第166話 奇跡の本質(中)

 全体の中で多数派ではない。

 しかし絶対に無視できない力がアニエスを守り、その角に新な『加護』を編みこんでいく。

 守護の力。

 魔王の魔王たる部分を封印し、アニエスという人格を解き放つ翼。


 もういい。少女(アニエス)はもうこの悪意とは無関係だ。

 これで目的は達した。あとは俺の接続を……。





 ……接続をどうする? 『我(おれ)』は怨嗟の主(まおう)。

 ただその力を使い果たすまで破壊を繰り返すだけだろう? なぜ戸惑いを感じるのか。

 ここまで単純な話なのに、目的を見失ってしまったかのような違和感。


 まぁいいだろう。じき、慣れる。

 ここに力があり、破壊できる対象もある。

 忌々しいことに神殿という装置にこの力を行使することはできないが、ただそこにいる生き物をすりつぶすことくらいならわけがない。

 むしろ、なぜ彼女たちは今も生きているのか。

 断片的な記憶がかみ合わず、気持ちが悪い。

 とにかく破壊だ。


 右手を振り上げ、今可能な範囲でマナを集めて力へと変換する。

 質はいまいちだが何かを殺すだけなら充分だろう。

 最も近くにいる二人の少女に向けて、その力を――。


 ――世界が反転する。

 遅れて右頬に感じる熱の様な痛み。

 重力の方向を知覚したところ、我は真上を向いている。

 どうやら床面に大の字で伸びているようだ。


 なんだ? 何が起きた? 首を動かし、俺がいたはずの場所を確認すると、そこには別の少女がこちらを見下ろして立っている。

 つまり、彼女が我を殴り飛ばした。


 どうやって?

 悪意の権化である自分をどうやって察知されずに害することができた?


 思考を巡らせる。なぜ、どうして。

 魔王の責務とは無関係なそれはなぜかとても落ち着く行動であるように思えた……。





 ――なぜ? じゃない! 今俺は何をしようとしていた。

 俺にとって最も大切なことはなんだ! 自分の手でそれを無茶苦茶にしようとしていた事実が恐ろしい。

 フヨウがいてくれなければ戻れない場所まで突き進んでいた。

 これまで進んできた綱渡りへの恐怖がまとめて襲ってくる。


 違う、落ち着け、まだ何も終わっていない。

 謝罪も後悔もこの道の先にある。

 今やるべきことは――。


 殴られたのと別の頬を左手で叩く。右側の鈍い痛みとは異なる鋭い衝撃。

 よし、目が覚めた。これから行うのは魔術の〆だ。寝ぼけたままで上手くいくわけがない。


「動けるか」


 半身を起こしてフヨウに向かって頷くと、両目を瞑って自身の深い部分へと意識を移す。

 オドの中心。

 そこには間違って癒着してしまった傷口の様に悪意のマナと接続された俺の魂が存在した。

 酷いものだ。

 アニエスの角の様に、一度集約された接続部ではなく、薄いモヤのように俺自身を覆っている。

 一度に取り除こうとすれば魂自身を持っていかれる。そう感じる。


 しかし、悠長にしている時間があるわけでもない。

 いつ先ほどのように悪意に飲まれるかわからない。すぐに始めなければ。


 意識のメスで部分を定め、覚悟を持って悪意に差し込む。

 獲物から皮をはぐための切り込みの様に。

 自分の価値観を再確認しながら、モヤを剥がしにかかった。


 ――っっっ!


 傷口を開けば痛みが走る。

 それが魂だとすればどのような苦痛が待っているのか。


 厳密には痛みではない。恐らく喪失感というのが正しい。

 寒さや冷たさを固体にしたような感覚。

 氷の塊を握り続け、手放すことができない。そういった苦しみ。


 だが、俺はこうなることを知っている。

 魂の損失は時間をかければ取り戻せるということを『試したことがある』。


 それでも可能な限りオドに影響が少ないように、速やかにモヤを取り除いていく。

 極寒の地で服を脱ぐように、そうすることが生きていくために間違った行動であるかのような悪寒が走るが構わない。

 躊躇している時間はない。


 もう二度と間違いを犯さないように、目の前の少女たちが自分にとっていかに大切な人物であるかを思い出す。

 それを力に剥がされた魂に補填する。

 ここまで出会った人達、王都にいる仲間、ロムスで待つ両親。

 様々な人達の力を借りながら、凍える魂を守り、進む。

 あと半分、あと少し……。


 カイルやルイズに思いを馳せる。

 お前たち、こんな物と戦っているんだな。

 こんな苦しみに、立ち向かわないといけないんだな……。


 なら、その前に立つのは兄貴(おれ)の仕事だ。

 最後の最後に残った虚勢を燃料に、なんとかモヤを剥がしきった。






 ……そう思った。






 だが、意識を取り戻そうとしたところで気が付く。

 X線写真に残った影のように、俺の寒々しい魂に映りこんだ悪意の力。

 それは、俺が魔術を行使しても諦めずにまた癒着を始めようとしていた。


 ……まだ、いけるか?


 正直、自信はない。

 しかし不安すらも状況を悪くする材料である以上、こんなものを持ち続ける意味はない。

 心の中にわずかに残ったもの全てを投げうって、最後の戦いへ赴こうと、そう思った時、俺の体の中に灯が降り立った。

 蝋燭の火のように小さな、吹けばとんでしまうのではないかと思うような光。


 ……暖かい。そう感じた。


 正確には思い出した。

 暖かさとはこんな物だったと。

 命とはこうあるべきだと。


 心に灯った火はいつの間にか炎となり、高く身近な場所からくべられて大きくなっていく。

 モヤとともに剥がされた俺の魂の表面を埋め、生きるということを脳裏に思い出させていく。





 嬉しかった。


 ありがたかった。


 一人ではなかった。





 降り積もった光で最後の影を焼き切ると、もう忘れないと心に誓い、魂に加護を織り込んでいく。


 今もそこにある泥のような力。


 命ある限り生まれ続ける悪意と憐憫。しかし、これだけが真理ではない。

 必ず相反する力が生まれ続け、新たな命に繋がる。


 悪も善もない単純な摂理が魂、オドの中心に彫り込まれ、やがてアニエスの角と同じように守護を与え始めた。


 俺のよく知っている勇者たる証。

 女神の加護とよく似た、しかし決定的に異なる人の手による守り。

 身近な人を助けたいという当たり前の想いはより自然に俺の中に宿ることになった。





 うっすらと両目を開く。

 場所は相変わらず正室の中。

 薄暗く、視界にはまだ霞がかかったようによく見えない。

 しかし、そこにみんながいるという確信がある。

 マナの反応を読むよりも先に両手に宿る暖かさが教えてくれる。


「……あー、アニエス……体調はどうだ?」


「体調はどうだ? じゃないでしょう! 自分のことを心配してください!」


 フヨウと一緒に俺の右手を握っていたメイリアが俺をしかりつけた。

 こいつはいつだって口数の多いやつだが、ここまで感情的な様子を見せることは滅多にない。

 エトアに行った時だってあれで終始冷静だった。

 なのにこんな姿を見せるということは、心配させてしまったということだ。


「……すまん。大丈夫、だと思う。色々ぶっつけだったし、想定外のこともあったから、しばらく本調子にはならないだろうけど……、みんなのお陰で帰ってこれた」


 そう、帰って来たのだ。

 今日初めて来た馴染みのないこの部屋で、だけど『帰って来た』。

 俺は自分がいるべき場所を思い出せる。だから大丈夫。


 左手を見れば、フルーゼとアニエスがやはり俺の手を握っている。

 そこには彼女たち自身のオドが今も俺を介して循環し続けていた。

 俺はこれに救われたのだ。

 見込み違いの判断で、魂の闇から帰ってこれなくなる直前で、帰るべき場所を見失わずにすんだ理由。


 言語としての形すらない原初の郷愁を彼女たちのオドが与えてくれた。

 全員がひっぱり上げてくれたから帰ってこれた。


 アニエスの右額に目を向ける。

 付け根から流れ出た血が顔の右半分を流れ、黒く固まって痛々しい。

 しかし、目を見ればわかる。

 赤い色は変わらないが、そこからは怪しいまでの爛々とした光は失われ、今は理性の火が宿っている。

 俺の魔術は成功した、そういうことだ。


 しかし、血の固まり具合を見るに思ったよりも時間が経過しているっぽい。

 魂の大手術は想定より時間がかかるものだったようだ。


「悪かった、心配をかけた。でも、大丈夫ってことでいいんだよな」


「うん、ありがとう……、あなたと、フルーゼが助けてくれた」


「……納得するのは結構ですが、余裕があるなら説明して下さい。たぶん私が一番何が何だかわからなかったはずです。なのにめちゃくちゃなことばかり起こって。なんなんですか、魔王って!」


 そうか、そこからだよな。

 とりあえず、アニエスはある程度のことを本能的に知っている。

 おそらく俺よりも詳しく現状を理解しているだろう。

 フルーゼには魔王という言葉自体になじみがないかもしれない。

 フヨウは、持ち前の冷静さで黙っているだけで、メイリアと同じように説明を求めていることだろう。

 確かに、情報共有は急務だった。


「俺も全部分かっているわけじゃないが、説明する。ただその前に、アニエス、『魔王の力』はこの後どうなると思う?」


 最初に把握するべきは、俺たちにどれだけの時間があるかだ。

 魔王だったアニエスを呪い――加護と同じもの――から切り離し封印した。

 もともと、この地に満ちていた負の魔力は彼女を核に集まったものであると思われるが、それは依然としてここにある。

 それについてちょっとでも知って起きたい。


「……正確なことは言えないけど、しばらくは今までと変わらないと思う。……何年かはここにいる生き物を魔物に変えたり、地下に影響して地揺るぎを呼んだり」


 災いが起きるということか。


「その後はどうなる」


 フヨウの質問。


「元々、ここにあったものが集まっただけだから、時間をかけて散っていくはず。……いくつか条件があるけど」


「条件?」


「魔王がこの地にいないこと。私のようにその素質がある生き物がいれば時間をかけて新しい核をつくるわ。そしていつかこの地をダンジョンにする。ただ、ここには神殿があるから凄く長い時間がかかると思う。逆に魔力は散りやすいけれど、それでも十年くらいはかかるはず」


 その後なら多少は安心できるってことか。


「それです! なんでアニエスさんが魔王なのか、そこを説明して下さい」


 聞き出したいことはいくらでもあるが、このまま前提を知らないままってのも問題だな。

 まだ説明していないが、聖女とそっくりな彼女の存在は、俺とメイリアにとって大きな謎なのも事実だった。

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