第145話 日々の終わり(下)

 しばらくの時間、アニエスを石壁から救い出す方法を求めて悪戦苦闘した。

 彼女は自分の意志で黒い壁に呑まれたのだから、救い出すというのもおかしな話かもしれない。しかし、あの涙はそのままにしておいてよいものではない。

 何もかもわからない状況で、それだけが私をうごかす原動力だった。

 壁を叩き、オドを流し、少し冷静になって周囲を探る。

 そのときになってやっと、床に落ちていた指輪を拾うことに思い至った。

 いったいどこから出てきたものなのだろう。

 彼女はずっとこの指輪を持ち歩いていたのだろうか。なぜ?

 アニエスの残したほとんど唯一の手がかりである以上、回収しないという判断はなかった。


 その後も何か手がかりになるものはないかと探し回ったが、あまり有益なことはわからなかった。

 正室から続く道はこの部屋で終わっており、他に行先はないということ。

 なにをどう調べても、アニエスを取り込んだ石壁はまったく反応を示さなかったこと。

 それくらいだろうか。

 どこにも寄り道のしようのないあの間に、アニエスは何を知って、どうしてこの石壁の中へと至ったのだろうか。

 彼女は「角が教えてくれた」と言っていた。

 少なくとも道中に現状を示唆する物は残されていないようだ。

 マナをたどって部屋の様子をうかがうことで、下方向、地下には空間がありそうだということはわかるのだが、そちらへ向かう道がない。

 神殿は水源の上に建っているということを考えると、地下水脈へと繋がる洞窟だろうか。

 ほとほと疲れ果ててしまった私は、新たな情報を求めて正室へと戻ることになった。

 その間、頭をめぐるのは諦観と悲観。

 疲労した状態で思考を巡らしても何も良いことはない。

 無理やり考えを打ち切った私は、ひとまずアニエスの願いを思い出す。


 御使いの像。その右手。

 観察してみれば石像だと言うのに華奢な指をしており、そこには装飾具を取り付けることもできるような構造になっている。

 これならば、たしかに指輪を嵌めることもできるかもしれない。

 少し高い位置にある手に背伸びをして視線を合わせたときのことだった。

 石像に文字が彫り込まれていることに気が付つく。

 腕で隠れた胸元。

 まるで装飾品の付け外しをしようとした人間だけが見つけられるように、図ったかのような場所に薄く文章が見える。これは私たちが解読している神殿文字だ。


 『厄災……、鎮――、…………装具、魂と安寧』


 私の知る物より古い言葉なのか、純粋に単語が難しいのか。

 分からないなりに意味を拾ったところで見えてくる新たな不安。

 本当に約束を果たして良いのだろうか。

 もしも……、もしもアニエスが託したこの指輪がここで言う装具だとするのならば、それはなにか恐ろしいものを封印する機能があるのではないか?

 彼女の言っていた「大変なこと」とも意味が一致してしまう。

 それはアニエス自身が厄災の元であるかのような、あの言い方を肯定するという意味でもある。

 願いを叶えてしまえば、彼女はどうなる?


 私に託したのはなぜ?

 自分でできない理由があった?


 不安と焦燥にかられたまま葛藤していた私を止めたのは違和感。

 周囲をとりまくマナの変化だった。

 もとより神殿は、この地域では特別魔力の多い場所である。

 しかし、今、ここで起きているマナの流動はその域を超えている。

 最初は少しずつ、次第に勢いを増して、地下にマナが集まっていくのを感じる。

 留まることなく集まり続けるそれは、これまで知覚したことのある規模を大きく超えて今もなお増え続ける。

 まるで大陸中の魔力をかき集めるかの様に。

 絶対に危険だ。

 そんなことは分かり切っていたが、私に決断を求めたのは別の変化だった。


 地鳴り。

 自身の足元が文字通り揺らぐようなとめどない震え。

 不変であるはずの大地が揺れるという恐怖。

 責任を果たさない私を責めるように次第に大きくなっていく。

 ついに耐えられなくなり、私は持っていた指輪を石像の右手にはめてしまう。

 適当に選んだのは中指だったが、大きさはそれで良かったようだ。

 あつらえたように指の根本に固定されたそこに、瞬く間にマナが集まり始めるのを感じた。


 指輪は、不気味な光を放っている。

 まるで神殿全体を大きな機械に変え、複雑なマナの動きを制御しながら石像に集めているように思えた。

 それと引き換えに、地揺れといって良い規模になっていた地下の動きが少しずつ治まっていく。

 足から力が抜け、へたり込んでしまう。

 指輪を、手放してしまった。たった一つ残されたアニエスとの絆。

 それを恐怖に負けていとも簡単に。

 今もなお魔力が流れ続ける目の前の石像から指輪を外すというのは危険なことだと感じる。このままにしておくしかない。


 たぶんこの時だ。私が決定的に色々なことを諦めてしまったのは。

 正室を出た私の気持ちを理解するかのように、その戸はせり出す岩に閉ざされ、新たな入場を拒んでしまった。

 絶望的な現象ではあったが、なんとなくアニエスを守るための動きであるようにも感じられる。

 これで、今日ここで起きたことを知る人間は私しかいなくなってしまった。


 集落に戻った私は何が起きたか長老と母の前で説明した。

 責任を果たすというよりは言い訳のため。

 できるだけ嘘をつかないように、しかし、まるでアニエスが災厄の原因となるかのような部分は巧妙に隠して。彼女が、危険を止めるために身を挺したと受け取られるように。

 結果論になるが、このときの判断は私の身の安全にも繋がることになった。


 荒唐無稽な話ではあったが、彼らはそれが嘘であるという決定的証拠を見つけるには至らない。

 ただ正室への入口が塞がれた事実が確認され、地揺るぎによる崩落として扱われることになった。

 アニエスは事故の被害に遭い、目の当たりにした私は錯乱してしまったのだと受け取られたようだ。

 私の発言は情報の一つとしてとどめるにおかれ、禁止された区画へ近づいたことを理由にしばらく謹慎処分を受けることになった。

 そこには言い訳の余地もなく、諦観の沼にはまってしまった私はただそれを受け入れた。

 決して軽い罪ではないので、食事も制限されるような厳しい環境だったが、これも心には届かない。

 ただ、母に迷惑をかけてしまったという事実だけが落ち込む私により一層の自己嫌悪を与えることになった。

 かといって、あの状況下でこれ以上のことができたとも思えないのだが。


 エンセッタという集落から見れば、一人の孤児がいなくなる今回の事件は大きな厄災のほんの発端に過ぎなかった。

 当時謹慎していた私は伝聞で知った話になる。

 異常はどうやら商隊が予定の期日に現れなかったことから始まったようだ。

 貴重な物資を運んでくる彼らの予定はかなり細かく日程が決められている。

 しかし、それは絶対のもの、というほどではない。

 問題があったり気候条件によって当然、前後するものなので、数日の間は誰も気にしていなかった。

 彼らが到着しないまま一週間が過ぎたころ、どうやら不測の事態が発生しているらしいということになった。

 住人達の間には緊張が走ったが、これまでまったくなかったこと、というわけではない。対応は事前に決められている。

 すなわち、捜索隊を編成して出発させることだ。

 こうなることを見越して物資は十分に備蓄してある。

 みんなの楽しみはお預けになるが、命の危機を感じるほどのものではなかった。この時点では……。


 捜索隊の仕事は現状の確認。行路上を進み、商隊を探す。

 もしも見つけることが出来れば、予定を変更した理由を確認し、今後の対応を検討する。

 万が一、商隊が発見できない、あるいは全滅した可能性を示唆する証拠を見つけてしまった場合は、最寄りの街までそれを報告しに行く手はずになっている。

 もしかしたら、顔なじみの商人に何かあったのかもしれない。

 そんなことを心配はしていた。

 しかし、自分たちの身内に何かが起こるようなことだとは誰も考えていなかった。


 当たり前のことだが、捜索隊は旅慣れた人員で編成される。

 住人の期待を背負って出発した彼らは、十日と経たないうちに帰ってくることになった。

 商隊を引き連れてではなく、出発した内の一部を失って。

 言葉少なに語る捜索隊の話をまとめると、サンドワームという魔物の異常発生が起きており、それに隊が巻き込まれてしまったということだった。

 商隊は大量の物資を運んでいる。

 護衛が付いているとはいえ、数の多い魔物の相手となると分が悪かったのだろうと。


 ここに来て、集落の人たちを大きな不安が襲うことになった。

 サンドワームという魔物は一度巣を決めてしまえば簡単に移動を繰り返すような習性はない。

 多くの戦力をかけて駆逐しなければ、当面、街への行路は利用できないということなのだ。


 とはいえ、問題点は把握できた。

 人々が行路を移動できないという事実は遠からず都にも伝わるだろう。

 そうすれば討伐隊が編制される。それまでの辛抱だ。

 なんなら、もうすでに情報だけなら伝わっている可能性がある。

 来(きた)る解放の時を待って非常時対応をすすめることになった。


 これまで謹慎処分にあった私に、事の次第が伝えられたのはこの時のことだ。

 私が農作物の増産計画を進めていたから。

 食料を少しでも多く確保するために働け、ということだった。

 人の為に動くことは贖罪にもなると。それに反対するつもりはなかった。

 一人で過ごす長い時間、何度となく頭の中で繰り返した自問自答。あの時、私には何ができたか。これから私に何ができるか。

 今でも薄れることなく克明に思い出せるアニエスの言葉。『みんなを助けてあげて』。

 彼女はそれが私にできるから、とそう言っていた。

 私は何も返答していない。でも答えは決まっている。だからこれは最後の約束だ。守らなければならない。


 幸い、私がいない間も農場の管理はうまくされていた。

 それを拡張する計画を立てる。

 一部の人間しか知らなかった魔術による肥料の生成。

 これを最大限に活用すれば無理な話ではない。

 ここで私は長老や祭者たちと話し合って一計を案じた。

 この魔術(ぎじゅつ)は神殿より与えられた苦難を乗り越える術(すべ)であると、そう広めてもらったのだ。

 集落存亡の危機。

 この時、日々祈りを捧げている神殿が沈黙したままでは、魔物よりも前に内側から崩壊が始まってしまう。

 流行り病の地獄を知る大人たちはその怖さを良く理解していた。


 結果的にこの判断は正しかった。

 魔術は、一つだけではなかった異変を乗り越えるために必要不可欠なものだったから。

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