第146話 希望の蜃気楼

 この頃から、集落の人間は時間があれば街へ向かう行路の方角を眺めるようになった。

 神殿とは逆方向のそちらばかり見ているというのは、信心を疑われる行為かもしれないが、誰も止められない。無意識にその行動をとってしまう。


 いくら討伐隊の動きが早かったとしても、さすがに今の時期に街の方から人が来るということはありえない。

 現実的に考えて、一度雨季を越えてからだろう。

 それまではまだ数か月という日数が残っている。

 分別のついた大人ならば理解している。

 なのに、行路の方向を眺めてしまうのは、それが祈りだからだ。

 こうあって欲しい。

 救いが来て欲しい。

 願いが漏れ出る様子は誰も否定できない。


 しかし、思いは非情な現実によって妨げられることになる。

 毎日注視しているから、すぐにわかったこと。

 街へと向かう方向が日に日に霞んで見えるようになっていく。

 砂嵐の予兆。

 長くとも三、四日ほどで終わるはずのそれが、延々と続いている。

 これはその方向の遠方で終わらぬ嵐が吹き続けていることを意味する。

 そうでなくとも魔物の大量発生で通行不可能な行路に、ダメ押しの天候不順はみんなの心を暗くした。


 私は次第に判明する恐慌の兆しを淡々と受け入れる。

 不思議なものだが、アニエスとの別れがあった段階で、こうなることが分かっていたように感じるのだ。

 事実、彼女は厄災が襲うと言っていた。

 不幸中の幸いと言って良いのか、砂嵐はあくまで遠方で発生しており、エンセッタへ向かって移動する様子はなかった。

 みんなはそれを神殿の守りのお陰であると考えることに決めたようだ。

 街の方角を眺めることを止めたわけではないが、神殿にも熱心に祈りを捧げに向かうようになった。


 私はと言えば、禁を破ったことで、しばらくは付き添いなしで神殿へ向かうことが許されていない。

 あそこへ行けば否応なしにアニエスのことを考えずにはいられない。

 不安と無力感、僅かな安堵がない交ぜになった感情はいつも私の心の中で渦巻き、自己嫌悪を生み続けている。

 少しでも苦しみから逃れるために、目の前の責務に集中するしかない。


 農場の方はみんなでうまく作業をしてくれている。

 元々不真面目だったというわけでもないが、今となっては命綱となる作物の生育状況の確認は真剣にやるに足るものだからだ。

 作物の品種を増やす準備は以前から行っていたため、種も手元にある。

 こちらの作付けが当面の課題となるだろう。

 もう一点、一部の人間が強く懸念していたのが塩の備蓄についてだ。

 食料の生産が上手くいくなら、私たちの命はこの消費速度にかかっているといっていい。

 それでも打開策はあった。

 あまり気の向くものではないが、避けて通るわけにはいかない。

 研究に使用していた堆肥の収集、分類方法を整備し、発酵と乾燥を行う過程で塩分を分離するのだ。

 塩を取り除く方が堆肥としての性能も上がるので、どちらにせよやるべき仕事ではあった。

 アインに教えてもらった最初にして最後の魔術『分離』。

 それはここに来て命の魔術となった。

 備蓄のあるうちは誰もこの塩を使おうなどとは考えないだろう。私だってそうだ。

 でも、本当に生命の危機に瀕した時、できることをやり切らないならばアニエスに向ける顔がない。


 命に関わる物資。

 水は井戸と神殿のお陰で確保できている。

 作物はぎりぎりではあるが、生産量の増加が間に合う見込みとなった。

 塩も最後の手段を確保した。

 厳密にいえば、肉が足りない。

 アインの言い方をまねるなら『たんぱく質』。

 集落にいる畜産動物では全員を支えきれない。

 少なくとも恒常的な供給は無理だろう。

 解決方法として考えたのは神殿の地下湖にいる魚と魔物の狩猟。

 都合が良いのか悪いのか、今回の問題の根幹であるサンドワームは適切な処理を行えば食用になる。

 無理をすれば危険な作業だが、人員を選抜し、集団からはぐれて集落に近づいたもの限定で捕るようにすればある程度安全を確保できるだろう。

 商隊が来ていたころでは見向きもされなかった食材だが、今となっては貴重な肉。

 無駄にはできない。


 そういった、集落の維持に必要なものを一つ一つ整理して、可能なもの、急ぐものから供給方法を整えていく。

 ときに母に伝え、ときに他の子どもたちからの言伝として。

 特別私だけが働いていたわけではないが、いつしかみんなは私を頼るようになっていった。

 突然家族を襲うことになった厄災。

 いつ終わるとも知れない不安。

 年長の者たちはかつての病魔の猛威を重ねて見ている。


 その中で、かろうじて差す光明の元にあるのが神殿と私だったからだ。

 特に、神殿より賜った奇跡、魔術をもたらした者が私であるという事実には、公開こそされていないがすでに多くの者が気が付いている。

 私はそれを強く否定することなく、肯定もしなかった。

 あくまで魔術が神殿の恵みであるという考え方を崩さず。

 わずかにアニエスの行動によって得られたものだという意見を匂わせる。

 まったく勝手な行動だということは分かっているが、名誉を守ることだけが、彼女のためにできることだった。





 必要な物資を得る目途がなんとか整い、風力を使った揚水技術等、状況の改善に手をつけることができるようになってから、私はやっと一息をつくことができた。


 しかし、体は休まっても頭の中まで休息を得ることはできない。

 目の前で手を動かす作業が減れば減っただけ、反比例して考え事をしてしまうのだ。

 集落のため、みんなのことを考えているうちは良かった。

 少し時間が経って、思考の種が尽きたころ、心に湧き上がるのはアニエスのこと、父のこと。手の届かない、遠い二人のことなのだ。

 何もできることなどないから、ずっと考え続ける。

 無為であることがはじめから分かっている行為。

 単一の思考というものは心の健康に悪い。


 ただただそれだけを思い続ければ、いつしか心の平衡は失われ、自身で気付くこともない。

 私が、今もなお気がふれずにいることができるのは、近くにいる母と集落のみんながつなぎとめていてくれているからにほかならない。

 みんなだって、多かれ少なかれそんなところはあった。

 友人や大切な人と分かれ分かれになっているのは私だけではない。

 そんな仲間が身を寄せ合っていることが最後の縁(よすが)だった。


 備蓄していた塩が尽き、雨季が過ぎ去った。

 期待していた都からの討伐隊の報せはなく、遠く見える砂嵐もやむ気配がない。


 二度目の雨季がやってくるころには、みんなある種の覚悟を決めていた。

 集落が集落だけで生きていく覚悟。

 外の世界と断絶した一生を送る覚悟。

 強い意志の元に決めるものではなく、乾いていく心から身を守るために自ずと生まれたもの。

 最初から外に世界等というものはなく、世界とはエンセッタのことだったのだという『諦め』。


 ――いや、違う。そうではない。

 私には、何かを解決する力がある。友人から分け与えてもらった力。

 そもそも世界という言葉すらもアインから教えてもらったことだった。

 今までの人生でそう長い期間ではないが、私は外の世界にいた。

 大切なことを教えてもらった。

 会うことのできぬ父を、約束を遺した友を、今もなお仲間のために気を張り続ける母を、救うための手段。それを見つけなければならない。

 私だけの力では無理でも、集落の人手で足りなくとも、父が、外の人達が諦めずにいてくれるのならば、私にもできることがある。

 まず、信じなければならない。

 信じることをみんなに分け与えなければならない。


 人が生きるのに必要なものは食事だけではなかった。

 心を支えるもの。

 この地にあってそれは信仰と同義だ。

 神殿に残された資料の中に何かないだろうか。

 謹慎がとけて一年以上過ぎている。

 今なら私が神殿に向かおうとしても表向きの問題はない。

 ……あとは背中を押してくれる『理由』さえあれば。


 アニエスとの別れで中断していた神殿文字の解読を再開しよう。

 目的があれば、ただそれだけで救える心があると思うから。

 私は勇気を振り絞って現実と向き合うことにした。


 幸か不幸か解読はみんなで行うことになった。

 これではアニエスの行先を探るのは難しいかもしれない。

 でも当初の目的は叶えられる。それは彼女の願いでもあったはず。

 とにかくやれることを一つずつ、だ。


 これまでの時間で把握できなかった文字というものは、それなりに理由があってのものだ。

 掘り込みが欠けていたり、共通して使用される場所がなく、意味の推察ができなかったり、難易度の高いものばかり。

 それでも、ただ生きながらえる以外の目的というものは、少しだけ皆の心を湧き立たせた。

 日頃は誰も目を向けないような古い資料を引っ張り出して話し合う。

 それだけでも乾いた心が少し潤っていくのだ。

 みんなで考える。それは馬鹿にならない力を持った作業だ。

 わずかではあるが、これまで全く理解できなかった部分の解析が何か所か進んだ。

 そして、その内容は決して悪いものではなかった。


 『天の遣わす代理人』。

 神殿の奉る『天』とは漠然とした強い力を持つなにかだが、ごくわずかな伝承に、人の姿をして現れることがある。

 それは男とも女ともつかぬ中性的な姿で二人の従者を両脇に控えているのだそうだ。

 民の信仰が揺らぐとき、道を教えるものとして伝えられている。

 その代理人に、迷いを伝え、救いを求める儀式がある、とそういった記述が見つかった。

 発見はちょっとした騒ぎになった。

 閉ざされた場所へ新たな報せ。

 長く忘れていた刺激がみんなの心に満ちていく。

 迷った道を尋ねるという行動は、今の自分たちの境遇とそう離れていないのではないか?

 冷静になればこじつけのように感じるそれを皆が受け入れる。


 またその儀式の内容というものが、傑作だった。

 大仰な準備等必要ない。

 ただ、他者に足りぬもの、自らが人より多く持つ物を各々が用意し、天への感謝とともに互いに分け与えよというのだ。

 この結果を聞いた者は皆破顔した。

 自分たちに必要なものを思い出したから。

 迷い人に道を示すとはよく言ったものだ。

 代理人の存在なくとも、この方法なら何かが見つかる。


 最近は伏せがちだった長老、一心に祝詞を唱え、説教をしなくなっていた祭者、そういった人々まで巻き込んで、『道を伺う』儀式の準備が行われた。

 今、この集落には足りないものだらけだ。

 かろうじて生きていく方法のみが模索され、それ以外のほぼ全てが二の次になっていた。

 そんなことを思い出させる催しとなった。

 誰かが隠していた秘蔵の酒、最近採れた瓜の中でも特別甘いもの、いつか晴れ着を仕立てようと取っておいた高級な反物。成長し、自分には必要なくなった玩具。

 所せましと並べられた前で天へ感謝の言葉を述べる。

 私たちにはまだこれだけの物がある。

 私たちにはまだ分け合える仲間がいる。

 何もかもが足りない中で行われた宴は、夜を徹して続けられた。

 今日だけは燃料の薪を節約するのはやめよう。

 この灯(ともしび)はみんなの心の火だから。


 珍しく夜更かしをしたその日、人生で初めてお酒を飲んだ。

 そのせいかはわからないが、翌日はアニエスと別れて以来、初めて寝坊をした。

 眠い眼をこすりながら、家を出ると外が少しだけ騒がしいことに気が付く。

 話を聞けば、街道の嵐が今日はかなり大人しいのだという。

 良い報せだ。

 だから何かが上手くいくというわけではないが、儀式の翌日の始まりとしては上々だろう。

 みんな昨日の夜は遅かったはずだ。

 今日の午前くらいはゆっくりしても良いのではないか。

 そんな気分で様子を見に行くことにした。

 もしもまた、これから砂嵐が続くようなら当分は見納めになる景色だから。

 脳裏に刻んでおこう。


 遠く、風の音も聞こえない乾燥した平原の向こう。

 最初は見間違いかと思った。

 ずっと眺めてきた景色に違いがあったから。

 すでに高く上がった太陽の熱で揺らぐ大気の中。

 こちらに向かう獣と人の影。

 誰もがそれを信じることが出来ず、無言で立ちすくんだ。

 言葉にすれば掻き消えてしまう蜃気楼。

 それが今、目の前にあるのだとすれば、本当に恐ろしい。

 与えられた希望がまた失われてしまうなんて。

 そんな残酷なことはない。


 私たちの気など知らぬとばかりに、影はじれったいほど少しずつ大きくなっていく。

 それが本当に人の形をしているとわかる大きさになったとき、先頭を歩いているローブの人物が、ゆっくりと右手を上げた。

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