XLⅧ.幼さ故
三人と別れたメアは自室に戻るなりとある調べ事を始める。
まずは棚に並ぶ分厚い本の中から一冊の天体観測に関する専門書を引き出すと、重さで床に落とし掛けながらもベッドの上でページを開いた。そして目当ての内容を確認すると、今度はスマホの検索を使って以前一度目を通した「アンティキテラ島の機械」についての記述を今度は入念に読み込む。
しばらくして目的を果たしたのか、メアはぼふっとベッドに仰向けになった。天井の灯りが眩しかったので、腕で両目を遮る。
「どうしたら良いの……」
一度は決めたと自覚していた筈のメアは、それでもまだ迷いの中にいた。
翌朝、メアは登校前に食堂に行くと給仕係のおばちゃんから簡単な朝食の乗ったトレーを受け取ると席に着いた。目の前にはその後を追うようにユウリが座る。
登校時刻まで時間の余裕があるわけではないので、周囲の生徒たちはもくもくと配膳されたパンを口に運んでいる。しかしメアは目玉焼きの黄身を突いているばかりで一向に箸が進んでいない。
「メアさん、ちゃんと食べないと大きくなれませんよ?」
「…………。どこ見て言ってんの?」
メアは三拍ほど遅れてそう言い返した。メアの様子を心配するユウリの視線は何故かメアの胸元へと向いていた。
その日の朝、メアは何も食べる気がせず、結局パンをひと口かじってから学校へ向かった。
二限終わりの小休みになるなり、女子の人だかりの中心から嬌声にも似た声が聞こえてきた。
「どうしよっかなぁー。ゆう君の頼みだしなぁー」
その女子たちは御崎の取り巻きで、無論その中心は御崎冬美、御本人だ。
「ふゆの彼氏って大学生なんでしょー?」
「まーねー」
「ふゆったらおっとなー。え? どこまでいってんの?」
「聞きたい? でもお子ちゃまには早いかもねぇ」
「「キャー」」
どうやら御崎が噂の大学生彼氏との惚気話でもしているようであったが、今のメアには意識を向ける余裕すらなかった。そんなことよりも考えなけばならないことがある。
異世界のこと。この世界のこと。
思い返される久世の言葉。
頼れる者はいない。自分で何とかするしかない……。
「あぁーっ!」
メアは瞬間的に沸騰しそうになった頭を両手でくしゃくしゃにした。
「でもふゆ何に悩んでんの? 頼みって?」
色恋話に夢中な女子中学生たちは離れた所でのメアの苦悶には気付かない様子で御崎と彼氏の話題を続ける。
「なんかさー。会って欲しい人がいるんだって」
「えー、どんな人?」
「知んない。なんか知り合いのオッサンらしい。モテないらしいから軽くデートしてあげて欲しいんだって」
「それってパパ活ってやつ?」
「え? 大丈夫ぅー? それー」
「うーん。まあ、ゆう君は信頼してるからそこは気にしてないんだけどさー。オッサンとデートだなんてメンドーだよねー」
「わたしだったら絶対やだなー。オッサンとだなんて」
「でもなー。ゆう君の頼みだしなぁー」
といった感じに、同じような内容を休み時間終了間際まで延々とループしていた。
4ループ目くらいだろうか、自分のことで上の空だったメアの思考の隙間を縫うように不意に、会話内容が耳にはっきりと届く。
「は? だ、ダメに決まってるでしょぉっ!?」
そして反射的にバンと机を叩くと、メアは立ち上がった。
「あああああなた! そんなのダメに決まって――」
「はーい次体育の授業だぞぉー。早く更衣室に移動しろー」
メアの声に気付いた御崎が待ってましたと言わんばかりに意地の悪そうな笑みを浮かべ、何かを言い返そうとしたその時、教室を通りかかった男性教師が扉からひょっこりと顔だけ出し、そう告げた。
御崎は何かを言い掛けた口を噤むと意地の悪そうな笑みはそのままに周囲の取り巻きに目配せすると、そのまま教室を出て行ってしまった。
残された他の生徒たちもまばらに移動を返しする。
「メアさん……」
傍らで一部始終を見ていたユウリが心配そうにメアに声を掛けるが、
「いいからほっといて」
メアがそう返すとユウリもまた他の生徒達たちに混じって教室を後にする。
一人教室に残されるメア。自身の席の位置で立ち竦んだまま拳を握り込む。
「愚か……」
やはりこの世界は間違いだらけだ。醜く腐っている。
しかし、それ以上に、自分という人間には何をすることもできない。この世界を変える力なんて微塵もない。
この世界は確かに間違っている。けれど、自分はどうしようもないくらいに無力だ。
メアはあの不良たちに廃墟で絡まれた時、自分には何もできないままユウリに助けられたことを思い返していた。
メアは誰もいない教室の真ん中で奥歯を噛み、握っていた拳にさらに力を込めた。
「ちょっと石川いい?」
体育の授業を終え、昼休みになった時である。机に購買で買ったサンドウィッチを広げ、しかし手付かずのまま放心していたメアの前に御崎が仁王立ちで詰め寄る。
「石川さぁ。あたしのスマホ知らない?」
「さぁ? 知らなけど」
どうやらスマートフォンをなくした御崎がメアに何か心当たりがあるものと疑っているようである。
メアは御崎を一瞥すると興味なさそうに視線を逸らした。
「あのさ、さっきの体育の授業ん時、あんたが最後まで教室に残ってたって皆言ってるんだよね」
メアの素っ気ない態度が鼻に着いた御崎はメアの机に勢いよく両手を着いて無理矢理視線を合わせる。更衣室に向かう際スマートフォンを教室に置きっぱなしにしており、その間何かできたのはメアだけだというのが御崎の言い分らしい。
御崎自身、日頃メアから良く思われていないことは自覚しているので、そのことが余計にメアへの疑いを強固なものにしていた。
「だから知らないって言ってんでしょ?」
メアは軽くあしらいながら手付かずのままだったサンドウィッチの包装を開封する。
「むしろ良かったんじゃない? どーせくだらないことにしか使ってないみたいだから」
「何だよそれ」
傍で聞いていた御崎派に属する男子の一人が割って入ってきた。
「そーだよ。石川が最後まで教室にいたんだし、お前じゃないのか?」
「そーだそーだ」
一人が意を決するとその他の男子数名も加勢する。いずれもが御崎に想いを寄せる者たちであり、この機会に少しでも彼女に良い所を見せたいようだ。
元より御崎と敵対するメアのことを疎ましく思っていた彼らは、しかしそれぞれが不用意に目立つことを恐れ、ある一定の距離は越えては来なかった。御崎冬美のように思ったことをそのまま正直に口に出せる人種の方が稀有なのである。
疎ましく思いながらも決して波風を立てようとしない、これまではそんなある種の均衡のようなもので保たれていた。中学生は決して大人ではないが、人間であればどんな年齢であれ、少なからずそのような性質を持つものである。だが、未熟な自制心の元に形成された均衡はいとも容易く崩れるのも確かだ。
一人が発した些細な言葉が引き金となり、そして一度崩れてしまえば、あとは雪崩の如く勢いを増すばかり。未熟ゆえに、歯止めが効かない。
「お前じゃないのか」
「そーだよ。スマホ返せよ」
「ってか早く御崎さんに謝れよ」
明確な証拠がないにも関わらず男子たちは口々にそう詰め寄る。
「おい! なんか言えよ!」
集まった男子の中でも比較的活発そうな一人が一層語気を強めてメアの腕を掴んだ。
「あんたたちがカッコ付けたところで、御崎はあんたたちみたいなお子様には興味ないみたいだけど?」
メアは腕を掴む男子に侮蔑するような眼差しでそう返した。
「あぁ? ふざけんなよ!」
「きゃっ!」
言葉を受けた男子が掴んだメアの腕をそのまま乱暴に引っ張ると、力任せに床に向けて投げ飛ばすようにした。
メアはそのまま床に膝を付く。拍子に手にしていたサンドウィッチが床に落ち、べちゃっと歪な形に潰れた。
「あ…………」
流石にやり過ぎだと思った取り巻きの女子数人が一瞬びくりと体を震わせ、息を飲んだ。当の男子も一瞬怯んだかと思いきや、やってしまった以上中途半端は示しがつかないと判断したのか、すぐに眉根を鋭く戻し、目の前でひれ伏すメアを見下す。
普段ならば賑やかな筈の教室は静寂に包まれ、廊下を通る他クラスの生徒の笑い声が聞こえてきた。クラス中がこの騒ぎに注目していた。
メアは膝を付いたまま俯き、わなわなと肩を震わせる。しかし言葉が出ない。
背後でユウリがメアを心配するような声を上げるが誰の耳にも届いていない様子だ。
「何すんのよ! 馬鹿のクセに!」その短い一言が出ない。口論は得意だ。いつもやっているように思っていることを口に出すだけ。
頭の中では男子たちを罵倒する言葉が次々と組み上がって行くのに、しかし、それが一つとして口から出ることはなかった。喉元に力を込めると何故か目元と鼻の奥がじんわり熱くなるのを感じる。内面に渦巻く怒りは、惨めさと悔しさとが混ざり合い、ぐちゃぐちゃになり、よくわからなくなってきしまった。
それでも一度は意を決し、大きく、けれども悟られないようにゆっくりと息を吸い込んだが……、やはりダメだ。少しでも力むと涙が溢れてしまう。流れてしまう。瞳の表面が必要以上の水分量で揺らいでいるを感じる。表面張力で辛うじて耐えている状態だ。視界がぼやける。もはや迂闊に瞬きすらできない。
せっかく吸い込んだ空気は言葉にはならない、ただ弱々しく震える溜息として吐き出された。
メアは震える脚で立ち上がると、男子たちの鋭い視線を一身に受けながら、目元に溜まった涙が溢れないようにゆっくりと教室を出て行った。
廊下に出ると緩やかな歩みはやがて小走りになり、ぼやける視界で必死に人目に付かない場所を探した。その間涙が流れていたかはメア自身もわからない。ただ風を切る度目元の横側がひんやりと冷たかったのは感じた。
無意識のうちに理科準備室の前まで来たが、戸を引く前に思い留まり、再び行く当てもなく彷徨う。そうしてメアが最終的に辿り着いたのは校舎二階にある図書室だった。
図書室内は昼休みになったばかりでも数名の生徒がいたが、部屋のさらに奥には図書準備室なる小部屋があり、その部屋は内側から簡素な鍵で施錠できることをメアは知っていた。
逃げ込むように図書準備室に入ると中に誰もいないことを確認し、施錠する。
カーテン越しに日が差し込むだけの薄暗い室内で電気も付けず、メアは古びた書架の一つに背を付けると、そのまま埃の溜まった床にへたり込んだ。
室内は空中を舞う埃と古い紙の匂いが充満しており、とても静かだった。目元をごしごしと袖で拭い、膝を抱え込む。
少し遅れて、メアが入って来た図書準備室の扉が何者かにノックされる。
無断で勢いのままに施錠をしてしまったメアは息を飲む。教師だろうか? 気の利いた言い訳も思い浮かばないままメアは戸の鍵に手を掛けた。
「メアさん?」
鍵を開ける前に聞こえたノックの主であろう声に、メアは手を止める。
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