第27話 霞ヶ関の辞書に「共生社会」はない

「これはひどいよな」

夕刻の喫茶『じゃまあいいか』。客のオーダーに一通り応えた店主の恭一が、新聞の一面に目を落として呟いた。2018年8月、霞が関の省庁で国民に対する裏切り行為と言うべき不祥事が大きく報じられた。法律で定められた障害者の雇用について、国の34の機関の内、27の機関で水増しが行われていた。水増しは3,460人分。報告していたウソの雇用数約6,900人に対し、実に半数以上に上る。名誉のために水増しのなかった機関を挙げると、警察庁、金融庁、原子力規制委員会、内閣法制局、個人情報保護委員会、海上保安庁の6つ。また、復興庁は障害者雇用の対象となる職員数に達していないので、雇用義務がない。水増しは去年まで職員全体の2.3パーセント以上と義務付けられていた基準を満たすためで、省庁の幹部の中は『意図的ではない』と言うが、中には死亡した職員をカウントしたり、近視などのケースを算入した例もあり、複数の省庁が同様のあつかいをしていたというから組織ぐるみで意図的。かなり悪質だ。

「これは大きな問題になるぞ」

「もうなってるじゃないですか?」

他人事のように記事を見つめる横須賀貢の予想に小笠原広海が答えた。

きょうの『じゃまあいいか』は閑古鳥が鳴いていた。来店客は、2学期に備えた準備を終えた剣橋高校教諭の横須賀貢と早番勤務を終えたアナウンサーの長岡悠子、それに大宮幹太と秋田千穂。カウンターの中の恭一とバイトの小笠原広海も少し手持無沙汰だ。

「そういう意味じゃない。例えば森友学園問題で財務省が行った公文書の改ざんや破棄は元の文書を公表したり、再発防止の措置を講じることで許される側面もある。しかし、今回の水増し問題の深刻さは改ざん問題の比ではないんだ」

「財務省と文科省だけでなく、全体の約8割の省庁などがやっていたんですもんね」

「それもある。霞ヶ関全体の信用失墜になるからね。でも、最低限取らなければいけないこれからの対策がもっと大変ということさ」

「対策が?」

アイスコーヒーに浮かんだ氷をストローでかき混ぜながら、幹太が振り返る。

「そう。いいかい、障害者の雇用は障害者雇用促進法で定められている。民間企業の場合はその規模によって、雇用しなければならない障害者の割合が決まっている。2017年までは2.0パーセント。そして、達成できない場合は、不足分1人につき、月に4万円から5万円の納付金が課せられている。ペナルティだ。民間の手本となるべく、国や地方自治体の法定雇用率は2.3パーセント。でも、達成できなくても納付金などの罰則は課せられていないんだ」

立ち上がった横須賀がホワイトボードの脇で法律の内容を繙(ひもと)く。

「ちなみに、2018年度に法定雇用率はそれぞれ0.2パーセントずつ引き上げられて、民間が2.2パーセント、国と地方自治体は2.5パーセントになったの。問題になっているのは去年の6月1日時点の数字だから、それぞれ2.0と2.3で計算されているけどね。しかも、いつから水増ししていたかも定かではないっていう情けない話よ」

カウンターの一番奥に座って週刊誌に目を通していた悠子が補足した。

「無責任にもほどがありますよね。民間並みにペナルティを課したらいくらぐらいになるかな?」

民間企業に対しても顔向けできないと広海は思った。

「制度ができた時に遡って計算したら相当な金額になると思うけど、そんなことしてもあんまり意味ないんじゃないの?」

「どうして? 少しくらいお灸をすえて反省してもらわないと…」

「あのね、広海。熱くならずに冷静によく考えよ。お役所って民間企業と違って稼いでないじゃん。事業の経費も人件費も全部、元を質せば税金から出てるわけ。多額のポエナルティを課したところで痛くも痒くもないの。結局、それだって税金が使われるだけの話なんだよ。法律でお役所に納付金が課されていないのもそんな理由があるんじゃないかな」

「そうか。逆に、そういう風にルールがいい加減だから、雇用も進まなかったってことでしょ」

「そこ、あんまり『逆に』って言い方してほしくないんだけど。特に広海には。だって、意味なくない?」

「私は、語尾上げの『意味なくない?』も気になるわ。特にチーちゃんには言ってほしくないな」

話が核心から脱線する広海と千穂のやりとりを、恭一も横須賀もコーヒーを飲みながら黙って聞いている。幹太はまた始まったという表情だ。

「ハイ、ハイ。政治を語っていても、ふたりとも今風の女子大生だっていうことが分かって、私少し安心しちゃった」

空気を察して、悠子が割り込んだ。

「どちらにしても、お役所にお金でペナルティを課しても意味がないってことは分かったわね」

「ということさ。役所に突き付けられた問題を端的に言うと、不足分の障害者数を雇用しなければならない。それも可及的速やかに」

「可及的速やかに、っていうのは大甘だな。できるだけ早くでは、民間企業に対して失礼が過ぎるだろ」

恭一が責めたのは横須賀ではない。霞ヶ関と政府だ。国は10月末までに障害者雇用の計画をまとめ、来年度中の法定雇用率達成を目指す。

「そうだな。できるかできないかは俺たちが心配することじゃないが、水増しした3,460人分の雇用を実現しなきゃいけない。否、悠子さんが指摘したように今年度から0.2パーセント引き上げられたんだから、もっと増える…」

横須賀はホワイトボードを使って計算を始めた。

「先生、ざっくり3,761人ですよ」

幹太がスマホの電卓機能を使って先回りした。

「ざっくりにしては細かいな。そう、水増し人数よりざっくり300人以上多く雇用を増やす必要がある、必要というより雇用を確保する義務があるんだ」

実際、国は目標を4,000人と発表した。

「でも、それって現実的かしら」

千穂が素直な疑問を口にした。

「大炎上を覚悟で言えば、達成できなくても許されるやり方がある。ひとつは法定雇用率未達の民間企業に対するペナルティ、つまり納付金を免除する。もうひとつは法定雇用率自体を凍結、または廃止にする。こうすれば、国や地方自治体は義務を達成するための時間を稼ぐことはできる」

記事を読み終えた恭一から意外な提案が飛び出した。

「ダメでしょ、そんなズル。明らかに時代に逆行してる。マスターらしくない」

ニヤニヤする悠子の目の前で、広海が膨れて見せた。もちろん現実的な解決策と恭一が思っているわけではない。霞ヶ関に対する牽制球のつもりである。

国の指針では、雇用数に算入できるのは障害者手帳や医師による判定書などを所持する人と定めている。しかし、障害者手帳の有効期限が切れていても算入しているケースがあった。本来は対象外であるにもかかわらず、健康診断で視力が悪かった人や、持病を患っている人、既に死亡している人まで数に入れている事例は故意というしかない。中には、本人が障害者として算入されていることを知らないケースも見られたという。

「雇用数が水増しされた分、結果的に障害者の就労機会が奪われたことになるのは大問題よ。何しろ1人や2人じゃないんだからね」

「コンプライアンス的にもサイテーね」

千穂に続いて、広海も批判に加わった。

「コンプライアンス、法令順守だね。国をリードする立場の国家公務員がこれではね」

横須賀がボードに「compliance」と書いた。

「でも、1年余りで数千人規模の新規雇用を進めるのは容易じゃないわね」

相当冷めてしまったカフェオレを口に運ぶ悠子。コーヒーカップより一回り大きいカップが悠子の小顔を半分以上包み込むように見えた。

「確かに。でも、みんな気づいてるかな。単純に障害者の雇用を数字分増やせばいいという簡単な問題ではない。役所は、いない人を水増ししたわけじゃないからね」

「あっ、そうか」

恭一の指摘に、幹太が思わず大きな声を出した。

「障害者にカウントしちゃいけない職員を、障害者として報告していたんですよね。それで、日常の仕事が回っていた。つまり、事務的に言えば仕事量が変わらない中で、4,000人もの障害者を新規で雇用する必要がないってことですよね」

「そう、ありていに言えば、新たに働いでもらう障害者に担当してもらう仕事がない。民間と違って“人件費”って経費の認識がお役所にどれだけあるのか分からないけど、今いる職員の仕事を減らして回さないと、法定雇用率の達成のためだけに新規の障害者に出勤してもらっても意味がない、ってことよ。確かに深刻な問題ね」

悠子が幹太の考えをさらにかみ砕いて補足した。

「補助的な業務をお願いするにしても、元々これまで補助なしでこなせた仕事なんだから、国民に説明がつかないわね」

「かといって、障害者として水増しで報告されたていた職員を全員退職させるわけにもいかないし」

「法定雇用率を達成できなければできないでマスコミに叩かれるだろうし、達成したらしたで業務の割り振りや人件費の増加分の説明は求めらるわよね」

「立ち止まることも、後戻りもできないけど、前に進んでも課題山積だ。マスターの言葉の意味、よく分かりました」

ゼミ生が好き勝手に来年の霞が関を心配する。

「でもさ、こんなに大きな問題なのに誰もテレビカメラの前で謝罪しないのはどうしてなの?」

広海は、このところ立て続けに起きている省庁や民間の不祥事の報道を思い出して言った。

「まあ、障害者雇用を所掌する厚労省の大臣は謝罪したけどね。報告を受ける側だけ頭下げれば済むと思ってんのかな。虚偽の報告をしていた機関の責任者は全員懺悔ものだよな」

と幹太。

「そう言えば、安倍総理って国会で自民党総裁としての発言を求められる度に『私は行政府の長だから』って発言拒否していたけど、行政府の長ってことは国の機関全てについても最高責任者ってことよね。こういう時、謝罪する立場よね。頭下げなくていいの?」

「広海ちゃん、誰に聞いてるの?」

悠子が恭一と横須賀を交互に見比べた。まるで天秤にかけるように。

「んーと、じゃ先生」

「オレかよ」

カウンターについたつっかえ棒代わりの肘を大袈裟に外して横須賀が答える。

「確かに頭のひとつぐらい下げるべきだと思う。一有権者、一国民としては。あれだけ『私は行政府の長ですから』と声高に言ってるんだからな」

「一教員としては?」

「もちろん一教員としてもだよな。教員だって特別じゃない。官邸側の人間じゃないから、忖度する必要もない」

千穂の追及に恭一が庇うように微笑むと、みんなを代弁するように言った。

「でもな、あの人謝るの嫌いなんだよ。オレ、『記憶にありません』だな、総理が心の底から謝ってる姿なんてさ。森友・加計問題見てても分かるだろ」

横須賀は、総理は結局逃げるに決まってると思っていた。

「国会や最高裁も水増しを認めたし、全国各地で県や市が水増しの実態を明らかにしている。政務活動費の不正流用が五月雨式に露見したように、まだ報告のない自治体の水増しも出て来るだろうな」

「臨時国会や特別国会を控える安倍総理にとっては、森友・加計問題から野党の目をそらせる好材料になるのかしら? それともマイナス材料かな?」

悠子の自問自答するような言葉に、誰も自信もって答えることができなかった。

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