第32話 広海のコーヒーと汚染水
土曜日の昼下がり-。猛暑を通り越し、酷暑と言われた平成最後の夏が終わった。フル稼働していた喫茶『じゃまあいいか』のエアコンもひと休み。店先で、腕まくりした恭一がフィルターを水洗いしていた。
「ちょっと今手が離せないんで、広海にコーヒーでも淹れてもらえ」
ゼミにやって来た大宮幹太と志摩耕作、秋田千穂をあごで迎え入れた。
「“キョーイチ”じゃないんだ」
「贅沢言うな」
「広海だってバイト歴長いし、腕挙げてるから、“キョーニ”くらいのコーヒーは期待できるわよ」
キョーイチというのは世間一般には“きょう一番の”という意味だが、『じゃまあいいか』では、店主の渋川恭一の淹れたという意味でも使われる。
「きょうは特別の一杯が飲めるかもな。広海の気分次第だ」
恭一は意味深な言葉を投げ掛けると、首から下げたタオルで額の汗を拭った。
意味が分からないまま、カウンター席の背中にデイバッグを掛けた3人。
「広海、あんたがマスター以上のコーヒーを淹れてくれるって、マスターが言ってたけど」
「何でも、特別な一杯ってな」
「キョーイチを超えたら、キョーゼロかな?」
好き勝手に広海を冷やかす。
「えー、ネタバレなの? もう、マスターったら」
カウンターの中で、広海が大袈裟に膨れて見せた。もちろん怒っているわけではない。
「実はね…」
「おぉー、出たー。久しぶりの“週間ジツハ”」
「茶化さないでよ。あのね、母親がコーヒー豆送って来たの」
「何か、高2の夏の父島合宿思い出すなぁ」
幹太と千穂は同級生の長崎愛香と清水央司の4人で、広海の生まれ故郷、小笠原諸島・父島を訪ねていた。丁度、東京と父島を結ぶ定期船「おがさわら丸」が代替わりするタイミングだった。
「特別なコーヒーって、ブルマン? それともゲイシャ?」
「それって、ただの人気の豆じゃん。しかもマスターのウケウリ」
「あのさ、喫茶店でバイトしてるの知ってるのに、そういうのわざわざ送って来るかなぁ」
「釈迦に説法、か」
耕作が言った。
「アタシ、お釈迦様じゃないけどね」
「コーヒーの産地って言えば?」
「ブラジルとか、コロンビア、グアテマラとかだよね。まんま、豆の名前にもなっているし」
「南米か!」
「キター、タカトシ。でも、グアテマラは中米。メキシコの隣りだよ」
「そうね。でも中南米とかアフリカ大陸だけじゃないの。ベトナムはブラジルに次いで生産量世界第2位だし、インドネシアもエチオピアより上位の第4位。基本、赤道近くの熱帯や亜熱帯で育つ植物なんだけど、小笠原でも栽培されているの」
「私、母から聞いたことがあるわ。沖縄や九州の一部でもコーヒーが栽培されているって」
「国産か」
幹太がそう言いながら、耕作の頭を小突いた。何もボケてるつもりのない“課長”には迷惑な話だ。
「そうなの。で、母親が送って来たのは父島産のコーヒー。どう? 飲んだことないでしょ」
「ない」
「ない」
「ない」
首を振る3人。広海は愛用のトート・バッグから缶に入ったコーヒー豆を取り出すと、ゆっくりと挽き始めた。幹太が香りを嗅ごうと、両手で招くような仕草をしているのが、千穂には可笑しかった。
「何か、浅草寺でお香の煙を集めてる参拝客みたいよ、カンちゃん」
「そう言えば、きょうのゼミのテーマも海よね」
「父島の海とは月にスッポン、日本沿岸。とりあえずは太平洋側」
高校時代とは違い、広海たちのゼミは誰かがひとつのテーマについて発表する形式ではなく、意見を交わしながら考えを深めるスタイルを取ることが多い。この日のゼミもそうだった。
「福島の汚染水、最終的にどうするんだろうな、処理」
「濃度を薄めて海に放出するのが現実的って言ってたけど…」
「だって、水素から成るトリチウム以外にも放射性の有害物質が見つかったんでしょ」
3人の話を聞きながら、豆を挽き終わった広海はサイフォンをスタンバイしてアルコール・ランプに火をつけた。
「おつ、潮の香りのコーヒーか」
エアコンのフィルターを抱えて恭一が戻って来た。
安倍首相が爆発事故を起こした福島第一原発について、笑顔を浮かべながら世界に発信したのは2013年。IOC総会の席上だった。
あれから5年-。原発近くに並ぶ1000基を超える放射能汚染水の貯蔵タンクの列。その量、約80万トン。このまま貯蔵を続けると、増え続ける汚染水で貯蔵施設の敷地は2020年には限界を迎えるという。問題の先送りを続けた政府、東電はここにきて汚染水の処理を迫られている。
「そもそも、なんであんな無責任な発言したの?」
「ええ格好しいなんだよ、単に」
広海の問いに幹太がキッパリ。
「オレも地球の裏側から送られてくるテレビの中継を見ていて、複雑に思ったよ。複雑の理由は、情けなさが半分、憤りが半分。情けなさは、一国の首相が取るべき態度に対して。憤りは、70億の世界の人についたウソの大きさに対して」
と恭一。スツールに乗ってフィルターをセットしている。
「どうすればよかったの?」
「福島の事故は事故として隠すことなく認めた上で、オリンピックは事故とは別に責任持って安全に開催する、と真摯に丁寧にかつ謙虚に説明するべきだった」
「どこかで聞いたようなセリフね」
「みんな、さんざん見ただろ。森友・加計問題。国会答弁で安倍さんが言ったんだよ。真摯も丁寧も謙虚もさ。マスターは皮肉で言ってるのさ」
「IOC総会でも国会でも、真摯も丁寧も謙虚も程遠かったもんな」
「皮肉って、人聞きが悪いな。引用だよ、引用」
そう言って、恭一がニヤリ。広海にはその表情がIOC総会でスピーチする総理の表情と重なった。
「それも引用? 私、思わせぶりな今の笑い方、嫌い」
広海が恭一に非難するように真正面からかみついたのは初めてだった。
「悪い、悪い。大人げなかったな。もし、誤解を与えたとしたら謝るよ」
「それも、政治家の引用? 冗談にしても笑えない。全然悪びれてなーい」
「まあまあ、そうカリカリすんなよ。それだけ怒り心頭なんだよ、マスターも。デブリって原子炉内に解け落ちた燃料棒の取り出しもままならない上に、冷却に使った大量の汚染水の処理もできない。抜き差しならない状況になって『海に放出する』って言い出した。どの口が言うんだよ、ってオレも言いたい」
恭一を擁護する幹太も、政府と東電の対応の拙さを追及した。
福島第一原発事故で増え続ける放射能汚染水。第一の問題は、トリチウムという放射性物質だ。政府は、地層への注入や水蒸気放出などの処分方法を検討してきたが、海洋放出が最有力だ。そして、貯蔵タンクの跡地には今後取り出すことになっている燃料デブリを取り置く計画という。トリチウムは放射線を出すが、原子力規制委員会や科学者らは健康への影響を含め海洋放出に問題はないとの立場を取っている。しかし、風評被害を懸念する地元漁業者らの反発は強く、政府は結論を先送りしてきた経緯がある。
「三重水素って言うんだってさ、トリチウム。“トリ”って基本、3の意味だから。トリプルとかトリオとかさ。化学式では3H。水はH₂Oだから親和性があるらしい。分離しにくいから濃度を薄めて海に放出するらしいよ、原発やってる他の国でも」
相変わらず、耕作は冷静だ。
「でも、正常に稼働している原発から発生する汚染水と、放射能漏れの対応で出てくる汚染水とを一緒に論じるのはおかしい」
幹太は引かない。
「そういうこと。しかも、政府が考えている量は1日に400トン。トリチウム濃度は国の放出基準ギリギリの1リットル当たり6万ベクレルらしい。実際に東京電力が海に放出しているトリチウムを含んだ地下水の基準値が1リットル当たり1500ベクレルだから、濃度はなんと40倍」
耕作が事前にノートした数字を読み上げた。
「そんな高濃度の汚染水、よくも平然と放出したいなんて言えるよな。これまでだって福島産の水産物とか、韓国や香港とかで不買運動とかあったじゃん。少し落ち着いたと思ったら、またぶり返そうってわけ? 元の木阿弥」
「水産物だけじゃなく、農産物もね。福島産って言うだけで全部、放射能の含有量検査が義務付けられていたでしょ」
広海は、出来上がったコーヒーをカップに注ぎ分けながら、ニュースで見た映像を思い出していた。
「うまっ」
幹太は空いた左手の親指を立て、グッドのポーズ。
「でも、違いが分かる男じゃないんで、外国産との違いは聞かないで…」
「うーん、マスターのキョーイチより上かどうか微妙ね」
「オレ、正直言って違いがよく分かんないよ。バリスタでもないし」
「そんなもんだよ。お前さんたちにコーヒーのテイスティングが出来るわけがない。100年早いよ」
と利き酒のように、ほんのひと啜り口に含んだ恭一。鼻から香りを抜く。
「みんなより少しはコーヒーの知識のあるオレも、言われなければ小笠原産だなんて当てようがない。まあ、広海を忖度して“裸の大様”にしなくて良かったな」
「見え見えの“ほめ殺し”?」
「そんな流行語もあったな。それも政治絡みだった」
「本当だ。知ったかぶりして一歩間違えてたら、総理のお友達の政治家や取り巻きの官僚と同じになるところだった」
冷や汗を拭くような幹太のポーズは、彼らに対する皮肉だろう。
「とにかく、私たちに飲ませようと送ってくれた広海のお母さんに感謝ね」
「確かに。貴重な体験だし、知識も増えた」
「西って、んー、こっちか」
そう言って、幹太はニーっとわざとらしい笑顔を見せた。
「何してんの、カンちゃん」
「ほら、初物は西を向いて食って、笑えって。ばあさんの教え」
「えっ、私は東を向いて食べるって聞いたわ。っていうか、カンちゃん、それひと口目じゃないし」
広海も千穂も声を上げて笑った。
「初物を食べる時の方角は、関東と関西では真逆らしい。前に聞いたことがある。理由はよく聞いてないが、これで名古屋や静岡の人が北か南を向いていたら面白いけどな」
恭一の言葉に、幹太も耕作も声を出して笑う。初体験の国産コーヒーの話で、盛り上がると、千穂はとても笑えない本筋に話を戻した。
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