第142話 受け継いだもの
水汲みの日課を適度に疎かにしながら検証をすすめてわかったこと。
それは、どうやら神殿には、彼女の循環制御を助ける力があるらしいということだった。
正直に言えば不思議ではある。
なぜなら、同じ様に魔術を扱う私がそういった特殊な現象を観測したことがなかったからだ。
水汲みは重労働なので、横着をして循環を使うようなことは何度もあったが、特別そこに変化があったという印象がない。
当面、アニエスに悪い作用がある様子もないので、訓練自体は継続することにする。
日課に合わせて行えるのですこぶる効率が良い。
本人の言によると、神殿に近づくほど制御はしやすいとのこと。
ということは神殿自身、あるいは神殿のある場所に原因があるのだろう。
みんなが崇めたて、日々参拝しているのは伊達ではなかったということだ。
……お祈り、ちゃんとしておこう。
日々は流れる川のように、留まることを知らずに過ぎ去る。
神殿の機能はわからないままだけど、アニエスの循環技術は随分上達した。
私は、その段階を見て次の魔術訓練を本格的に進めることにした。
分離の魔術。
アインが教えてくれた技。
ただ単に、そこにある物質から一部分を取り出す技術。
そしてそれを応用して新たな物を形作る技術。
これらを使ってある目的を果たそうと考えている。
辺境の田舎であるエンセッタは、神殿のお陰で余裕があるといって良い生活ができている。
しかし、不満というものがないわけではない。
その多くは流行りものが手に入らないとか甘いお菓子が食べられないとか、つまらないとか、そういった一般的にはわがままと言えるものではあるが、中にはそれなりに深刻なものも混じっている。
一つは物資の問題。
水こそ井戸や神殿から手に入るが、この集落はそこにいる人を養えるほどに物が足りてはいない。肉や野菜、穀物の多くは外から運び込まれている。
また、塩に至っては全く手に入れる手立てがなく、まさに街からの道が命綱となっていた。
もう一つは医療の問題。
私がここにやってくるよりも前、エンセッタを襲った流行り病は今もなお、みんなの心に大きな傷あとを作っている。
私にとって最も近しい例をあげれば、アニエスこそ、その当事者だ。
この病に対する手立てがどれだけあったかはわからないが、十分な薬や知識を持った人間がいれば、助かった者もいたのではないかと思っている。
そういった考えから、みんなは医師、薬師を招致しようとしているらしいのだが、まだ上手くはいっていないらしい。
これらのうち、私は少しずつ魔術による改善を行おうと考えていた。
うまくいけば、母の立場が良くなるし、年に数回しか会えない父が、もっと長い間エンセッタに滞在できるようになるかもしれない。そういった力の源泉にするために。
その中でまず取り組もうと思ったのが農業改革だった。
日持ちのする穀物と比較すると、それ以外の野菜はここでは稀少品扱いになる。
そういった物がここで育てられるようになればみんなとても嬉しいはずだ。
それに、滋養になる物が作れれば、病だって減るかもしれない。
美味しいものを食べて健康なら、文句を言う人間なんていない。
エンセッタでは少数ながら、痩せた土地でも作付けが可能なものを育てている。
そんな共同畑地の一角に実験用地を確保する。
そこは元々、雨季の合間に子どもたちが泥遊びをするために使われている場所で、炎天下の普段、近寄る人間はあまりいない。
今の内なら色々と試せるだろうと目をつけていた場所だった。
日射に晒され続け、裸足で歩く気にもならないほど熱せられた土壌には野草も生えない。ここで、みずみずしい野菜をつくりたければどうすれば良いだろう。
「どう思う?」
そんなことをまず相談するのは隣にいるアニエス。
何か良案を期待してのものではない。
「ここで育てるの? 無理だよ……」
案の定、否定的な答えが返って来た。しかし、続きがある。
「だって神殿の方とは全然違うもの」
お? それは存外良い着眼点なのではないか?
「何が違うんだろうね。何があれば、神殿の方と同じようになると思う?」
まず、なんといっても水だろうか。
あのあたりの地下にはふんだんに水が溜められているはずだ。
みずみずしい木々と無関係だとは思えない。
それ以外だと。
「えー、何もかもだよ。まず、ここには木陰がないから暑すぎ! あとは、土の感じもなんだか違う」
ふむふむ。
「じゃあ、その二つが解決したら、育てられると思う?」
「……もしかしたらできるかも。でも、大変だよ? そんなことするくらいなら神殿で育てちゃえば?」
実は私もそれを真っ先に考えはした。
しかし、いくつか問題があるのだ。
「習ったでしょ。私たちは恵みを分け与えられて生きているんだって。欲張って天から奪おうとすれば何もかも失うのよ」
私は知っている。
頑ななこの言葉は経験によるものだと。
「昔の人が、何度か試そうとして失敗しているんだって。あと、あのあたりでとれたものを口にしてお腹を壊したり」
言いつけというものは、あれでちゃんと理由があるものだ。
「じゃあしょうがないかー」
とは言ったものの、私自身は諦めてはいない。
それぞれの問題の理由が明確になれば、神殿で作物をつくるというのは悪い案ではないと思っている。
今は目立たないように、このあたりで試しているだけだ。
こうして、あれが無理、これが無理と言いながらも、案を集めた私たちはそこを小さな農地として改良し始めたのだった。
最初のとっかかりは例によってアインの教え。
植物は土の中の栄養と空気中の成分を太陽の力で結び付けて成長するのだと言う。
土の方はみんな知っていることだが、空気の方は驚きの言葉だ。
しかも、割合で言えばそちらの方が大きいこともあるらしい。
太陽の力で、というのも興味深い。
確かに日の当たらない場所で作物は育たない。
しかしここのようにあたりすぎてもダメである。『ちょうどよい量』があるのだろう。
これは検証要素だ。
そういったことを組み合わせて始めることにした実験は以下の通りだ。
使用する作物はこのあたりで作っている瓜。
これは育てやすく種が手に入りやすいから。
最初に検証するのは肥料に何を使うかという部分にする。
記憶を探った結果アインの言葉に『大地の恵みとはすなわち窒素、リン酸、カリウムである』という部分があったからだ。
これらの組み合わせで瓜と相性が良いものを探る。
種一つごとに土を区切って混ざらないようにし、それぞれを添加する、しないの違いで八種類のサンプルをつくる。
これに、アニエスが言っていた日の強さを検討して日陰を作ったもので同様に八種類。
あとは試してみたい他の要素を組み合わせて計二十種類。
結構な規模になってしまったが仕方がない。
作付けから収穫までの期間は普通なら三カ月ほど。
この地域では年三回の植え付けを行っているが、畑の位置は小まめに変える。
これは連作障害があるからだ。
もしも、そういった問題が解決できれば生産高は一気に増やすことができるのだが、今は目の前のことからだ。
比較的生育は早いと思うのだけれど、すぐに結果が出るというほどではない。
世話をしながら他にもできることを進めることにする。
一つは過去の資料をあたることだ。
こういったことに関わる資料が集落の共同家屋に収められていることは分かっている。
私はそういった勉強がしたいということを素直に祭者に打ち明け、そこを当たれないかという打診を行った。
元より集落に必要な知識である。
子どもには早いという考え方こそあれ、文字の勉強も併せて無駄になるようなことは一つもない。すぐに許可が下りた。
ここで私が知りたかったのは過去の『失敗の記録』だ。何をして、どうなったのか。
うまくいったことは今では当たり前の作業として残っているが、ダメだったことは大人たちも知らない。
研究の土壌は失敗で育つ。
それを少しでも早めるために、過去の記録から摂取しておきたいと考えたのだ。
失敗した肥料、水やりの仕方、品種。
そういった物をかき集めて次に行うべき実験を検討する。
並行して現行の農場での生育も進める。
奇異な目を向ける人間もいないではなかったが、そこは日ごろの行いで乗り切った。
大人の手伝いをしようとしていること自体は自明の理だったし、そこにアニエスを懐柔して手伝いをさせているという事実もそういった部分を助ける要素だった。
三カ月が経過し、多少の収穫を得た。
良い結果の所も悪い結果の所もあったけれど、まったくの失敗でなかっただけで大人の評価は悪くなかった。見ていろ、これからはどんどん生産量を増やして驚かしてやる。
意気込みはあったものの、日々の行動は単調だ。
記録し、検証し、検討し、計画する。くり返し、くり返し。
しかし、行動の度に結果は変わるのだ。
雨季を挟んで二年が経つころには私たちの農場を誰も無視できなくなっていた。
適応を繰り返した農場は日陰や畝を持ち、定期的に肥料が与えられ、水やりの方法が定められていた。
他の畑と一線を画する様相だ。しかし、面積あたりでとれる瓜の量はどこよりも多い。
今は糖度を上げて味の改良まで試みている。
そろそろ大人の手伝いを割り振られる年なのだが、私たちは当然のようにこの実験を続けることが許されることになっていた。
しかも、手伝いのための人員まで増やされて。
とは言ってもそのほとんどは年少の子どもたちなのだが。昔の私たちにできたのだから、彼らでも大丈夫だろうという考えだろう。
望むところだ。やって欲しいことなんていくらでもある。
……そうはいったものの、人を使うということは決して安易なものではなかった。
一人ひとりの性格を把握して何にやる気を見出すのか常に注視していなければならない。
運の良いことに、収穫したばかりの甘みの強い瓜の味は彼らを虜にしている。
これで自分たちが何の為に働いているのかという目的意識を強く焼き付けることに成功した。
二人ほど見込みのある子もいて、私はその子たちに大人に内緒で魔術の訓練を実施する計画を立てている。
その後の二年ほどはほとんど人員の育成に費やすことになった。
実験自体は細々と続けていた程度だが、作付け面積は大きく広げることができたので生産高自体はかなり増加している。
実績を積み、人手を得て、方法論を確立した。
次に進めるべきは生産品種の増加、そして農業以外への参入だ。
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