Ⅴ.倉間麗奈の仕事①
N市内の駅からそう遠くない場所。
市内では比較的建物の多い通り沿いに
大きいというだけで特に特異な個所のない建物には、これ見よがしに老若男女誰もが知るシンボルマークが掲げられ、しかし、他と隔絶される、全く異なる性質の存在感を放つにはそれだけで十分であった。
時刻は午前七時半。人口密度の低い地域とはいえ駅近くだ、それなりに通勤、通学で込み合う場所だが、時間が時間なだけにまだ人通りも少ない。
倉間麗奈は姿勢正しく職場の建物の前に来ると、何を考えるでもなく一瞬その見慣れたシンボルマークを仰ぎ、門をくぐった。
上下シワ一つ無い黒のパンツスーツに身を包み、セミロングの髪は装飾一つ無い紺色の地味なバレッタでまとめ上げている。
入口のガラス製の扉で立ち止まらない程度に軽く身なりを確認すると、中に入り、受付と軽く挨拶を交わした。去り際に「今日もお早いですね」と言われたので、表情そのままに「ええ」と一言返してから階段を上がる。
倉間は規定の時間の三十分前には職場に足を運ぶ。
誰から命じられたわけでもない朝の日課である簡単な床掃除と、自分のデスク周りの水拭きを終えると、申し訳程度に隅に置かれているパキラに少量の水をやり、年季が入って水垢の落ちなくなったコーヒーメーカーに水道水をきっちり既定位置目印の線まで入れてスイッチを押す。
うっすらと黄ばんだ壁紙、埃が溜まったブラインド。室内には使い古されたデスクが規則正しく並んでいる。
空いている席もあれば、朝から力なくデスク突っ伏している者もいる。
閉め切られた室内の空気は淀み、数年前から分煙する決まりになっている筈にも関わらず微かに煙草の余韻が漂う。そこに倉間の淹れるコーヒーが混ざり合う荒んだ空気が、この職場で倉間が嗅ぎ慣れた朝の香りであった。
「何ともまあ……良い感じに淀んでいますね……」
と、誰に言うでもなく呟く。
ブラインドを上げ、窓を開け放つと、徐々に室内の荒んだ空気が澄んだ外気で薄まるのがわかる。
一段落ついてから未だ突っ伏している部下の頭を、書類の入ったファイルで叩く。のそりと顔を上げた部下は倉間の顔を確認するなり、尻毛を抜かれたようにハッと背筋を伸ばすと、彼女に向かって勢い良く謝罪し、血走った眼をPC画面の書きかけの書類へ向かわせた。
少し苦手だが、そうやって部下たちを叱責することも倉間の仕事でもある。
現在倉間はこの職場において「優秀」だという評価を受けている。それは上司からも部下からもだ。だが、彼女自身は思う。何も倉間麗奈という人間が特別優秀なわけではない。ようは性格の問題だと。
誰だって自身と同じように日々のタスクを必要分こなし、完璧と言われるに値する素質を持っていると、倉間は思う。
勿論、個々のスキル、能力が全く関係しないといえば嘘になるが、この仕事という狭い世界の中だけに限定すれば、そこまで個々に差があるとは思えない。皆それなりに勉強し、それなりの競争を勝ち抜いてここにいる筈だ。仮に何かが劣ることがあっても、そういう人間はまた何かに秀でている。
差を主張する人間がいるならば、それは単なる言い訳に過ぎない。皆が皆そうしない、そうならないのは、あえてそうしているからだ。それが悪いことだとは思わない。人は何の為に仕事をするのか、それを考えれば至極真っ当なことだろう。人は何の為に仕事をするのか。それは突き詰めれば「生きる為」だ。
仕事の対価として金を貰い、その金で生きる場所と生きる為の食料を得る。その「生きる」という最低限が確保できていればあと重要になってくるのは楽しむということだ。常に張りつめて仕事を完璧にこなそうとするのは楽じゃない。楽じゃないということは楽しくないということでもある。
だが、仕事を蔑ろにし過ぎると貰える給料も増えない。むしろ減るかもしれないし、度が過ぎれば職を失う可能性だってある。勿論その割合は職や職場によって異なる。個々において個々が許せるバランスの中にいるのだろう。
では倉間麗奈は仕事を完璧にこなし、その対価を多く貰うことが、わかりやすく言えば出世が目的なのだろうか。
否。最初に挙げた通り、これは単に性格の問題である。あえてセーブするということが苦手なのだ。やめ時がわからないと言った方が正しい。できることをあえてやらないという選択肢を取ることが、彼女にとっては困難を極めるのである。
特に趣味もなく、プライベートの身なりもあまり気にしない。同世代女性の大半が興味を持ちそうなブランド品や高い化粧品にも見向きせず、食事だって食べられれば割と何でも良い。給料が決して特別多いわけではないが、彼女の無趣味を体現するように預金残高は増える一方である。それが倉間麗奈という人間だった。
楽しそうに仕事をする人間が、楽しそうに生活する人間が、そんな中途半端さが、倉間は羨ましかった。
それこそ最初は使命感であったり、自分なりの理想を持ってこの職場にやってくる者が大半であるが、そのほとんどが知らず知らずのうちに薄れてしまう。それを肌で感じつつ、そのこと自体を批判するつもりも軽蔑するつもりもない。それが普通のことなのだと、理解している。少数派は自分の方だとも。
余計な事を考え始めるとキリが無い。そんな時は、やはり仕事に専念する、それに尽きる。結局そういう思考に行き付いてしまうことを心の中で自嘲していると、倉間の上司が入室し、徐に席に着いた。
倉間はそれを確認するなり、たった今淹れたばかりのコーヒーを上司のデスクに置く。
「おはようございます」
「ああおはよう。ありがとう」
白髪交じりの頭からはそれなりの歳を感じるが、コーヒーの入った使い捨てのプラスチックカップを掴むその腕は、シャツ越しでも良い具合に筋肉が付いているのがわかり、まだまだ若いということを主張しているようであった。
コーヒーが苦手な倉間は、自分用に冷蔵庫に常備しているペットボトルの天然水を取り出し、口を付けた。
席に落ち着いたのも束の間、上司のデスクに置いてある電話が鳴る。
「まったく、こんな田舎だってのに、悪いことをする奴がいるもんだよ」
傍らで電話を受けた上司は、短いやり取りの後、年季が入った眉間のシワをさらに深くした。
受話器を置くのを待たず、視線を倉間に向ける。周りから優秀だと評される倉間は当然のようにその挙措だけですべてを察し、上着を手に引っかけ、流れるように出口へ向かう。
最近、余計な考え事が多いのが倉間の悩みだ。だからこういった慌ただしさは嫌いではなかった。身体の疲労と引き換えに心の疲労を抑えることができる。体よく誤魔化しているだけなのかもしれないが。
何はともあれ、倉間麗奈は悪人を許すわけにはいかない。
その「悪いことをする奴」がどんな人間であれ。
だが勿論それは倉間の性格あってのことではない。
何故ならそれは倉間の仕事だからだ。それ以外の何物でもない。
「倉間警部補! 準備ができました!」
二人の部下が後を追うように倉間に駆け寄る。
「よし倉間、後藤と佐々木を連れて現場へ急行してくれ」
悪人を許さないこと。それが倉間麗奈の仕事である。
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