば、パパはもう何も言わないさ。


「────ちちうえ」

「……………………ん?」


 何か今聞こえた気がする。

 何やら天使か何かの、とてもつもない、この世のものとは思えない可愛らしい声が聞こえた気がする。

 妻か?

 いや、今妻はキッチンに立っている。

 居間までは大声を上げなければ聞こえないだろうし、聞こえたとてつもない可愛い声は大声ではなかった。

 テレビか?

 いや、テレビは点いていない。

 何処だ。何処から聞こえた?


「ちちうえ」

「っ!? だ、誰だ!」


 もう一度聞こえたということは、幻聴か何かではなさそうだ。

 しかし限りなく近い場所から聞こえた気がする。

 そう限りなく近い。自分の身体から聞こえたように近い。

 具体的に言えば腕。

 そう、腕の中から──────。


 恐る恐る、俺は腕に抱きあげている夕陽へ、視線を戻した。


「ちちうえ」


 俺は見た。確かに見た。

 息子の可愛い口は、「ち・ち・う・え」の形に動いていた。

 俺はフリーズし、散っていった冷静さを搔き集める。


「…………いや、パパが良いんだけど!?」


 ようやく吐き出した言葉がそれだった。


「ちちうえー」

「いや待って! 定着させようとしないで! パパがいいんだってば!」

「きゃっきゃ! ちちうえー!」

「夕陽! 待って! お願い! パパって呼ばれるのが夢だったの! ねえ夕陽! お願いだから!」


 どうして生後一ヵ月の赤ん坊が口を利いたのか。

 どうして産まれて初めての言葉が、『ちちうえ』なのか。

 パパでちゅよ、と呼び掛けていたにも関わらずである。

 そのような抱くべき疑問を置き去りにして。

 今はただただ、自分の夢が爆ぜて散ったことに悲しむ以外、それ以外に何も思うことが出来ずに居た。

 …………ちなみに息子は翌月、普通に立った。

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