第3話 虹とニュートン

 「ねぇ、虹って漢字、どうして虫偏か知ってる?」

唐突にクイズを出すめぐみ。そんなこと急に言われても私は宮崎美子じゃない。やくみつるでもないし、ロザンの宇治原史親ふみちかでもないから分かるわけがない。

学生街の一角にある東京海洋大学の学食のカフェ。小笠原広海と岬めぐみは3時限目を前に早めの昼食を取っていた。広海は手作りの弁当。めぐみは春キャベツのパスタとサラダのランチ。キャンパスを見下ろす大きな窓の先、雨上がりの東の空に鮮やかな虹のアーチがほぼ完ぺきな形を見せていた。

「虹って中国では昔、蛇とか龍とかのひとつに考えられていたの。だから虫偏の漢字が充てられたのね。英語ではもちろん。スペルはrainbow。こういうのを文字通りっていうんだけど、雨のrainと弓のbow。『雨の弓』っていう意味。だから、片仮名で書くんだったら本当はレインボウの方が正しいと思うんだけどね」

インスタグラムに載せるのだろうか。窓ガラスの乱反射による蛍光灯の映り込みを避けるために、スマホを窓にピッタリくっつけて虹を撮影するめぐみ。

「そう言えば、調理や野菜を盛り付けるのに使う道具はボールじゃなくてボウルだし、ピンを倒してストライクを狙うスポーツもボーリングじゃなくてボウリングよね。レインボーじゃ、雨の弓にならないってわけか。辞典を編集している出版社にアドバイスした方がいいんじゃない? でも『雨の弓』って何かポエムよね」

ふりかけをまぶした小さめのおにぎりを頬張りながら、広海は妙に納得した。広辞苑第七版は10年ぶりに改訂されたが、果たして載っているだろうか。ひとり悦に入っているめぐみは、賛同者を得て満足そうだ。でも、広く認識されているレインボーを急にレインボウに修正することはできるだろうか。「レインボーブリッジは封鎖できません」。唐突に、映画『踊る大捜査線』の主人公、青島俊作役の織田裕二の声が広海の頭をよぎった。否、織田裕二のものまねをする芸人の山本高広の声だったかもしれない。まだ虹のカタカナ表記を考えていた広海に構わず、めぐみがニコニコしながら第2問。

「じゃあ、レインボウは何色なんしょくで出来ているでしょう」

これなら小島慶子やカズレーザーでなくても分かる。反射的に広海が答える。

「虹は7色。7色に決まっているじゃない」

「ブ、ブー」

唇を震わせて、リアルに不正解の効果音を出すめぐみ。予想通りの広海の回答に笑いをこらえている。少なくとも彼氏の前ではやらないほうがいい、と広海は思った。

「残念でした。それは日本の話。世界は広いんだよ、ヒロミ。。例えば、昔のイギリスでは5色。アメリカやドイツは6色。中国やアフリカでは、2色って考える地方も少なくないんだって。世界各国でまちまちみたいね。まあ、科学的に言えば赤から紫まで人間に見える可視光線の範囲のグラデーションは無限なんだけどね。ちなみに日本を中心に認識されている7色っていうのは、ニュートンが提唱したの」

「ニュートンって、リンゴが落ちる万有引力のあのニュートン?」

びっくりして思わず聞き返す広海。

「そう、そのニュートン。アイザック・ニュートン」

虹ひとつでこれだけ蘊蓄うんちくを語る女子がいるだろうか。もしかしたら、イワシ雲とか飛行機雲についても語るかもしれない。ちなみに飛行機雲は主に高度1万メートル前後の上空を飛ぶ機体から排気されたガスの水蒸気が、氷点下30~40度の気温で急激に冷やされるために発生する仕組みだという。上空の気温や湿度、大気の流れなど条件が揃った時にだけ見ることができる。今からめぐみを“ソラジョ”と呼んであげようか。と広海が思いをめぐらせていたその時、

「先入観を捨てて、ジョーシキを疑え、よ」

めぐみが微笑んだ。人は長い間同じ環境にいると、それが世の中のスタンダードだと考えるようになりがちだ。方言なんかもその例だ。進学で地方から上京した大学生が何気なく発した言葉が、友人たちに全然通じない。本人は『何で?』と思う反面、周りはチンプンカンプンだったり、大爆笑だったりなんて場面はよくある話。広海も関西育ちの従兄弟に『そのメモ直しておいて』と言われたものの、何をどう直していいか分からない。内容がどこか間違っているのだろうか、机の上はきれいに整頓されている。片付けようがない、と悩んだ覚えがある。実は従兄弟の『直しておいて』は『捨てておいて』の意味だった。政治の世界も同じこと。いわゆるジョーシキや先入観にとらわれ過ぎてないだろうか。そもそも霞が関の官僚は前例主義だ。めぐみが言いたかったのはそのことだった。

「参議院は“良識の府”って呼ばれているけど、じゃ参議院と相対する関係にある衆議院は何の府? 議員が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしているからって『もののふ』なんてうまいこと言わないでよ。代議士って、武士みたいに一家言お持ちならいいんだけど」

と語尾を上げるめぐみに、

「一家言どころか失言ばっかりよ」

広海が答える。

「衆議院に良識を求めるのは無理ということなら分からないでもないわ。どう? 腑に落ちるでしょ」

うっかり話の内容より、センスの良いダジャレと言葉遊びに納得してしまいそうになる。

「国会での大臣答弁もそう。テレビで中継もされることも多いけど、殆どの質問内容は事前に通告されていて、関係省庁の官僚が前の日まで残業っていうか、当日の朝まで徹夜をしても大臣の答弁用にしっかり原稿を用意しているのね。自分の書いた答弁じゃないから、文章の言い回しに詰まったり、本人が日頃使わないような文章だったりすると、小学生の朗読よりも稚拙で、たどたどしい口調で醜態を曝け出してしまう大臣も少なくないわ。自分の頭で考えてないから無理もないけどね。この人、本当に内容を理解しているのかしら、って他人事ながら心配しちゃう。だって、殆ど棒読みでしょ」

普段大人しいめぐみにしては、キッパリした意見だった。

「衆議院と参議院の関係もそうなんだけど、素朴な疑問いい? 国会議員と地方の知事とか市長、地方議会の議員って序列があるのかな」

「そりゃ普通、国会議員が上でしょ。そして、都道府県知事がいて、区市町村長、そして地方議員でしょ」

間髪入れず、広海が答える。

「じゃあ、都道府県議会議員と区市町村長は? 都道府県議会議員と市町村議会議員は?」

「当然、市町村の議員より県議会議員の方が上だわ。都道府県議員と区市町村の市長は、ビミョーかな」

テンポ良く答える広海だが、納得して聞いているめぐみではない。

「私はね、それも虹の7色と同じで先入観だと思うの。国政選挙と首長選挙、地方議会選挙。規模だって違うし。国会議員の選挙の時には、地方の議員が応援に駆けつけてお手伝いするけど、地方の選挙に現職の国会議員が応援に来る時は完全に“上から目線”だから、広海がそう思うのも無理はないわ。でも、良く考えると、区や市町村民のために仕事をするのと、国民のために仕事をするという立場の違いはあっても、どっちがエラいかを議論すること自体に意味がないと思うの」

3時限目の第2外国語の講義まで残り10分に迫っていた。



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