XL.倉間麗奈の仕事⑥-Ⅱ

 倉間が署の最寄り駅に着く頃には通勤中や通学中といった人々でごった返していた。このような地方の駅は都会と比べると人は少ないが、その分電車の車両数も本数も限られてくる為、それなりに混雑する。


 いつもなら駅前の喫茶店等で朝食がてら時間を潰し、混雑する時間帯を避けて電車に乗るのだが、この日は一秒でも早くベッドになだれ込みたかった。だが、こう混んでいては座席に座るのは絶望的であろう。一瞬未練たらしく躊躇ったが、いずれにしても自宅の駅まではたった三駅なのだしと、倉間はしぶしぶ乗車した。


 立っていれば寝過ごすこともない。先程正木にはああ返したが、疲労が蓄積した日の帰りは電車内の座席で寝過ごしてしまうこともしばしばであった。


 倉間の周囲にはこれから職場に出勤するであろうスーツに身を包んだサラリーマン、OL、制服姿の学生たち。一人帰宅中の身である倉間は公務員という至極真っ当な職に就いている筈でありながらもこうした空間に身を置いていると、漠然と自身が社会から浮いてしまっているような、溶け込めていないような、そんな妙に落ち着かない感覚にもなる。


 倉間は帰宅を待ちきれず、髪をまとめていたバレッタを外した。セミロングの髪がパサリと肩に軽く掛かる。


 まるで自分自身だけが別の世界に取り残されている。そんな淡い悲壮感にも似た心の揺らぎが、電車の窓ガラスに映るやつれた自身の表情も相まって、一層濃く倉間の心に影をさした。


(酷い顔……)


 早朝という明るい時間帯。窓ガラスに反射する顔は薄っすらとしていて目を凝らさなければわからない程ではあるが、それでもその陰鬱としたシルエットが耐え難く、倉間は手でガラスに映る自分を隠した。


 一駅目を通過したところである。倉間はふとガラス窓に映り込む人影が気になった。


 倉間のすぐ後ろ、恐らく少女らしき人物の挙動がおかしい。


 はっきりとは視認できないながらも、その少女らしき人影は吊革に掴まりながら顔を伏せ、しきりに体を悶えさせるように微かに左右に揺らしている。倉間が確認するようにそっと背後を見遣ると、少女は制服姿の中学生のようであった。顔は俯いてしまっているが、電車の揺れに合わせて微かに垣間見えたその幼い面は不自然に紅潮しており、そしてその表情からは何かに必死に耐えている、そんな切羽詰まったような印象を受けた。


 最初はトイレでも我慢しているのだろうかと思った倉間だが、その少女の背後にピタリとくっつくように立っている男の姿を認め、すぐに考えを改める。


 男はカーキ色の薄手の上着を着ており、歳は35~40歳くらいといったところ。ニットの帽子を目深に被っている為、表情はよく伺えない。


 だが倉間は己の判断を疑うことすらしなかった。


 電車内は確かに混雑しているとはいえ、乗車率で言えば幾分余裕がある方だ。周りを眺めてみてもそこまで密着しなくとも十分なのは明白である。にも関わらずその男と少女との距離が不自然に近い。


 確信してからの倉間の行動には一縷の迷いもない。


 倉間はゆっくりと少女の横に入り込み並ぶようにすると、少女のスカートに伸びる男の手首を素早く掴む。


「この方で間違いありませんね?」


 突然のことに「えっ? あっ?」と焦りの声を漏らす男に構わず、倉間が少女に向かって確認をすると、少女は持っていた鞄をギュッと抱きしめながら小刻みに震える頭をコクリと頷かせた。


「な、なんだよぉ! お前っ! 放せって!」


 右手に痴漢の犯人、左手に少女の手を引きながら次に着いた駅を降りるなり、急に犯人の男は抵抗を見せた。無理矢理手を振り解こうとするので、倉間は仕方なく少女から手を放し、掴んでいた男の腕を背中に回すようにすると、そのままホームの柱に体重を掛けて押さえつける。


「おい! 勘違いしてんじゃねーよ! 何の権限があってこんなことしてんだ! 訴えるからな!」


「現行犯ですから権限も何もありません。それに…………」


 倉間はそう言いながら自身の懐に手を入れ、警察手帳を取り出す。


「残念ながら警察です」


 スーツ姿の倉間のことを単なるOLか何かと勘違いしていたのか、その手帳を確認すると、男はようやく観念した様子で全身から力を抜いた。


 駅員の協力を仰ぎ、駅の従業員用個室に犯人と少女を座らせて待っていると、すぐに要請を受けた二名の警察官が到着した。


 どうやら男による少女への犯行は今日が初めてではなく、今まで数度に及んでのことであることが少女本人の口から判明した。少女が抵抗できない気弱で無力な相手だと知って完全にターゲットにしていたようであった。


 犯人の男を引き渡し、これでようやく帰宅できると安堵するのも束の間、担当警官の一人に声を掛けられる。


「倉間警部補、現行犯逮捕ご苦労様でした。これから被害者の彼女にもより詳しく聴取をとる予定なのですが、署へは母親が同席するそうです。先程彼女の母親と連絡がついたところです」


「そうですか」


 倉間はそこまで聞いたところで腰掛けていたパイプ椅子から腰を浮かせた。


「ああ、倉間警部補。それでですね、一つお願いなのですが、被害者の少女の母親曰く自宅はこの駅からほど近い場所だということで、すぐに駅まで迎えに来て一緒に署まで伺うとのことでして……」


 倉間は担当警官の言葉に何かよからぬ気配を察し、眉を顰めた。


「彼女の母親が迎えに来るまで、ここで一緒に待ってあげて頂けませんでしょうか?」


 やはりだと、倉間は項垂れるように再び椅子に腰を落ち着ける。


「怖い思いをした子一人待たせておくのも心細いでしょうし、ほら、女の子ですし、ここは女性の方が何かと安心できるかと思いますので」


「…………。ええ、そういうことでしたら……」


 担当警官の妙にハキハキとした物言いにお門違いな感情ながら少し苛立ちを覚え、恨めしそうな視線を送りながらも、倉間は了承した。担当警官は倉間の視線に微塵の疑問も抱いていない様子で、「ではっ!」と明るく返すと、そそくさと部屋を後にした。


 倉間が正面に向き直ると、被害者の少女がスカートの上で両の拳を握り、頭を垂れていた。被害者であるにも関わらず、まるで死の宣告を待つようなそんな絶望を背負っているふうにさえ思えた。


 狭い個室で少女と二人きり……。


 どうしてこうなった。


 迂闊に溜息すら吐けない距離で相対する少女を前に、倉間もまた、少女から見えないように拳に力を入れた。


 先程の担当警官は女性の方が云々というような、わけのわからない勝手な持論を押し付けて行ったが、正直、倉間にはむしろあの明るい警官の方が向いているように思える。それどころか、署内すべての人材から無作為に選出しても、自分が引き受けるよりもずっと良いだろう、そう倉間は思った。


 それこそ佐伯のような人間なら、もっと上手くやるのだろう。職務における効率の良さでいえば倉間自身勝っている自負も自信もあるが、ああいう人間の方がこういう対処には向いている。そういった意味では有能なのはあちらの方かと倉間は心中で潔く負けを認める。


 相手が大人であれば、どんな風体をした者であろうと泰然と構えることができる。先の取調室で頭の幼稚な犯罪者と二人きりだった時の方が幾分マシに思えてきた。


 倉間は子供が苦手だ。


 それを自覚したのは学生生活を終えて今の仕事に就いてからのことである。


 交番勤務時代に迷子で泣きじゃくる子供に、被害者の親族として残された子供に、夜間に保護した家出中の子供に対して、倉間はことごとく上手く接することができなかった。


 ルールを重んじ、規範の中で生きる倉間にとって、子供はまだ社会のルールに、規範に、馴染み切れていない、適合しきれていない存在だ。そんな言わばイレギュラーな存在としての不可解さが、自分という性質の人間には度し難いものとして本能的に拒絶してしまっているのではないか。真面目な彼女は何故自分では上手くいかないのか、何が足りないのか、そう分析してみたこともある。


 だが…………。


 今この場で己に向かって詭弁を弄しても仕方のないことだ。現に今、倉間は任されてしまっている。任された以上は倉間の警察官としての仕事だ。やり遂げる他ない。


 倉間はこの時になって初めて少女の姿をしっかりと認めた。


 少女は倉間も知る中学校指定の制服に身を包んでおり、髪はやや茶色掛かったロングヘア。サラリとした細く柔らかそうな髪は染めているわけではなく元から色素の薄い体質なのだろう、俯き気味ながらも少女の品行方正さ加減がその佇まいから伝わって来る。身体は全体的に細く、色も白い。少し儚げな印象もあって、年相応の「可愛い」という評価よりも「綺麗」と表した方が彼女には合っている気がした。


 同時に、それがあの男にとっては恰好の得物に思えたのであろう。そう納得できてしまった。狙われるのはいつだって弱い者たちだ。


 さて、無言でいるのもそろそろ苦しい。


 倉間はまず簡単に今の状況と、この後署で受けるであろう聴取等について説明をする。


 即興で組み上げた説明にも関わらず、まるで予め準備された台本かマニュアルでも朗読するかのような平坦な口調で一度も詰まることなく話し終えると、果たして、倉間のできることは今度こそ微塵もなくなった。


 倉間が説明を区切る度、コクリコクリと頷くばかりであった少女も動きを止め、互いに無言の時間が流れる。


「あ、あの……」


 勿論このまま無言でこの子の母親を待っていても職務として問題はない。だが、倉間が任された意味は、女性の自分が「この子を少しでも安心させてあげられる」からだ。であればここで何もしないのは職務怠慢、いや、職務放棄も良い所だ。


 絞り出すように倉間は言葉を紡ぐ。先程までの説明をする言葉の流暢さとは雲泥の差であることは言うまでもない。


「あの……中学生……です……か?」


「…………。はい……」


「…………。もしかして、その制服は……K中学ですか?」


「……はい」


「…………。学校は……その……楽しいですか?」


「……はい」


「…………。部活は……えっと……何かやっていますか?」


「……はい」


「…………。何……を……」


「…………バド……部……です……」


 一体これは何の尋問だ。


 倉間は心の中で自分自身にそうツッコミを入れた。


 自分のこうした接し方が好ましくないのはわかっている。でも、だからといってどうにもならない。自分だって精一杯やっているつもりだ。


 だが何か話そうにも倉間の中には中高生と楽しく会話できるようなネタがない。そう諦めかけた時であった。


「そ、そうですっ!」


 以前正木に相談した時の話題のことを思い出す。


「あなたは知っていますか? 都市伝説」


「都市伝説?」


「ええ、確か…………〝電波塔で呪いの絵画を売る哲学者の幽霊〟!」


「…………………………………………ふふっ…………」


 これまでまるで生気のなかった少女の顔に初めて笑みが毀れた。


「違いますよ、それ、何だか色々混ざっちゃってます」


 元より頓着のないものに対して持ち前の有能さの欠片も働かない倉間であったが、自身の犯したミスにやや顔を赤らめながらも、ようやく表情を綻ばせてくれた少女に安堵した。少しだが胸が軽くなった気がする。


「そうですね…………では、これならどうです?」


 言いながら倉間は再び正木の言葉を思い返す。〝ある意味勢いだ〟。


「食い逃げをしても犯罪にならない方法」


「え?」


「ですから、食い逃げをしても犯罪にならない方法、今日は特別にそれをお教えしましょう」


「お姉さんも警察官なんですよね?」


「ええ」


「警察官がそんなこと教えても良いんですか?」


「本当はいけませんね……っていうのは冗談です。まあ、やろうと思ってもできませんから」


 先程まで面を伏せていた少女は倉間に視線を合わせ、興味津々の様子だ。


「良いですか? まず準備として『財布を持たないこと』、それと『走りやすいように運動靴を履いて』レストランへ行きましょう。ここでポイントなのは財布を持たないことを決して自覚していないことです。考え事でもして自然にうっかり忘れて行くのがベストでしょう」


「ふふっ」


 少女は口元に手を当てながら上品に微笑む。


「そしてレストランで食事をとります。食べたいものを食べていいですよ? そしてようやくお会計という時になって初めて財布が無い事に気付きましょう」


「それでどうするんです?」


「あとは簡単、全力で走って逃げます。ああでもこの時もし捕まってしまったら諦めて下さい。変に抵抗して相手にケガをさせてしまったら強盗致傷罪に問われる可能性があります。重罪ですので最悪です」


「ええ? でもそれって普通に食い逃げだから犯罪じゃ……」


「良いですか? 犯罪とは法律で定められているルールを犯すことです。例えば人を殺せば『殺人罪』、人の物を盗めば『窃盗罪』という犯罪になります」


「では食い逃げは窃盗罪ですよね?」


「ええ、通常はそうですが、犯罪はその人の行動の結果以外に、その人がその行動を取った時、それが『わざとか』『わざとではないか』によって細かく分類されるのです。殺人なら、その人が『わざと』人を殺した場合は当然『殺人罪』。では、『わざとではなく』人を殺してしまった場合は?」


「えっと……」


「『過失致死傷罪』、聞いたことありませんか?」


「ある……気がします。ニュースとかで……」


「それを踏まえて先程の食い逃げについて考えてみましょう。レストランでは確かにお代を払わずに逃げました。でも『わざと』財布を持って行かなかったのではなく、財布を持っていないことを自覚していなかったので、単純な窃盗罪にはなりません」


「ってことは……過失……窃盗罪?」


「法律の問題ですのに理解が早いですね。でも残念です」


「違うんですか?」


「ええ、残念ながら今の日本の法律というルールブックには『過失窃盗罪』について定めた記述はありません。ルールに背いていない以上は犯罪に成り得ないと、そういうことです」


「えー! そんなことあるんですかぁ?」


 少女は目を見開いて感嘆の声を上げた。


「ですから最初に言った通り、どの道やろうと思っても無理な方法です。『やろうと思った』時点で『わざと』になりますしね」


 細かい話をすれば、仮にその時犯罪に問われなかったとしても過失での窃盗に気付いた後悪意で放置すれば占有離脱物横領という罪に問われたり、そもそも民事で訴訟を起こされれば当然支払う義務が生じる。現行の法律はそこまで杜撰ではない。


「どうです? おもしろかったですか?」


「うん! とっても! 警察の人って何となく怖いイメージだったんですけど、お姉さんみたいなおもしろい警察官さんもいるんでですね」


 「おもしろい警察官」。それは倉間という人間にとっては全く思いもよらない、勿体な過ぎる評価であり、同時にその言葉が面映ゆくもあった。


「楽しんで頂けて良かったです。今まで怖い思いをして、大変でしたね」


「…………」


 倉間の言葉を聞いた途端、少女は先程までの明るい笑みを消し、再び俯いてしまう。倉間は「しまった」と自身を責めた。想像以上に上手くいった直後であったので迂闊にも気が抜けてしまっていた。


「あの……大丈夫です……。その、犯人はほら、捕まりましたから」


 微かに聞こえていた少女の呼吸音に、せり上がるような嗚咽が混じり始める。せっかく忘れかけていた恐怖を倉間の軽薄な言葉が呼び起こしてしまった。小さな肩を震わせながら、とうとうその両目から大粒の涙を溢し始める。一度堰を切ってしまえば、もう止まらない。ぽたりぽたりと少女の制服のスカートが濡れて行くのを倉間は無言で見守ることしかできない。


 一度ではない。今までも彼女はあのような恐怖に直面していたのだ。あの男が背後で事を起こしている時間、それはこの少女にとって永遠とも思える程長く、辛いものだったのであろう。


 これは決して取り返しのつかないことだ。物理的な傷や怪我であればそのうち癒える。だが、この少女が負った心の傷は長く残り続ける。目に見えないその傷は、いつ癒えるのかすらわからない。仮にいつか立ち直ったとしても、それがあった事実は変わらない。一生、変えられないのだ。


 今まで誰も彼女を助けようとしなかったのか。いや、それとも誰も気付くことができず、刑事という職に身を置く倉間が単に常人離れした目敏さを発揮しただけなのであろうか。


 いずれにしても、もし、あの時気が変わって倉間が乗る電車を遅らせていたら、この少女はどうなっていたのだろう。そう思い始めると倉間は急に恐ろしくなった。


「良いですか? この国のルールは、案外良くできているんです。あなたが傷付いたり、危険な目に合うような事柄はすべてルールで罰せられるよう定められています。ルールで定められているということはわたしたち警察が助けることが、守ることができるということです。だから安心して下さい」


 倉間がそう声を掛けるも、一度溢れてしまった涙はそう簡単に止まりそうもなさそうだ。


 犯人は捕まえた。あとは自分に何ができる。警察官として何が……。


 必死で考えを巡らせる倉間の脳裏に、先程署の喫煙所で聞いた佐伯の戯言めいた言葉が過った。


 倉間はゆっくりと立ち上がると少女の真横へ移動し、座っている少女の目の高さに合わせるように膝を折る。


「こっち向いて下さい」


 少女はパイプ椅子を引きずるようにして、座ったまま倉間の方へ身体を向ける。


「大丈夫だから、もう泣かないで」


 そう言って倉間は少女を優しく抱きしめた。


「わたしたち警察官は正義のミカタなんだから」


 自分では上手く笑顔を作れていたのか、わからなかった。


 だが、倉間の胸元に顔を埋めるようにしている少女は、擦れた呻き声を漏らしながら顔を擦り付けるように頷いた。


 身体に伝わる微かな震えの中で倉間は思った。自分自身が仕事に対してどう思おうとも、何を信念に据えようとも、どのような思想を持って従事しようとも、それは勝手で誰からも咎められるものではないが、警察官という立場である以上、この子のような弱い立場の人間にとって守る存在でなければならない。法律が人々の安全の為に定められているのならば、それが簡単に脅かされて良い筈がない。


 戯言だって構わない。


 法を守る為に戦う者たちがこの国にはちゃんといるのだと、信じさせてあげる必要がある。明日からこの子が安心して生活を送れるよう、今この瞬間だけでも、自分はこの子にとって〝正義のミカタ〟でなければならない。


「お姉さんは、警察官になって良かった?」


 倉間の胸の中で少女は嗚咽交じりに問う。


 恐らく、正木から同じことを問われたならば「わかりません」、そう即答していただろう。


「ええ、良かったわ。だってあなたに悪いことをする人を捕まえることができたんだもの」

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