XLXV.あと一歩のところで

 秘密基地もとい古びた絵本屋は予定通り臨時で扉を開けておいてくれていたらしく、メアとユウリが着いた時には既に窓から明かりが漏れていた。


 二人が店に入ると時緒と燐華、おまけに哲学的幽霊の女性までいる。


 時刻は20時の少し前、目的地の電波塔廃墟まで行くのに十分に時間の余裕があった。


 四人は店主が淹れてくれた紅茶を啜りながら出発まで軽い打ち合わせをする。と言っても、内容に詳しいのはユウリだけなので彼女が一方的に説明するだけなのだが。


「手順は簡単です。この間完成したこの魔法陣の描かれた紙に触媒であるこの液体を染み込ませます」


 ユウリはスカートのポケットから何やらどす黒い液体の入った小瓶を取り出す。メアはその如何とも表現し難い怪しい液体に顔を近付けた。


「何それ」


「これは以前皆さんと見つけたマンドラゴラの搾り汁に定義上魔女であるわたしの血を混ぜたものです」


「お、おう……」


 メアは少し気分が悪くなって何とも言えない声を漏らした。良く見ればユウリの人差し指の先には絆創膏が巻かれている。


「あとは然るべきタイミングに手記の内容に沿って正しい呪文を唱えれば魔術が発動する筈です。その際魔法陣内にいる人物の中で一番魔術的に親和性の高い者が異世界に飛ばされる筈です」


「ご、ごくり……」


 時緒は何故か緊張した面持ちで唾を飲み込んだ。


「あ、時緒さんは絶対違いますので安心して下さい」


「あーん! メアちゃーん!」


 この期に及んで淡い期待を抱いていた時緒は涙目でメアに抱き付いた。


「この場合、この中で魔術に対する親和性が高いのは当然わたしです。皆さん今日まで本当にありがとうございました」


「だからまだ成功するとは限らないでしょ。あくまでわたしの推測なんだから」


「そうでした」


 わかっていて言ったのか、メアの言葉にユウリは苦笑する。


 メアは「ふんっ」と不機嫌そうに鼻を鳴らしてから軽く口角を上げた。


 しかしこの魔術師の少女に協力すると決めた筈でありながら、心のどこかで相反する願いを持った自分がいることをメアは自覚していた。


 失敗しますように。


 そんな思いが僅かとはいえ心の隅の方に存在していることはメアにとって酷く耐え難いものであった。だからあえてメアはこのまま最後までいっきに突っ走ろうと、人知れず決意していた。一度でも立ち止まったら、きっと迷いが顔を出してしまう。そう危惧して。


「少し早めですが、そろそろ出発しましょうか」


「そうね」


 躊躇う必要はない。そう思ってメアが立ち上がったその時である。メアのポケット内でスマートフォンが着信音を鳴らした。時間帯的にまた希実枝あたりが掛けてきたのだろうと思いきや、相手は意外な人物だった。


「は? 御崎? 何なの、こんな時間に……」


 そう唇を尖らせながら、電話に出る。実はあの一件の後、教室で連絡先を交換したのであった。無論御崎からするとメアと関わっていればいずれまた久世に会えるかもしれないという下心があってのことであるが。


「あのねあんた、今忙しい――」


「助けて!」


「は?」


 メアが言葉を言い切る前に御崎は電話口で叫んだ。その短い言葉からはしかし、十分に只ならぬ様相が感じ取れた。


「ねぇ、どうしたの? 今どこ?」


「あの前の公園……。あたし……、ごめん。石川……。あんたみたいに……って、でも駄目だった……。助けて……。怖い……」


 忙しなく移動しながら話しているのか、言葉は途切れ途切れでおまけに風を切るような雑音と御崎自身の荒い吐息が混じり、酷く聞き取り辛かった。


「御崎?」


「はぁっはぁっ……今トイレに隠れた……。でもきっとすぐそこにいる。もうこれ以上逃げられない……」


「あんたまさか! あの大学生が紹介した男と会ってるとか言わないわよね!」


「うん……会おうとした……。だって、あたしもあんたみたいに悪い奴を退治してやろうと思って……。でもね、あの男、刃物みたいなの持ってた……。どうせ捕まるならって急に襲って来て……。あたし……どうしよう……もう逃げられない……。あ! ダメっ! 近くに!」


「ちょ、ちょっと御崎!?」


 メアはスマートフォンに向かって叫ぶが、既に通話は切られていた。


「どうしたの? メアちゃん」


「…………」


 時緒が心配そうにメアの顔を覗き込む。周りでメアの様子を見ていた三人には、メアが何らかのひっ迫した状況に置かれたことだけは理解できた。


「皆ごめん。わたし行かなきゃ。あの電波塔にはあんたたち三人で行って」


 突然の申し出に、三人は思わず口を紡ぐ。


「メアさん……」


 最初に口を開いたのはユウリだった。


「メアさん。わたしもメアさんと一緒に行きます」


「うん、わたしも一緒だよ? メアちゃん」


「メア、何か大変なんだろ? 手伝わせろよ。下僕なんだからさ」


 ユウリに続いて時緒と燐華もメアに着いて行くことを申し出た。事情すら知らないにも関わらず、三人の目に一縷の迷いも見られなかった。


「で、でも! 間に合わなくなるかもしれないのよ!?」


「メアさん。良いんです」


 あれだけ強く元の世界への帰還に執着していたユウリがあっさりと諦めを口にした。


「でもっ!」


「メアさん。こうして言い合っている暇なんてあるのですか?」


 詳しい事情を知らないユウリだが、強い口調で食い下がるメアの言葉を遮る。


「…………。わかったわ」


 ここで押し問答している暇なんて微塵もないのを一番わかっているのはメアだ。

 僅かな逡巡の後、メアは大人しく皆の助けを受け入れる。


「御崎が、わたしのクラスメイトの馬鹿が、襲われてるらしいの! だから助けに行かなきゃ!」


 メアはそう簡潔に内容を伝えながら店の扉へと向かった。


「電話もさっき切れちゃって! わたしは御崎に掛けてみるから時緒は警察に連絡して!」


「う、うん! わかった!」


「燐華さんの電話貸して下さい。わたしは久世さんに連絡します。電話番号覚えてますので」


「はいよ!」


 メアを追う形で三人も駆け出す。しかし先頭のメアが扉に到達する前に何か大きな影が行く手を阻んだ。勢いを殺せず、メアはその影にぶつかる。


「な!?」


 一歩引いてその影の全貌を確認するメア。


 藍色に赤い花の模様をあしらった着物。その肩に掛かる艶やかな黒髪。


 いつも書架の隅で小さくなっていた哲学的幽霊だった。立ち上がった姿を見るのはメアも初めてだった。こうして見ると女性としてはかなり背が高い。中学生のメアとの体格差は歴然だ。


「な、何なの?」


 メアはややたじろぎながらも哲学的幽霊を避けるようにして脇から手を伸ばし、ドアノブに触れようとする。が、哲学的幽霊は手でそれを阻む。


「ちょっとおっ! 急いでるって言ってんでしょ!」


 しかし哲学的幽霊何も言わず、代わりにこれまで見せたことのなかった鋭い眼光をメアに向けるばかりである。


「ねぇ幽霊さん、お願い通して!」


 追い付いた時緒がそう哲学的幽霊に懇願する。


「メアの邪魔するってんなら許さねーぞ」


 燐華はそう言って指の骨を鳴らす。


「お願いどいて!」


 メアは悲痛な面持ちでもう一度叫んだ。


「幽霊さん」


 思わぬ障壁に戸惑う三人の間を縫うようにしてユウリが前に出る。


「お願いです。通して下さい」


 哲学的幽霊は何も言わない。


「わたしは……わたしの大切な友人に悲しい思いをさせたくないんです」


 哲学的幽霊は何も言わない。


「だから、お願いです」


 哲学的幽霊は何も言わない。だが、やがてゆっくりと横に逸れると、扉へ続く道を開けた。


 四人は飛び出すように店を出ると公園に向かって駆け出した。


 時緒とユウリは走りながらそれぞれ電話で警察と久世に事情を伝える。


「はぁっはぁっ、ねぇメアちゃん。幽霊さんどうしちゃったんだろうね」


 時緒が走りながらメアに話し掛ける。


「はぁっはぁっ、知らないわよ! そんなこと今はどうでも良いでしょ!」


 メアにも例の女性の不可解な行動の意図がわからなかったが、今はそんなことを悠長に考察している余裕はなかった。


「でもぉ……」


 だが時緒は煮え切らない様子だ。


「何よ!」


「だって、幽霊さん着いて来るよ?」


「えぇ!?」


 メアが振り返ると確かに四人の後ろを哲学的幽霊が着いて来るのが確認できた。着物に草履姿の筈にも関わらず、一体どんな技を使っているのか、四人のスピードに全く劣らない速度である。


「い、いや、そんなこよりも今は!」


 メアは再び前を向き、今見た光景を無理矢理忘れることにした。





 一行が辿り着くと、公園内には全く人影がなかった。地方の、しかもこのような寂れた公園に夜間に訪れる者などいる筈もなく、日中にも増して酷く暗く寂しい景色が広がっている。暗さは雰囲気の所為だけでなく、単に街灯が少ないのも要因だった。


 警察も久世もまだ到着していないようだ。メアは頭の隅で多少期待していただけに緊張感が増す。


 メアたちは念の為にまず薄暗い公園内を軽く一周し、誰もいないことを確認すると、声を出さずに視線だけで示し合わせ、公衆トイレへ向かう。


 そしてトイレの近くまで来たその時、


「いやぁっ!」


 御崎のものらしき悲鳴が中から聞こえて来た。


 声を聞くなりメアを先頭に一向は公衆トイレ内へなだれ込む。


 中に入ると、今まさに御崎が怪しげな男から無理矢理手を引かれ、トイレの個室から引きずり出されているところであった。どうやら個室に立て籠もる御崎に業を煮やした男が個室の簡素な鍵を破壊したようだ。


「御崎!」


「い、石川ぁ!」


 メアの存在に気付いた御崎は涙声で叫ぶ。


「ああ? 何だ?」


 同時に男もメアたちの存在に気が付く。黒一色の服装に、季節外れのニット帽を目深に被っている。あからさまに良からぬことを企てている者の風貌だと見て取れた。


「邪魔だオラ」


 男はメアたちに構わず御崎の手を引きながら無理矢理トイレの外へ向かおうとする。四人は男の剣幕に気圧されるかたちで後退り、急迫した事態に為す術なくそのまま男と向かい合うようにして外へ出た。


 じりじりと後退りながらも男を睨み付けるメア。時緒は恐怖から燐華の後ろにぴったりとくっ付いてはいたが、三人も同様に男を睨む。


「御崎を離しなさい!」


 メアは叫びながら後退する足を止めた。これ以上下がっては駄目だ。このまま御崎を連れて行かせるわけにはいかない。


 震える足に力を込めて男の前に立ち塞がる。後の三人もメアの意図を感じ取ったのか、左右に広がると男の進路を塞ぐようにして取り囲んだ。


「クソっ、こんなガキにまで……クソっ、どいつもこいつも舐めやがって。俺を馬鹿にしやがって」


 男は立ち止まると何やら独り言を呟き始めた。視線は泳ぎっぱなしで普通でない精神状態なのは明白だ。これまで対峙した不良グループや大学生とも違う、本物の狂気に満ちた相手との対峙。危険な状況。


 しかし、大人との体格差はあれど今回はまだメアたちの方に分がある。いかに大人の男であろうとこちらは四人、加えてユウリや燐華といった荒事に関して腕に覚えがある戦力だって揃っている。


 あと懸念があるとするならば……。


 メアは男の身なりを確かめるように視線を上下させた。


「俺はなぁ……。どのみち捕まんだよ……。あのサイトのアホな管理人の所為でな。だからよぉ……」


 男はぶつぶつと呟きながら上着のポケットに手を入れ、そして何かを取り出した。


 その瞬間、メアの懸念は現実のものとなる。男が取り出したのはポケットに収まるくらいの小ぶりなサイズのナイフだった。


 形勢は一気に傾く。相手は凶器を持っていた。男は抜き身のそれを四人に向けてこれ見よがしに振り回すような動作をする。


 一度は立ち塞がったものの、流石に四人は各々後退する。


「はっ! ガキが」


 そうして開いた隙間を男は進もうとしたその時だった。


「いってぇ!」


 御崎が自身を掴む男の腕に噛み付いた。


「何すんだてめぇ!」


 男は激昂のあまり御崎に向かってナイフを振りかざした。


「メアさん! ダメです!」


 ユウリが叫んだ時にはもう既に、メアは男に向かって駆け出していた。ナイフが振り下ろされる位置にいた御崎に体当たりをして、御崎を男から遠ざける。


 しかし、一瞬前まで御崎がいた位置にはよろめくように態勢を崩したままのメア。


「メアさん!」

「メア!」

「メアちゃん!」

「石川!」


 四人が一斉に叫ぶ。僅かに反応が遅れたユウリは間に合わない。


 月明かりで鋭い閃光を引きながらその刃が今まさにメアに届こうとしていた。


「っ!」


 メアは最早悲鳴すら出せなかった。目を固く瞑り…………、しかし、その刃がメアを襲うことはなかった。


「…………え?」


 誰かが発した驚きと戸惑いの入り混じった声がメアの耳に届き、メアは恐る恐る両目を開く。


「え?」


 メアもまた、今目にした光景に言葉を失う。誰もがたった今起きてることに絶句していた。


「ぐ……う……」


 男はナイフを持った手に力を込めたまま唸り声を上げている。


 刃がメアに届く寸前で何かが男の腕を掴んだのだ。


「嘘……でしょ……」


 メアはその場にへたり込みながらも未だ目の前の光景を理解できていなかった。


「幽霊さん!」


 時緒が男の腕を抑える者に向かって叫んだ。


 あろうことか、メアたちに勝手に付いてきた哲学的幽霊もとい謎の着物姿の女性が男の腕を掴んでいた。


「あががが――」


 着物姿の女性は掴んだままの男の腕を捻り上げ、ナイフを手放させる。


「誰だよお前ぇっ!」


 武器を失った男が力任せに振りほどくと、今度は着物姿の女性に標的を変え、殴りかかろうとした――が、


「がぁっ!」


 着物姿の女性は寸でのところで拳を交わし、その勢いのまま伸び切った男の腕を掴むと身体をくるり反転させ、実に見事な一本背負いを決める。上げた片足の裾がはだけ、鮮やかな藍色の着物の隙間から女性の白い脚が垣間見えた。


 男の身体はぐるりと綺麗に回転しながら宙を舞い、そのまま公園の固い土に叩き付けられると、醜い呻きと共に口から短く空気を漏らし、そして動かなくなった。


「あなたを暴行の現行犯で逮捕します」


 倒れる男の腕を後ろに回しながら組み伏せ、着物姿の女性は最後にそう男に告げた。


 哲学的幽霊の声を、一同はこの時初めて耳にした。

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