神さま

 ねぇ知っている?

 後ろから、そんな囁くような女生徒の声がした。

 一学期最後のホームルームを終えた教室で、それら無数の声を無視して、相良ユキは多量に印刷されたプリントを整備していた。

「天矢山の例の祠に深夜二時にお祈りすると、誰かがこの願いを叶えてくれるんだって。でもその代わり、もし叶えてもらったら半年以内に他の誰かの願いを叶えなくちゃいけないんだとか。そうしなければ………」

 意味ありげに、そのあとの会話は断ち切られた。

 天矢山とは、この日向中学校の裏に存在する雑木林のことだ。山と呼んでいるが、どちらかと言えば兵陵に近い滑らかな坂。地図で確認しても、皆がそう呼称しているだけでこの場所には山を示す記号さえ存在しない。

 この場所は、校内では立ち入り禁止になっている。

 その理由、何年前にも遡ることになる。

 いつの話か定かではないが、この天矢山でこの学校のある生徒が亡くなった。警察の調べによると、事故の可能性が高いという結果になっている。だが、実際にこれを発見した者によると雑木林の祠のすぐ後ろにある大木で、彼は………いや、少年は首吊りをしたのだ。

 おそらくもなにも、この事故と同時に、多岐に渡り受け継がれてきた言い伝えがあたかもどの学校にもひとつは存在する『学校の七不思議』のように今現在でも受け継がれてきた。

 そして、学校側がこっくりさんやエンゼルさんを禁止するように、この遊びも生徒たちの精神保全のために形上では御法度となっている。

 ただ、この禁止辞令を謳うだけで、実際に教師たちはこのことについて何年前かの造物だとしか思っていない。彼ら教師たちに尋ねれば、面白がってこのことについて話す教師もいれば、事件について忌み嫌う教師とさまざまである。

「ねぇ、ユキちゃんってば。聞いているの?」

「え?」

 突然の問いかけに、今さらながらユキ自身がこの会話に含まれていたなんて思っていなかった。

 友達だと思っていないワケではない。ただ、自身が彼女たちの友人としてふさわしいかどうか、戸惑うとどうしても会話には入れない。

「ユキちゃんは、もしも願いを叶えてもらうとしたら……なにをお願いする?」

 なんとも、オカルトの話題としては可愛らしい質問だと思う。

「ん、どうだろう。叶えて欲しいことはたくさんあるけど。突然聞かれても、願いって見つからないもんだよね。それに―――」

 冷静を装うユキの表情を後ろの席のふたりは眺めた。

「私は、知らない神さまは願うべきじゃないと思うの」

 それがどういう意味なのか。不思議そうに聞いていた女生徒は首を傾げた。

「それって、どういう意味?」

「祠でもなんでも、神さまってのは誰かを救うだけじゃないの。雷神さまだって、閻魔さまだって私たち人間を貶めているじゃない?」

 雷神は雷で人々を怯えさせ、閻魔は人を地獄へと突き堕とす。

 あの天矢山の神さまだって、願いの見返りとして他人の願いを聞かなければならない。そして、それを惰性した場合―――なにかしらの懲罰が待っている。

「へぇ、でもここの神さまには裏技があるのよ?」

 ユキの友人たちは面白がるような、含み笑いをみせた。

 それがどういう裏技なのか。思えばこのルールを理解していれば明白なことだった。

「お互いに願いを叶え続ければいいのよ」

あぁ……たしかに。ユキは納得したのか、自身の掌を重ねた。

 このまじないは、誰かの願いを叶え続けていれば祟りに遭うことはない。もしひとりが祠に向かって無理難題な願いをしたとしても、もうひとりがこの祠以外への願い事をし、その願いを叶えていれば呪われないためのルールには当てはまることになる。

「たしかにコレだったら祠に呪われずに済むね。だけど、深夜遅くは………ちょっと私には無理かな。内申を下げるワケにもいかないしね」

「ん……そっか。そうだよね」

 ちょっと残念そうな表情を見せてから、彼女たちはユキから離れていった。


 ユキは、帰宅するために教室を出た。

 その最中、あることを思い出す。

 さきほど話していた友人たちが語っていた神さまについて。そして、これに連なるように……ユキの母親が『神さま』と呼称する存在について、脳裏を渦巻いた。

 ユキにとっての神さまとは、本来は彼しかいなかった。

 仏教でもキリストでも、神道でもない生身の人間がユキの知っている唯一の神であり、その人は彼ら宗派では『田中さん』と呼ばれていた。

ただ、この神さまのことが、ユキは大きっらいだった。

 田舎と呼ばれるこの町に彼は突如となくやってきて、ユキの父を奪っていった。詳しくは、宗教に嵌ってしまった母を見兼ねて出ていったというべきだろうか。去年の冬のことだ。ユキの自宅から彼女の父親は消えていった。

 だからというか、ユキは神さまなんて碌な人間でしかないと思っている。

 そして、彼らなんて万有な存在ではなく、他人を貶めるための人間の嘘だとしか思っていない。心理学でも占い師でもそれらスベテが、人を超越した一種の優性生物であることを示すかのように、宗教のテッペンに立つ人も優れたシンガーも同じく信じ込ませることで資金を巻き上げている……ズルい存在なのだと。

 ユキは階段を降りながら、彼らふたつの神さまのどちらもが打ち溶け合えば最高なのに……とか、よからぬことを考えた。有神論的だとか無神論だとかどうでもいい。視える神さまと視えない神さまだとか―――そんなことも夏の暑さで溶けてしまったアイスクリームくらい観るに堪えない存在だった。彼女にとって、どちらもが概念的な造物でしかない。

願いなんて叶うハズはない………。ユキの念仏のような思考が反芻する。

それだから、ユキは気づかなかった。

後ろから、男の子の鈍く固い掌がユキの肩を揺らした。この重みは、いつの間にか開いた男女の差を物語るには等しい性別的非平等の産物を見せびらかして。

ユキは、思わず後ろを振り向くと、幼馴染の元部長がニコっとした笑みをみせた。

「まだ、部活動には参加しないのか?」

 ユキができるだけ避けていた人物の笑顔は、彼女の背筋をピンとさせる。

「え……あ、うん……ユウジンくん。夏休みは出れないかも。というか、もう退部届を顧問に出しちゃったし」

 ユウジン……彼の本名は、陣雄太。

 誰が最初に考えたのか。昔、苗字と名前を掛け合わせてあだ名を呼び合うような文化が存在した。彼の場合、苗字と名前を反転して語呂のよいあだ名としたというべきか―――なんとも久しみやすい名前だが、その通りユウジンは誰とでもフレンドリーな性格となった。

 今もこの通り、元は同じ化学部だったユキに対してもこうやって話し掛けている。

「もしかして………コレのことか?」

 そういって、ユウジンは一枚の封筒を見せびらかした。

 それがなんなのか……この字の本人は一目瞭然で理解する。

「また、こうやって勝手なマネを………」

 ユキは自身の『退部届』を取り返そうと手を伸ばす。

 なぜか、ユウジンはユキの退部を認めようとしない。今回で何回目だろうか。彼はなぜか提出したハズのユキの退部届を何度も取り返しては彼女の前へと現れた。

 そして、ユウジンは、封筒を取られないように腕を頭上へと持ち上げる。

 ほんの数年前だったら、ユウジンとユキとの背はあまり変わらなかったのに……今では、子供と大人との差がある。思春期の成長はとても残酷であることを知らしめるように、彼は別人となった図体を彼女へ見せびらかす。

それがワザとであるか、無意識であるのか。ただ、ユキには僅かながら気に食わない。

 平等だと思っていた人間の無礼は、たしかにユキを傷つけていた。

「ユウジン……どういうつもりよ」

 ユキは、はんば封筒のことは諦めて、ユウジンへと尋ねていた。

 彼も彼で、当の目的は……明白であった。

「なあ、サガラはどうしたら、部活動に参加してくれるんだ?」


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