prologue

 天一面を覆う紫雲しうんの中を雷が泳いでいた。

 下に広がる荒廃した灰色の大地にて剣を交える者が二名。どちらも人間とは言い難い。

 一名の肌は翠色輝く竜鱗、その鱗は凶悪な面構えの竜頭の頂まで満たされている。

 岩石のような筋肉の上から鉱石ほどに堅い翠の鱗が覆い、自身の巨体の半分はありそうな大剣を片手に握り軽々と振り回す。

 普段であれば自信に満ち満ちた竜眼は、今日のところは曇りが張る。

 荒くなった呼吸が胃の中に眠る火炎袋と作用して、図らずも炎の塵のような息を漏らしていた。

 苦戦しているのだ。

 目の前に居る、少年ただ一人に。


 少年は陽の光のような色をした清らかな鎧で身を包んでいる。

 快晴の青空を刃に封じ込めたような瑠璃色の片手剣を握り、髪と同じく紺色のマントを翻しては竜人の攻撃を踊るように躱す。

 容姿こそ、あどけなさを残した少年のようで人間であっても、その身のこなしと水準の高い魔法の数々は人間の域を十分に脱している。

 少年は息すら切らしていない。

 

 ────駄目だ。勝てない。

 竜人は胸中に敗北を悟った。


 聞けば相手は勇者なる、天界より遣わされし加護という加護を背負った存在。

 魔界四天王として謳われた、この竜人ジグルナドスでも手に余る。

 ならば大剣を灰色の大地に突き立て、自分の墓標を先に用意してみるのも一興。

 潔さまで失い、惨めな屍とはなりたくない。

 竜人はそう決意し、諦めの姿勢で剣先を地へ刺した。


「参ッタ。殺セ」

「…………魔王軍から離れると誓え。そうすれば命は取らない」


 竜の彼にとってみれば侮辱だった。

 腕っぷしで築き上げて来た魔物なりの誇りがあるのだ。その誇りを守る為の墓標なのだ。

 命乞いの果てに得た命など、そこに命は在っても存在意義はないのだ。

 惨めな自己防衛に努める魔獣に堕ちるのだけは勘弁だ。

 

「殺セ」


 竜人から吐き出された催促は迷いの見えない間髪の間だった。


「……そうか……ならば、仕方ない」


 勇者のグリップを握る手に、決意の堅さが宿った。

 雷雲轟く曇天へ剣先を向け、振りかぶる。

 間を合わせて、竜人は頭を差し出すように垂れる。

 勇者が剣を振り下ろさんとした、正にその直前──────ぽこんっ────と。

 命のやり取りを行っている場において、随分と不相応な間抜けな音が鳴った。


 空気の読めなさという点においては正に絶妙の間。それは勇者の鎧の中から聞こえた。

 その音には一切の緊張感がなく、この幻想世界では聞くことのない音。

 例えるならばどこか別世界の、それでいて近未来を思わせる平和な音。

 それは一種の伝達音であり、送信者の意思が文字として伝わって来ましたよという合図の音だった。

 ────っていうかSNSの受信音だった。


 ぽこんっ、ぽこんっ、ぽこんっ、ぽこんっ。


 間抜けな音は連打される。

 よほど送り主にとって火急の用であることが推測される。

 勇者は振り上げた剣を竜人に振り下ろすことなく背中の鞘へ納め、鎧の胸ぐらから謎の薄板を取り出した。

 その薄板は指で触れると発光する。

 ────っていうかiphone8だった。

 勇者は画面を一見。そして。


「…………ごめん、僕帰る」

「…………ハ?」

「門限が……あるんだ……」

「…………ハ? モン……ゲン…………?」

 

 勇者の言う門限の意味はわからない。

 しかし帰るという言葉は理解出来る。

 竜人ジグルナドスからすれば侮辱でしかない。

 差し出した命を取らないと言われたのだ。

 そんなに我輩の命は安いものかと、勿論憤慨を見せる。


「フ……フザケルナ! 武人ノ介錯ヲ放棄スルナド、ナント惨メナ所業ヲ!」

「パパうえが……」

「…………ハ?」

「僕のパパうえは家族揃って六時の夕飯を食べないと泣くんだよ! 缶ビール片手に泣き上戸だ! 凄いめんどくさいんだぞ!」

「………………ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア?」


 竜人の見せた激昂以上の激昂を勇者も返す。

 そして竜の脳の中には疑問符が打たれる。

 缶ビール?

 その単語の意味はわからない。だが、全体の意味は伝わらなくもなかった。

 家族との晩餐の為に、我は耐え難い屈辱を味合わされているのだろうか?

 そう怒りを返上したい竜人ジグルナドスではあったものの、一層に怒りを膨らませた勇者が竜人へ迫る。


「分からないだろう!? 門限を過ぎたのをいいことに、代わりに遊園地に付き合えとか、映画館に付き合えとか、僕が何か決まり事を破る為に僕と遊ぼうと付け込んで来る! 魔王を倒さなければならないのに……遊んでる暇なんてないのに……僕の邪魔をしようとしてくるんだよ!」

「ア……エ……イヤ……」

「僕はもう一四歳だぞ!? どうして中学三年生になってまで父親とデートしなければならないんだ! ママうえだって同じだ! この世界から持ち帰った魔剣を布団叩きに使うし、鎧を帽子掛けやタオル掛けに使う始末だ!」

「イヤ……ソノ……」

「あ……ご…………ごめん…………貴方にこんなことを言っても仕方ないのに……とても追い詰められて……いるんだ……」


 半ば八つ当たりを散々と繰り広げてから勇者は冷静さを取り戻すものの、顔色は暗い。

 勇者には一撃すら浴びせていない筈で、あの謎の間抜けな音によってのみ青ざめている。

 我輩の戦闘力よりも、あの間の抜けた音が勇者を追い詰めているだと?

 そう困惑する竜人に対し勇者の少年は平然と背を向け、片手を伸ばし切り魔法陣を出現させた。

 転移魔法の類らしい。


「じゃあね」

「イヤ……マ……待テ……」

「え? いや早く帰らないとなんだけど」

「イヤ……命……ヲ……」

「じゃあ……明日から中間テストだから、テスト終わったらまた来るから……えっと来週! 来週また来るから!」

「ウ……ウム……」

「はぁ……クソっ……魔王を倒したいのに……あぁでも……今回のテスト範囲結構広いから帰ったら復習だけしておかないと……」


 謎のぼやきを残して、勇者はその場を後にした。

 灰色の大地に虚し気な風が吹き荒れる。


 転移魔法陣の中心へ向かって身を割り入れた勇者は帰路に着く。

 一瞬で目的地まで到着するものの、その僅かな帰路で悔恨を刻むのは最早日課のようなものだった。

 どうして。どうしてあの家に生まれたのだろう。

 女神様は一体何をお考えなのだろう。

 一度は失った命。そこから漏れ出した魂を拾い上げ、別の世界で新たな生命として誕生した。

 しかし勇者で在ることを忘れるべからずと女神は言い、記憶は残った。

 即ち────異世界転生である。

 それが地球世界の、日本という国だけならまだいい。

 どうしてあの家なのだ。

 どうしてあのふざけた両親の元へ生まれなければならなかったのだ。

 そうして今日も今日とて納得を得られないまま、勇者は幻想世界から立ち去り、東京都の自宅へと帰っていった。

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