サユリ姫
桜の花びらが散った頃に新学期が始まるということに違和感を感じていた。
まるで、なにかの終わりに始まりが訪れるかのようで、それがとても嫌いだったのだ。それは、終わりから始まる物語………諦めた後の人生と重なっていたからだと思う。
そう、人生って才能がある者だけの為にあり、俺らみたいな日陰ムシはきっと……どうにか振り落とされないように必死に―――生きても、きっとムダだと示されているかのようで、
夕方の……まだ肌寒さの残る田舎ともジメジメとした都会ともいえない、どちらかといえば田舎にある景色も景観もよろしくないコンクリート道路を滑走していた。思えば、世の中はなにもアクションを起こさなくてもこのゴムタイヤが起こす感性の法則のようにまっすぐに進むことができたら……そう考えていた。
「………あ」
だが、当の人生はこんなに甘くない。
「弁当箱、教室に忘れちまったな」
が、このように引き返した先でも人生は続いている。
そして、引き返したこの道でさえ、あとには戻れない一日だということさえ忘れて、俺は日の角度や風の匂いの違いさえも、気づかないで生きていくことを望んでいた。心の中では、死ぬまでそういった『仕方がなく当たりまえ』を繰り返していれば、こんな俺でも大人になって、できることなら家族を作って、爺さんになって死んでいけるんだと思っていたんだ。
一歩も踏み外さないように、ただ期待や夢は諦めさせられて、
こんな人生が、いつのまにか『仕方なく当たり前』になっていたんだ。この日、彼女と話すまでは、
1
秩父総合高校の二年C組は東棟三階に存在する。
かったるい階段を登りきるまで、静寂に包まれた校内には俺の上履きの踵の音だけが響き渡っていた。だが太陽の傾きが、それがまるで自らの影でないような太く長い深淵のバケモノを映し出す。
俺、柳瀬恭太は、ここまでの長くも短くもない階段を歩いて思うことがあった。別に弁当箱を一日忘れたくらいで大した問題ではないだろう。そう、鬱陶しいほど重苦しい無意識が、悪魔のように囁いていた。
「別に、これぐらいだったら誰も気づかないって」「弁当箱なんて、家のタッパで代用できるんだぜ?」「てか、食わなくても平気じゃね?」
それでも、一度は踵を返した道程を引き返すことなくここまで来た。そして、気づいた時には、壊れた室名札の下にあるガタついた引き戸に手を伸ばす。
「くそったれ」
思わぬ独り言で、邪険な天邪鬼が踏みつぶすと同時に、ガラガラと引きづるような音と共に、朱い夕焼けが瞼を遮(さえぎ)る。しかし、その神々しい瞬きが、想像した眩しさよりも掠(かす)れていることに、気づく。そして、慣らすように瞼を少しずつ開いた先で……彼女と目が合ってしまった。
小柄なシルエットに浮かぶカーブ。輪郭の同級生は、幼女のような狭い肩幅に似合わず、異様に女性としての豊穣が誇張して………そして、その線のような手先は着替え途中なのか、体育着を胸の上あたりで抱えたまま、突如の侵入者に思考が停止していた、のかもしれない。
「……………ぁ」
少女の小さな嗚咽。
それは、こんな不埒な姿を見られてしまった女の子の発言としては控えめな仕草にもみえた。おそらくもなにも、俺が女性の……しかも、こんなにも小柄でマスコットのような女子の生着替えを拝めるのは初めての経験だった。この同級生(たしか、同じクラス)の名前は忘れたが、彼女は今まさに体育着を着ようと―――いや、だがここで違和感を覚える。
それはありえないことなのだ。こんな俺とて部活動が終了して帰る途中。そして、この学校は進学校であるという定義から、校内部活終了時刻は学校側から厳重に定められている。この刻限まであとわずか。これから体育着を着用するはずがないのだから。
だが、なぜだろう。
無意識ながらにも、今からこの同級生がしようとする行動が、今から薄汚れた汗の籠った体育着を着用するときのあの仕草に視えてしまった。どうも、なぜそういう考えに至ってしまったのか。多少なり考えたが………「やめた」
こんな無意識からくる葛藤と争うなど時間のムダだと知っている。また、この思考に基づいて、この場で立っていることさえも人生のムダ遣いだと念を押して応えることもできるだろう。
俺はなぜか停止したままの同級生を一瞥して、教室へと入り込む。
「ちょっとスマンな」
愕然とする少女(体育着から『相良』と判明)に悪い気があったが、体育の授業でもないのに教室で着替えているコイツが悪いだろ。そんで、下着や素肌を見られたからって俺には文句は言えまい。それは俺でなく、どう考えても相良の落ち度だ。
学校にはルールがある。そして、もちろん教室は皆のモノだ。それを相良は自分専用の更衣室かなにかと勘違いしているのではなかろうか? こんな彼女のワガママに付き合っている暇など俺にはない。
席替えのくじ引きで当てた後ろの座席を目指している最中、相良が異様にもガクガクとした震えだけが気に障った。ド真ん中にマジックで書かれた自身の名前が隠れるぐらいに腕組をして、クールダウンを終えた部活後? にしては多すぎる汗を垂らしていた。つか、腕組するぐらいだったら、一度体育着を下ろせばいいのに。
俺に残された微塵もない理性が、それでも着替え途中の女子生徒の気持ちを察していないワケではないのだ。特に、ここまでデカいカップの下着って……母親以上かもしれない。いや、そうじゃねぇ‼ 俺も、魅かれて見てんじゃねぇよ‼
例の弁当箱をカバンにしまうと、自身の足音さえ絞られるような緊張感の中、教室の出口へと向かう。つい強気で自身の早く帰りたいという欲に、今まさに目の前で震えている相良の気持ちなど察することなく教室に侵入したが、間違えなくパブリック的に考えなくても、女子生徒たちのこういうセンチメンタルな部分を察してやるのが紳士たちのマナーというもんだ。
ヤベェ……。さすがにこのままだと、俺が悪いんじゃね?
そんな罪悪感を抱えていたのもあり、廊下という境界のその先へと、無関係の一途を辿ろうとした―――が、なぜか、俺の脚は止められた。
相良の、湿った小さな手が絡みついていると気づいたのは吸い付く指の感触からであろう。が、何も言えない。お互いに言葉を発することもなく、俺は振り向くこともできない。明らかに、掌の体温、指先から溢れ出す湿気が多量に溢れる汗だと気づいた時には、彼女が………相良はこんなゲスな俺に裸体を見られてしまったショックで泣いている、のかと思った。
それと同時に、そんな静寂さえ俺には……彼女が誰であるかを思い出す標目となる。
「ぁあ…………」と、相良の喉から感情が溢れようとする。
相良の絞殺された動物のような声、それは俺が―――いや、クラスメイトとしての俺が初めて聞く少女の声だった、かもしれない。そして、瞬発的に俺は振り向いて、頬を赤らめて、歯を喰いしばるように睨む相良を見た。
この声を聴くまで、俺は少女の正体さえ忘れていたのだ。
ここ秩父総合高校は、イジメや不良という言葉とは無縁畑の県内有数の高偏差値進学校だ。だが、それとは別に、ド田舎な盆地地帯に聳えるこの高校にも、子供たちの社会がある限り、当の子供たちさえ目につけにくいカースト制度や学生たちの地位は存在する。彼女は、このクラスで誰ともつるむことなく、どんなことがあっても声を発することがない……いわゆる、ある意味で有名な少女。そうだッ……たしか……名前は今まで知らなかったが、カースト制度底辺のお前は相良という名前だったのかッ‼
そして、そんな話すことのできない相良が勇気を振り絞り、なぜか俺の手を握っていることに驚いた。今まで、校内ではできなかったことに立ち向かう彼女の姿に……俺の心臓が強い鼓動を捲し上げた。
なんだこの感情は……これは、まるで俺が持っていない何か。当の昔に、俺が捨ててきた感覚を、相良は持っていた。だが、俺は思い出せない。逆境に逆らおうとする勇気あるその目に……俺は、思わず意を抜いた。
そして、相良の勇気がッ‼ 相良のその指先が、盛大な三角を形成する。
このいきおいは、止まることがない。相良は、そのまま、大きく頭を地面に擦りつけた。
「どうかッ‼ ユキちゃんの体育着を無断で着用したことだけはいわないでクダサイ!」
………………は?
一瞬頭が漂白染みたが、現状を確かめるために、物色するように少女の所持品を確かめる。んで、あることに―――気がつく。
入学当初の名前順の座席で、俺の席の前後に、この変態はいた。
そして本当の相良という人物は、俺よりもずーっと離れた席にいた。顔もよくは覚えてないが、こんなカーストびりの奴でないのは確かなことだ。ということは………
「じゃあアレか? オメェは相良じゃなくて、誰なんだよッ⁉」
「………ッ⁉ 入学当初の隣の席の人間の名前も知らないって、どれだけまわりの人間に興味がなければいいのよ? 私は百(もも) カナメ……なんとなくでも、ぜったいに忘れられない名前だと思うんだけどなぁ」
「…………へ?」
あまりに平滑に放たれたコミュニケーションにギョっとした。それは、まるで今までの無口なの彼女の印象を裏返すだけの効果があった。てか話は変わるが、だったらコイツはもしかして………他人の体育着を着用しているのか? それにコイツ………普段出すことができない声を、他人の体育着を着用しているという性癖がバレたことを隠したいがために発声しているのか? てことは、さきほどの俺の感動は………………。
一瞬にしてなぜか……ちょっとでもこの変態女(改:同級生)が、声を発したことに感動した自分がバカバカしくなっていく。あ………なんかもうどうでもいいや。
「帰るわ」
そういってから、足を教室の境界(廊下側)に向けた。が、百の手が未だに俺の腕を軟体生物のごとく絡みつく。さっきよりの強く引き締められていく。さっきから上半身がハンバ脱げたままの豊穣な胸元が当たっているが、そんなことをどうでもいいぐらいに、いや………どうでもよくなくなってくるぐらいだ。
「待ってよぉぉ……柳瀬くん。待ってくださいぃぃ。ど……どうか、な、なんでもしますから……これだけはいわないで、クッダっサイッ!」
身動きのできない俺は、そのまま膝から倒れこむと、相良……ではなくて百カナメは咄嗟にもう一度引き戸を閉め直す。次はさきほど忘れていた鍵をしっかり閉めやがった。教室という固有結界に俺と百カナメだけの空間ができあがる。
「わかった。ゼッテェにこのことはいわない。だから、この服装………なんていうか、はやくこの体育着、着てくれねぇか」
「………ぁ、そうよね。男のコって……ホントにこんな脂肪の塊が、好きなの、ね?」
普通、キャピキャピな女の子だったら慌てふためくところだろうが。なんでこんなにも冷静に………もしかしてコイツ、こういうことに慣れているのか? ビッチなのか? もしかしたら、コイツ……………俺の下半身に、思わぬ血流が溜まっていく。
「なぁ、オメェ。このことを言わない代わりになんでもするっていったよな?」
「ぇ………そうよ。一つだけならなんでも………」
「なら俺とセッ―――」「殺すわよ」
しばしの硬直………。
一次的だが、お互いに微笑を含んだアルカイックスマイルで対応する。……が、どうみても、アダルトビデオとか昼ドラとか昔の携帯小説でもここではやっているシーンだぜ? 冗談じゃなくそう思ったが、それ以上は語るまい。学校は卒業はしたいんでな。ホグワーツ卒業は、まだまだこの先長くなりそうだ。
その後、呆れたようにため息をついたのは百だった。
「あなた、思ったよりいうことは大胆ね……。でも、僕は、アンタとはできない。生理的にムリなんだ」
「ここまでいわれるとショックだわ。死のうかな」
「えっ!? ちょっと待ってよ? 男に興味ないっていうか……なんていうか―――」
こ、こいつ、いきなりこんなところでカミングアウト……ってか、今思った。遅いか。
「いわゆる………………レズ」
「ちっ、ちがうわよ? 恋愛だとかそういうのに興味がないっていうか。でもね、あれよね。女の子のふわっふわ感って……反則よね? なんでこうも柔らかいのかしら?」
「だから、コレをレズっていうんだろッ⁉」
「ホザくなッ‼」
なぜだか突如、百カナメは俺へとビシッ‼ と指を示した。
「どうせレズとサユリも、ホモと猿の区別もできないクセに。勝手なことをいわないでくれますか?」
「オメェはなにがいいたいんだ?」
「誰だって子犬や猫がいたら匂いを嗅ぎたくなるじゃない? それと一緒でオッパイがあったら揉んでみたいし、かわいい子がいたら誘拐したいじゃない?」
自分の思考が他人と同じだと思うなよ? 絶対に間違っているから。
「学生の間は……犯罪だけは起こすなよ?」
マジで、記者が集まってこの高校の評価が下がるのだけはゴメンだ。他生徒でさえ、AO入試や推薦に響きそうだから。マジで。
「でもね。私が間違えてユキちゃんの体育を着用したところを見たのと……アナタの私のオッパイ鑑賞料が―――釣り合うなんてムシがよすぎるとおもいませんか? それに、私の性癖ってやっぱりヘン……なのかな? どうなの? ねぇ、聞いていますか?」
さりげなく真実を隠蔽しているし、途中で性癖だと認めてやがる……。
「もう、帰っていいか?」
「はぁ? 学校内にオッパイ揉まれたって言いふらすわよ?」
………………これだけはマズいな。
てかコイツ、教室での態度と違って、マジで最悪だな。
「結局、なにが言いたいんだ? ここまで俺を引き留めて、なにが目的なんだよ」
「だからッ! 女の子って女の子とラブラブしちゃダメなの⁉ 結婚できないからって、愛しちゃダメなんですか?」
そう叫んだ百カナメは拳を握りしめていた。キレ目からは感情が溢れ出すかのように涙が今でも溢れようとしていた。
それで、俺は理解する。
彼女は、誰にも言えない性癖を………こういう形でしか発散できなかったのだ。そして、普通なら不可能のことを諦めることもできず、苦しんでいた、のかもしれない。本当は、こんなにも話すのが好きで、こうやって誰かと触れ合いたい気持ちがあるのに、
ただ、それがなぜだか、俺には羨ましい気持ちもあった。そういう感情を持てることが、誰かを好きになって、恋をして、普通のことを望んでいる百のことが、なぜかとても新鮮に感じていた。
現状に気づいてしまった百の、しょんぼりとした顔をみたくなかっただけかもしれないが、「いいんじゃないの?」俺はいつの間にかに声を掛けていた。
「体育着、ちゃんとバレないように戻しておけよ? べつに、他の子だって女の子同士で遊んだり、冗談でキスとかもしてるじゃん? オメェがそこまで苦しむ理由が、俺には判らないな」
そう、これが嘘だとしても俺はそう呟くことでこの場を後にすることにした。
恰好付けとでも、その場凌ぎと思われても構わない。そのときの俺は、本心から彼女の恋ともいえない性癖を応援してもいいと思えたのだ。
それが、俺と百のファーストコンタクト、だったと思う。
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