第144話 日々の終わり(中)
「ここは?」
やっと現状を確認する余裕が出たようだ。
「神殿の正室の前。何があったか覚えてる?」
「それは、いつもの水汲みに出て、それから……」
どうやら、道中からしてすでに記憶がおぼろげらしい。確かに、様子はおかしかったと思う。
でも、そんな調子なら早く伝えて欲しかった。重労働なのだから事故があっては大問題だ。
「あなたは、その途中で急に倒れたの。それからオドがおかしいみたいだったから、ここまで連れてきた。体調はどう?」
額にある角。これについてはまだ話さない。自覚症状を確認してからだ。
「……大丈夫、かな?」
曖昧な答えだけど、現状を考えれば仕方がないか。
「もし動けそうなら、もう少し様子を見て戻りましょう。調子が悪い時に無理をして水汲みをする必要はないわ。お祈りだけしておきましょう」
「…………」
随分と長い沈黙があった。まだ本調子ではない彼女は何を考えているのだろうか。
「体調のことだったら大丈夫よ。病気じゃなくて、問題は魔力みたいだから。前にもこんなことがあったでしょう?」
「……うん、……前にも」
今一本調子の戻らないアニエスは、やはり違和感があるのか自分のおでこに手を持っていこうとする。
「触らない方がいいわ。なんだか変な痣が出来てる。後で私が循環して様子を見てあげるから――」
優しく手を掴んでそれを止める。
治療できるかどうかはともかく、今はあまり考えることが多いのは良くないだろう。
応急処置として、腰に巻いていた飾り布をほどいてアニエスの頭に巻き付けておくことにした。
この飾り布は、風の強い日に髪に砂が付くのを避けるのに使ったり、ちょっとした物を包んで運んだりするのに使うもので、この地域の女性なら誰でも持っている。
アニエスも違和感なく身に着けることができるだろう。
「そうだ、水を汲んできましょうか? 顔を洗うだけでもさっぱりするでしょう」
持ち帰るためではなく、介抱のために。彼女はしばらく安静が必要なので、私は少し暇だ。
外で土魔術を使って器をつくり、地下で水を汲んでくるというのは良案に思えた。
懸念と言えば、アニエスを一人にすることだけど。
「………………お願い、できる、かな?」
長い沈黙が続き、また後で声をかけようかなと、そう思ったところで返事があった。それは、少し掠れた声で、むやみに私を不安にさせる。
「本当に大丈夫? さっきより調子が悪そうだけど」
「うん、ちょっと……、汗をかいて喉が渇いたのかも……」
これだけ返答ができるなら大丈夫だろうか。
「なら、急いで行ってくるから、おでこの痣、触らないようにね!」
「うん、『わかってる』。躓いちゃうと危ないからゆっくりでいいよ。いつもフルーゼが言っていることでしょ」
返事にひっかかる部分があった気がしたが、その後の言葉でそれは流されてしまった。
もっと、このことをちゃんと真剣に考えるべきだったと後悔したのは少し後の話だ。
「そうだったね。気を付ける」
この時は、私はそんなにお小言ばかり言っているのだろうかと、少しバツの悪い気持ちで神殿の地下へと向かっただけだった。
約束通り、即席の器に水を汲み、正室へ向かう階段を上る。彼女の病状を考えながら。
どうも今日のアニエスは様子がおかしい。体調も、反応も。
さっきだって私を見送る時にマナから緊張した様子が伝わって来た。
……緊張? アニエスが私に? なぜ?
特殊な状況下で、私は平常心を失っていたのだろうか。
彼女が私を前に緊張するということは何か理由があるのだ。
例えば隠し事があるとか。
やっとそのことに思い至り、階段を駆け上がる。
ここまでどれくらい時間がたった?
私を遠ざけていた間にアニエスは何をしようとしている?
不安を抱いたまま戻った正室の入口に、アニエスの姿はなかった。
どこへ向かったのだろう。
高まる心臓の鼓動を無視しながら努めて平静であろうとする。
これ以上の失敗はだめだ。
水の入った器を床に降ろすと彼女の行先を推測する。
地下からここに来るまでの間にアニエスの姿はなかった。
そこはほぼ一本道なので私の元へ向かったわけではないはず。
それなら行先は大きくわけて二つ。
神殿から外へ出ようとしたか、……あるいは目の前の入口、――正室の中へと向かったか。
外へ出ようとしたのならば、どちらかというと地下へ向かう道に近づくことになる。
途中まで私と同じ経路を辿るので、見失っていた時間は短い。
その間に、私がマナの変化に気が付くことなくアニエスの移動を許す可能性はどれくらいだろう。あまり高くはないと思う。
確認するならば、内側だ。もう一度仮定を振り返った後に私はそう判断した。
彼女の異常と神殿には関係がある。もしかしたら、また発作が起きたのかもしれない。
それを抑えるためにより『力のある場所』へと向かった、というのは道理が合う気がする。
……本来なら、この部屋の中へ入ることは許されない。
限られた時、限られた人間だけが入室を許可されるのだ。
エンセッタで育つ人間にとってその意味は重い。
……それでも、様子のおかしい友人をそのままにはしておけない。
決然とした気持ちを確かめるように服の胸元を握ると、部屋の中へと入ることにした。
入口をくぐった先。そこですぐに違和感を覚えることになった。
石造りの神殿は、どこもだいたい同じ様な匂いがする。
すなわち、乾いた砂のにおい、それが冷えた時に発生する独特な香り。
そう不快なものではないけれど、なんだか鼻の奥が渇くような不思議な感覚がある。
私たちにとってこれは神聖なにおいと同義なので、普段なら、無意識に背筋を正してしまうような、そういった空気の元だ。
それがここにはない。
長年閉ざされ、数十年に一度の祭事のみで開かれるこの祭場。
人の出入りがないからといって、においまで変わってしまうものだろうか。
心無しか、気温まで下がってしまったような気がして身震いする。
おずおずと周囲を確認したが、視界にもマナの反応にもアニエスの姿はなかった。
代わりに、奥には一つの影があった。
人の形をしていると言えなくもないが、これは像だ。
見るのは初めてでも、話には聞いたことはある。
私たちが祀る天より現れた御使いの像。
この国全てが窮地に陥る時、どこからか現れて救いをもたらす者。
人ならざる天の代行者。
頭がなく、両手を胸の前で重ねている。
その腕は石像であるにもかかわらず、独立して造形されており、重ねられた手の間には隙間があった。
それがなんだか理由のあることであるような気がして不思議に感じる。
しかし、ここにアニエスの姿がない以上、今はそれはどうでも良いことだ。
判断を間違えた? この部屋に先があるという話は知らない。
これまでの検証で、ここ以上にアニエスの魔術に干渉する場所もないように思えた。
なら、彼女はどこへ向かったのだろうか?
焦る気持ちでこの場を後にしようか考え始めたとき、石像の後ろにある空間に気が付いた。
そこだけ様子がおかしいのだ。
最初は影だと思ったのだが、壁の石の色が異なる。
まるで、長い間そこに何かあって、それがつい最近動かされたかのように……。
近づき、確かめてみれば石像の後ろには非常に急峻な階段が、下の階層へと向かう道を作っているのが見えた。
アニエスはこの先にいる。
直感の域を出ない憶測。
でも急がねばならない私は、先を行くしかない。
いずれ戻ってくると分かっていて私に水を汲みに行かせたアニエスは、その僅かな時間で何かをしようとしているからだ。
気を抜けば転げ落ちてしまいそうな階段を、可能な限り速やかに降りた。
上と同じ様に石造りの短い廊下。
……その終わりにマナの反応がある。
状況からアニエスのものとしか考えられない。
しかし、異質な反応。
動悸が激しくなる。
先に進むことを恐れる気持ちを振り切って廊下を駆け抜けた、その先。
「フルーゼ……、やっぱり来てくれた……」
他の部分とは異なる色合いをした真っ黒な石壁の前にアニエスが立っている。
どうやら彼女の発言を鑑みるに、私がここへやってくるのは予定通りらしい。
「……当たり前でしょう。なんで一人でこんなところに来たの? またどこか体調が悪くなった?」
あるいは、どうしても私をここに連れて来たかったのか。
「……うん、ありがとう」
質問に答えたような答えていないような返答。
「でも、今は自分で動けるんでしょう? 一度ここを――」
「ねぇフルーゼ、さっき私が目を覚ました時、何をしようとしたか覚えている?」
私の話を遮って彼女は続ける。
「何って、抱き着いてきたこと? どうしてそんなこと……。怖い夢でも見た?」
わざと茶化すように聞き返す。
どうやら彼女との話に付き合わなければどうしようもないらしい。
「うん、怖い夢を見たの。でもそれは夢だけじゃなかった、目を覚ましても怖い現実が続いているの。今、この時もずっと、ずっと」
冗談をそのまま受け入れてアニエスは続ける。
私はもう、黙って聞くことしかできない。
「さっき私がああしたのは、その怖い夢のせい。だけど、助けて欲しいと思ったからじゃないの。私はね――」
そこでしばらくの沈黙があった。
「――殺さなきゃ、ってそう思ったの」
背筋が冷える。何がなんだかわからない。
ただ、冗談でこんなことを言う子でないということだけは理解できていた。
「目の前にいるのがフルーゼだってわからなかった。でもどちらにせよ殺さなきゃって、それ以外に重要なことなんて何もないんだって、そう思って。でも私馬鹿だからその方法なんてわからなくて。それで気が付いたの。本当に馬鹿で良かった。友達の命を上手に奪えるような人間じゃなくて。……ううん? 私はもう人間じゃないね」
右手を上げて額を触る。
そこには、先ほど見たよりも一回り膨れ上がったような、なにか……。
「これはね、痣じゃないよ。角なの。普通の人にはこんなもの、ないよね……」
あの大きさで、あの形のものがあの場所にあれば、人はそう思うかもしれない、しかし……。
「でもね、これだけなら悪いことばかりでもなかった。全部これが教えてくれたから。今の私のこと、全部」
さっきからずっと、彼女が何を言っているのかわからない。
「ごめんね、そんなこと言ってもびっくりするよね。でも、今の私は色々分かったの。その中で大切なことは一つだけだけど。このままでいると私は全部めちゃくちゃにしちゃう。神殿も、エンセッタも、国も。それだけの力があって、そうしなきゃって思って。そうしたくないって思ってもずっと強くやらなきゃいけないって思うの。止められない」
ここでやっと、彼女の瞳にあふれる涙に気が付く。
その特徴的な赤い瞳は今、怪しい光を放ちながらも彼女の葛藤を表す涙を宿している。
なら、目の前にいるのはアニエスだ。そう判断して私は一歩前に進もうとする。
「……だめ、そこでもう少しだけ話を聞いて。すぐに終わるから。フルーゼに、お願いがあるの。本当は全部ひとりでやるつもりだったんだけど、自分だけじゃ無理なの、気が付いてなくて、私馬鹿だから。でも、それでうまくいったこともあるんだからしょうがないよね……。ここの上に首のない石像があったでしょう? その手に、この指輪をつけて欲しいの」
そういった彼女の手にはいつの間にかその瞳と同じような色をした赤い石のついた指輪があった。
注意深く観察してみれば、マナに反応がある。
普通のものでないのは一目瞭然だった。
そんな指輪を、事も無げに床へと置く。
それが必要な物だと言うのなら、なぜそんなに雑に扱うのか。
「当たり前でしょう。難しいことは力をあわせてやろうって、決めたじゃない! 今まで私の手伝いばかりやってもらって、アニエスが困ってるなら私がなんとかする!」
「……うん、ありがとう。フルーゼ。でも貰ってばっかりだったのは私だよ。何も返せないけど、聞いて。『この後』、神殿とエンセッタには大変なことが起こる。みんなを助けてあげて。フルーゼにしかできないことだから。フルーゼならできるって、知ってるから」
なんで……、なんでさっきから今生の別れのような言葉ばかりなのか?
それを問いただそうとしたところで私は異変に気が付いた。
アニエスの右手は黒い石壁に触れ、そこには僅かなオドが流れていることに。
「――ごめんね。もう時間がないの。これ以上、私が何かしちゃう前にここで止めるつもり。フルーゼ、全部ありがとう。私を助けてくれて。私を神殿(ここ)につれてきてくれて。お陰で、大切な人達を傷つけなくてすむ。本当に、ありがとう」
涙と悲しい感謝の言葉。
それだけを遺したアニエスは、黒い石壁に視線を向けると一歩足を踏み入れた。
本来不可能な壁の方へと向かって。
しかし、私の予想に反して石壁はとぷんと液体につかるように、彼女を飲み込んでしまう。こともなげに、あっけなく。
目の前で起きたことが信じられなくて、それでもアニエスを助けなければという一心で足をすすめ、自分も石壁の中に手を延ばそうとした。
ひやりと、固い反応が私の手を押し返す。
最初に私が想像したように、ただの石壁のような反応。
それでは友人を飲み込んでしまったあれはなんだったというのか。
恐れと驚きの気持ちで握った拳を壁に叩きつける。
しかし、循環も使っていない手はいとも簡単にはじき返され、じんじんとした痛みだけを残した。
これが、あっけない私とアニエスの別れ。
それはなにもかもを理解できないまま、ある日突然訪れた、戦いの日々の幕開けでもあった。
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