XLⅨ.信頼

「メアさん? そこにいますよね?」


 ユウリの声だった。メアの手が鍵から離れる。


「メアさん?」


 ユウリはガチャガチャと戸を引いていたが一向に応答が聞こえないことで諦めたのか、すぐに静かになった。


 戸にそっと耳を当て、ユウリが立ち去ったことを確信したメアは扉から離れた。


 埃臭いのが気になったのか、ついでに窓を開ける。あまり開けられたことがないのか、図書準備室の窓はきいきいと嫌な軋み音を上げた。


 窓から顔を出すと緩い風が濡れた頬を撫でた。


 やがて立っているのが億劫になったのか、再び書架に背を付け、膝を抱える。


 静寂の中、メアは腕に顔を埋める。視界を真っ暗にしているとやがて静寂の中に微かな物音が聞こえてくる。どこか遠くの方で騒いでいる生徒の声、図書室内で自習をしている生徒の立てる物音、風が吹いて軋む室内の窓枠。


 メアは何も考えたくなかった。少なくとも今は。


 とにかく気持ちが落ち着くのを待った。


 しかし、外界の情報が遮断されたことにより、嫌でも思考は巡る。


 どうしてこんなことになってしまったのか。


 一体自分はどうしてしまったのか。


「…………?」


 不意にメアの意識が外に戻される。


 窓の方から何かが軋むような音が聞こえてきたからだ。先程外を確認した限りではそこまで風が強いようには思えなかった。


 音は止むどころか、酷くなっていく。


 さすがに不審に感じたメアは腕に埋めていた顔を上げる。


 その間も窓際から聞こえる軋み音はだんだんと大きくなっていく。


 立ち上がって窓の方を見るが、原因はわからない。先程メアが中途半端に開け放ったままの窓から校庭が見えるだけだ。


「なん……なの……?」


 間違いなく風なんかの所為ではない。正体のわからない物音にメアの不信感はやがて恐怖に変わっていく。


 恐怖心から窓際を確認に行くこともできず閉ざされた室内で一人立ち尽くすメア。


 そんな彼女の心中を嘲笑うかのように謎の軋み音は大きくなり、そしてついに、


「きゃあっ!」


 窓枠の縁に人間の手らしきものが現れ、メアは悲鳴を上げた。その場にへたり込み、どうすることもできないメア。涙目になりそれでも窓枠から視線を外せずにいると対になるもう一つの手が窓枠の縁を捕らえた。


 最早立ち上がることすらできないメアは尻もちを付いたままずりずりと後ずさる。


「いや…………やめて……」


 メアは震える身体を必死に奮い立たせながら赦しを乞うように言葉を捻り出した。


 メアの恐怖心が最高潮に高まったその時、二つの手の間からユウリの顔がにゅっと出て来た。


「は?」


 どうやら扉を開けてもらえなかったユウリが外からの侵入を試みたようだ。


 メアの全身からいっきに力が抜け、胸元で強張らせていた両手をだらりと下げた。


「メアさんちょっと、待って…………、くだ…………、あ…………、えっと…………」


 ユウリは必死に這い上がろうと四苦八苦しているが、上手くいかない様子で窓枠にぶら下がった態勢のまま顔を出したり引っ込めたりしている。


「あー…………なるほどですね…………。ダメっぽいです……」


 そしてついに力尽きたのか、最初と変わらない態勢のまま弱々しい声を上げた。


「メアさん助けて下さい。握力が限界を迎えます」


 そしてメアは遅れて思い出す。ここが二階であることを。


「バッカじゃないのぉー!」


 メアは急いでユウリの両手を掴むとずるずると室内に引き入れた。


「助かりましたメアさん。危うく命を粗末にするところでした」


 体力おばけのユウリには珍しく床にへたり込みながら呼吸を整えている。


「難儀なものですね。向こうの世界なら重力操作の魔法と姿勢制御系の補助魔法の併用でこのくらい難なく登れるというのに」


「あんたの頭が難儀よ。時緒と良い勝負ね」


 メアはユウリの隣に腰掛け、呆れ顔で溜息を吐いた。


「そのようなこの世界における最上級の侮辱はやめてください」


「あんた、時緒のこと相当嫌ってるわね」


「時緒さんはわたしの下僕としてのお仲間の一人です。嫌ってなんかいません。ただ……ちょっと生理的に無理なだけです」


「あっそ」


 今のメアには律儀に突っ込みを入れる気力すら残されていなかった。


「メアさん、どうしてしまったのですか? こんなところに閉じこもって」


「いいでしょ。別に。あんたにはかんけーない」


 メアは視線すら合わせず、ユウリの言葉を拒絶する。話せるわけがなかった。ただでさえ頑ななまでに自身の弱いところを他人に見せたがらなかったメアという人間だ、よりにもよってこのユウリという少女にだなんて。ぼろぼろになりながらも、辛うじて残るメアのプライドがそれを許さなかった。


 それに今気を緩めたら今度こそ流れてしまう。せっかく一度は我慢した涙が。人前で涙を流す、それだけは避けなければならなかった。


 きゅぅー……。


 しばらく無言の時間が続いた時である。メアの腹が小さな音を立てた。ほんの小さな音であったが、閉ざされた静かな室内では十分聞き取れる音だった。そういえば朝からろくに食べていない。


「…………なによ……」


 その様子をぽかんと見ていたユウリに向かってメアは開き直って睨みを利かせる。凄んではみたもののメアの顔は羞恥心から真赤だった。


「いえ、ちょうどよかったです」


 ユウリはそう言うなり立ち上がると徐に図書準備室の鍵を開け室外に出る。そして数秒程ですぐに戻ってきた。手には弁当袋らしきものが下がっている。


「登る時じゃまになると思ってここに置いておいたのでした」


 とことことメアの隣に戻って床に腰掛けるとその弁当袋から四角い弁当箱を取り出し、開ける。中身は玉子のサンドウィッチだった。玉子の黄色と食パンの白色が交互になって綺麗に並び弁当箱に収められている。


 ユウリはその中の一つを手に取るとメアに向かって差し出す。


「はい、メアさん」


 メアは無言でそれを受け取る。受け取りながらも頑なに口には運ばず唇をきつく結んでいたが、再び「きゅぅー……」とメアの腹が鳴った。メアは「わかったわよ。食べればいいんでしょ」と小言を漏らすとその玉子サンドを一口かじる。


「これ、あんたが作ったの?」


 的確な感想を述べる為に、予めそう聞いておく。


「はい。この世界の料理についてもまだ勉強中なのですが、この世界にはマヨネーズと呼ばれる万能調味料があることを最近知りまして。これを使えば大抵のものは美味しく食べられます」


 「まるで魔法のようです」と真顔で感心するユウリ。


「本当にどんなものでも美味しくなるので、是非メアさんも……、いえ、メアさんこそ活用してみてください」


「遠巻きにわたしの料理ディスってるでしょ」


 そう言ってメアはまた一口、サンドウィッチを頬張る。


「どうです? メアさん」


「まずい……」


 今まで食べたどんなものよりも美味しく感じた。


 酷評しながらも無意識に口角が上がってしまったのを感じたメアはもぐもぐと咀嚼しながら見られないように顔を背けた。無言で残りのサンドウィッチを口に運ぶ。そして今度は何故か目に涙が溜まっていくのを感じた。


 せっかく我慢したのに……。


 そう思った瞬間、ついにメアの目元から一筋、涙が流れてしまった。


「メアさん? 覚えていますか?」


 ユウリがメアの様子に気付いたかは視線を逸らしてしまっている当のメアにはわからない。しかし、ユウリ抑揚のない声はどこか今までよりも優しく感じた。


「わたしが初めてこの学校に登校して来た日のこと」


 ユウリもサンドウィッチを一つ手に取る。


「あの日、メアさんはお腹を空かせたわたしの為に料理を作ってくださいました」


「…………」


 メアは誤魔化すようにもくもくとサンドウィッチを口に運ぶ。


「とても嬉しかったんですよ」


 ユウリはそう言って微笑みながら自分もサンドウィッチを頬張った。


「なによ……。微妙って言ってたじゃない……」


 辛うじて絞り出したユウリの声は少し震えていた。


「わたし、不安だったんです。この世界で本当に上手くやっていけるのか。でもあの時メアさんから勇気を貰った気がします。心の底からメアさんとお友達になりたいと思ったんです」


 メアの瞳からまた一粒、涙が落ちた。


「だからフリョーの方たちと一戦交えたあの時も、わたしはメアさんのことを守ろうと必死でした。メアさんが捕まってしまった時は彼らに従うことに迷いはありませんでした」


 メアは無言ながら思い返す。メアが久世の手下である男の一人に捕まった時、ユウリは一縷の迷いも見せず彼らの命令通り下着を脱いでみせた。


「例えばあの場でわたしが服を脱いで、彼らに裸体を晒したとして、それはどういうことだと思いますか?」


 メアの回答を待たずユウリは続ける。


「脳内に微弱な電気が流れます」


 「びびっと」と言いながらユウリは両手の人差し指を頭に突き立てるポーズをした。


「わたしだって、何かを明確に不快と感じることはあります。でもその不快に思う気持ちは所詮感情です。単なる電気信号です。現実に超常的な結果を生まない電気の流れは何ら意味のないものです。雷がこの身を焼くわけではありません。心の傷は肉体的な損傷を伴うよりもずっと、些細なことではないでしょうか。わたしはそう思っていました」


 すぐそばで淡々と紡がれるユウリの言葉がメアの耳に届く。


「でもですね、メアさん。わたしは以前こうも言いました。メアさんに『嫌い』と言われた時は胸がチクリとしたと……」


 そう言うとユウリは胸の辺りを押さえる。まるで今まさに何かの痛みを耐えているかのように。


「最近はですね、メアさん。思うんです。心の傷は肉体的な損傷を上回る、致命傷に成り得るではないかと」


 ユウリはそう言うとシャツの胸元をくしゃりと握った。


「先程の教室での件、わたしは見ていてとても嫌な気持ちなりました」


 メアは一言も発さないまま、サンドウィッチの最後の一欠片を口に放り込んだ。


「わたしはメアさんに対するこの感情を、微弱な電気信号を、大切にしたい。疎かにしたくない。そう思うんです。上手く言えなくてすみません」


「…………。あんたさ……」


 メアは徐に口を開く。でもやはり声は少し震えていた。


「あんたさ、わたしのこと信じる?」


 メアの言葉にユウリは目をぱちくりとさせていたが、やがて優しい笑みを見せ、


「はい。わたしはメアさんを信じています」


 しっかりと視線を合わせながら、ただそう返した。


 メアはスカートのポケットに手を入れると、何かを取り出しユウリに差し出す。


 メアが手にしているそれはスワロフスキーの派手なデコレーションが施されたスマートフォンだった。勿論メアのものではない。


 ユウリは少し遅れて察する。それは御崎冬美が教室でなくした筈のスマートフォンだった。

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