第三章
第61話 此処に至る道のり(上)
私の父は凡庸(ぼんよう)だ。
誰かより決断が早いということも、秀でてそれが正確ということもない。
遠い未来を見通せる目もなければ、戦士のような体力もない。
必然、冷酷な選択などできようもないし、重責に耐えて平然とした顔もできない。
別段、能力が低いわけではなく、この国のほとんどの人間より教養があり、人並み以上に身だしなみにも気を使っている。
比較的健康な食生活を送り、放蕩に溺れたりもしていない。
多少は贅沢な暮らしをしているが、これは彼の職務上仕方がないし、なによりも優しい父だった。
ただ、その優しさを貫き通すほどの強さが無い点がまさに凡庸だと言える。
この齢になって、なんとか世間を見回せるようになるまで、凡庸な父という存在が害悪で無いなんて知らなかった。
むしろ、多くの家庭においては好ましい存在だったなんて……。
それはまさに価値観の逆転といえた。
そんな『当たり前』が当たり前ではない場所。
そんなところでそれまで私は生きてきた。
しかし、その常識を知ったところで私を取り巻く環境は変わらない。
ここにいるすべての人間は思っている。
この場所と比べればその他の価値観などとるに足らない。
そして残念なことに、多くのこの国の人たちはその考え方を看過していた。
そんな異常としか言えない場所の名前は王宮。
そして私の父は王太子、つまり次期国王。
この場にあって意見に異を唱えられる者などほとんどいない、最も頂点に近い場所。
最も地獄の窯の蓋に近い場所。
ただ凡庸であることが大きな傷となり罪となる、そんな立場だった。
この場所で、地獄を地獄とも知らずに見て育った私の幼少期は子どもなりの命をかけた戦いの日々だった。
ここでの私の立場は王女。
継承権からは遠くも近くもない。
取っておけば使いようがあるかもしれない駒。
誰もが気にはするが守ってもらえない、そんな位置づけ。
私には弟がいて、彼は多くの人にいずれこの国を継承するのにふさわしい人物だと考えられている。
当然、敵も多い。
凡庸な父はそんな息子を守り、この戦いの場から遠ざけるのに精いっぱいで私のことはどうしても二の次だった。
その結果、弟は母の実家となる公爵領で身を守ることに成功したが、私はここに残ることになる。
宮廷で子どもにできることなどたかが知れている。
そんな侮りの影に隠れ、少ないながらも私を助けてくれる身近な人間を探してなんとか生き残る。
そんな見た目の華美さとはかけ離れた日々が日常だった。
八つになったころ、自分に魔術の才能があることが認められた。
それに私は狂喜した。
多くの魔術院の子どもが経験するような万能感が理由ではなく、ただ王宮を離れられる糸口になるから。
私の立場なら宮廷魔術師の教師をつけることが一般的だが、それは理由をつけて断った。
宮廷魔術師と暗殺は切っても切れない縁だ。
味方につけられているならともかく、信用できない相手では殺してくれと言っているようなもの。
周囲の人間は暗黙のうちにそれを理解していたので無理強いされるようなこともなかった。
もし無理強いすれば『こと』が起きた時、犯人ということになるのは自分だからだ。
一方で魔術院という場所は悪くなかった。
籠の中の鳥なのは変わらないが、あの場所は存外暗殺に強い。
国の保護があり、在籍者全員を魔術師が分け隔てなく守っている。
開けているようで、誰かをつけ狙うようなことは難しい。
開放的で安全。
そういった印象を守るために、例年かなりの予算が割かれているのだ。
建前のためではあったが職員はかなり優秀だった。
数年間という期限はあるものの、身を守ることができるのは大きかった。
王宮の人間も、私が数年姿をくらますのは厄介払いできるという考え方が多数だったはずだ。
誰にとっても良い答えだったと思う。
こうして、父のことを信用に足らないと考えていた当時の私は、うわべだけの挨拶を残し、身近なごくわずかな人間のみに手紙を書くことを約束して王宮を飛び出した。
今思えば、この時私は少なからずわくわくしていたはずだ。
初めての感情を理解はできていなかったが。
自覚の無い希望を胸に飛び込んだ魔術院はなんとも言えない場所だった。
考えてみればそれまでの環境のせいで期待が大きすぎたのだ。
当たり前だが王宮と比べれば味気ない似たようなものばかりの食事、簡素な住環境。
そして既にどこかで聞いたような内容ばかりの講義。
これは初学年での学力のばらつきに対するもので、要は簡単な内容から始めているだけなのだが。
ただ、そんなことは私にはどうでも良かった。
それでも安全で自由な環境である以上、今のうちに力を蓄えることはできるはずだ。
当初の予定通り、卒院した後に力となってくれる者を探してまわった。
ここならば王宮でも力を揮(ふる)える魔術師がいるはずだ。
あそこで生きてきた当時の私にとって力とはコネそのもの、そしてそれを手に入れる方法は自分の立場を天秤にかけ借金をするように相手から引き出すものだった。
当然、その行動は難航し、いとも簡単にとん挫した。
魔術院は想像以上に平等な場だったのだ。
王家の威光など届かない、だから私は守られている。
だから初年次の素人魔術師なんかに価値はない。
力を貸してくれるものなどいなかった。
計画が破綻した私はしばし茫然とし、新たに考えを見直した。
ならば実力をつければよいのだ。
この学院にあって力とは魔術。
その点の違い以外は王宮と変わらない実力主義の世界。
幸い時間は結構ある。
一から積み上げてみせようじゃないか。
やってみれば魔術の勉強はそこそこ面白くはあった。
コネのために興味もない人間におべっかを使うよりはずっと。
しかし、力を入れて学べばすぐにわかる、手の届かない高み。
才能の差ではなく秘匿された知識に触れることができないのだ。
思えばあのころの私はもっともやさぐれていた時期になるのだが、それでも研鑽を積むことをあきらめてはいなかった。
――だから出会うことができた。
魔術院に来てからしばらくして、相談役の先輩がつく制度の説明を受けた。
学院の講義にわからないところなどなかったのだが、年長者に縁をつなげるという点は悪くないと思った。
候補者の中には優秀な者もいると聞く。
うまくすれば簡単には学べない技術も知っていることだろう。
なに、所詮は学院に通っている子ども。
知識の価値もわかっていないのだろうから簡単に引き出せるに違いない。
この予想は半分は正解で半分は不正解だった。
そしてその両方の要素が私の想像の範疇を大きく超えていた。
結局、予想は全部外したようなものだ……。
教師から紹介された私の相談役は、想像していたよりもずっと幼かった。
ほぼ同じ年頃。
しかしこの齢で役目を授かっているからにはかなり優秀なのだろう。
目的から考えれば当たりを引いたと思った。
しかし、知識の引き出しは難航することとなる。
王宮で学んだ私の力全てとも思える手練手管、そのほとんどが通用しなかったのだ。
ついにしびれを切らした私はその仮面をかなぐり捨てて本音を伝えることになる。
「――じゃあ、どうしたら教えてくれるっていうんですか!!」
しばらく茫然としていた相談役はふっと表情を和らげて言葉を続けた。
「それだよ、そうやって素直に聞けばいいんだ。知りたいことを知りたいって言えばいい。お前が困ってるっていえば助けてやるのが俺の役目なんだから。なんでも大丈夫です、って顔でお澄まししてたってうまく行くわけがないだろう」
この時、この瞬間こそが私とアイン先輩との本当の出会い。
本音の出会い。
これまで作り上げた私のすべての価値観が音をたてて崩れた転換点だった。
アイン先輩はいくつかの意味で怪物だった。
まず知識、確かに素直に聞けば様々なことを教えてくれた。
歴史や算術を始めとした一般教養についてはそれなりに身に着けてきた自負があったのだが、そんなものは通じない脅威と言っていい高度さだった。
話の節々に常識として使われる専門的な単語。
それは私をいらつかせたが、ちゃんと聞けば全て説明してくれた。
はじめはしぶしぶだったはずなのに、いつしかその講義に取りつかれるようになった。
何度か話をすることで、魔術の知識についても一級、あるいはそれ以上のものをこの人が持っているということがわかった。
書籍や講師から学べるものとはどこか違う体系。
しかし、驚異的な効果があるであろう魔術を溢れるように授けてくれる。
これだ。
これを身に着ければ私は力を得ることができる。
魔術院に来て初めて確信を持った。
新しい、戦うための力。
必ず学ばねばならない。
命のかかったその決意は重たいはずのものだった。
そのはずなのに。
一年を過ぎる頃にはそんなことはあまり大切ではなくなっていた。
ただただ、楽しかったのだ。
学ぶことだけではない。
彼が持ち込んでくる革新的だがくだらない子どもの遊び。
これまでの価値観が通じない新しい友達。
学院の外に飛び出して行う労働に食事。
私はそこまで享楽的な性格だったのか。
未来の命を守ることよりも日々の楽しみが重要になっていった。
不思議なものでそういった生活を続けると、それまでうまくやっていたつもりの学友とのうわべだけの人間関係は一歩踏み込んだものとなった。
そうすると新しい人間関係が繋がっていく。
彼らが私に与えてくれたものはこれまでの人生で得てきたどんな宝飾品よりも価値のあるものだった。
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