第3話 紅うさぎ
呼び鈴が二度鳴った。一拍おいてもう一度。それで宇山氏が来たことがわかった。土曜日のお昼前にめずらしい。宇山氏は来訪者が自分であることを、僕に知らせるつもりで、そんなふうにいつも呼び鈴を鳴らした。ドアを開けると宇山氏は「ごきげんよう」と言った。
「旧い友人からサツマイモをたくさんもらったものだから」
手に持った紙袋を差し出した。
「近所の市民農園の一区画を借りるくらい、彼女、野菜作りに凝っちゃってて。借りるのは抽選で、なかなか当たらないらしいけど、ようやく念願かなって。今、野菜作りに精を出している、ということだ」
旧い友人というのが、女性だということはわかった。意外にも。
「これ『紅うさぎ』っていう新しい品種だそうだよ」
紙袋をのぞき込んだ。ころころと丸っこい、こぶし大のサツマイモが十個ほど入っていた。僕にとってサツマイモは、扱いにくい食材ではあるのだが、謎キャラクターのキーホルダーや、使う用途のなさそうな絵はがきを、旅のみやげにもらうよりずっといい。
「ちょっと所用を済ませたらまた来るよ。そうだなあ、三時ごろになると思う」
そう言いおいて宇山氏は立ち去った。戻ってくるまでに調理しておけ、ということだ。甘く煮付けるか天ぷらにするか。めんどうだから素揚げでもいいか。素揚げなら、塩をふっても砂糖にまぶしてもいい。まだお昼前。時間はたっぷりとあった。
サツマイモの調理に取りかかる前に、いつもの土曜日にする通り、洗濯とそうじをしてしまおう。
サツマイモの入った紙袋を、玄関脇に設えられた台所の流しに置いて、僕は居室の掃き出し窓を開け、縁側に立った。秋の日差しが心地よい晴天だ。背の低い生垣がアパートの敷地と目の前の狭い路地を仕切っている。その路地を品のよさそうな老婦人が通り過ぎていった。生垣の隙間からわずかにのぞく足元に、柴犬の歩くのが見えた。
生垣との間の、この庭のような空間は、僕の部屋の延長ということでいいんだよなあ。隣の部屋の庭との仕切りはないけれど。ここに畑を作るのも悪くないかもしれない。宇山氏の言った「市民農園」という言葉が頭に浮かび、僕はそう思った。
洗濯機を回して、そうじにとりかかった。
古いアパートはほこりがたまりやすい。掃除機をかけ、部屋のすみや棚の上を化繊のモップでぬぐってゆく。ものの少ない六畳一間の部屋のこと、ひと通りそうじが終わっても、まだ洗濯機は回っていた。床にあぐらをかいて庭を眺めていた僕は、顔に当たる暖かな秋の日差しの心地よさに、うとうとと寝入ってしまった。
目を覚ました時、時計は二時を差そうとしていた。僕はあわてて起き上がった。洗濯物を干さなければ。洗濯機はとっくにその仕事を終えていた。深い軒下に吊り下げられた物干竿に洗濯物を干してゆく。
「あれ、雨?」
午後のやわらかな光の中を、細くまばらに雨が降り始めていた。住宅街から続く狭い路地のアスファルトが、こちらに向かって次第に濡れてくる。
「天気雨だ」
僕はつぶやいた。深い軒下まで吹き込むような強い雨風でなければ、洗濯物が濡れる心配はない。そのまま僕は、すべての洗濯物を干してしまう。雨はすぐに上がるだろうし。
洗濯物を干し終わった時、生垣の向こうに女性が立っているのに気がついて驚いた。雨の中、日傘のような白い傘を差し、まっしろなノースリーブのワンピースを着て、切れ長の目でこちらをまっすぐに見ている。
その刹那、風が強く吹き、女性の肩まで伸びた黒髪が乱れ、ワンピースのすそがひるがえった。僕がうろたえたように会釈をすると女性は、
「こんにちは」と言った。
「こんにちは」僕もあいさつを返す。
「今日、となりに越してきました。天城と申します」
「はい」
「というか、今まさに引っ越しの最中なもので」
「はい?」
「ということで、はい」
と言って天城さんは、生垣越しにこちらへダンボール箱を差し出した。天城さんの意図がわからず、僕がぼんやりしていると、
「ほら、早く!」
叱責するような声が飛んだ。僕はわけもわからず、そこにあったサンダルをつっかけて天城さんに歩み寄り、ダンボール箱を受け取った。これはたぶん、引っ越しの荷物を運べ、ということなんだよなあ。そう思ってとなりの部屋の縁側まで歩き、そこへダンボール箱を置いた。振り返ると天城さんは、次のダンボール箱を胸元に抱え、にこやかにしている。僕に全幅の信頼を寄せているといったふうだ。開いたままの傘が足元に転がっている。
「濡れますよ」
と僕は言ったのだが、そんなことは気にする素振りも見せない。僕が二つ目のダンボール箱を運び終えると、次に天城さんは大きく足を開いて腰を曲げ、
「ふん!」
というかけ声とともに足元のダンボール箱を持ち上げた。
「今度のは重いですよ」
「はあ」
何の気なしに僕はそのダンボール箱を手にする。
「お、重い」
よろよろと縁側まで運ぶ。いったいこのダンボール箱はどこから出てくるのか。天城さんはどうやってここまで運んできたのか。至極まっとうな疑問とともに振り返ると、
「こっちですよ、早く! 時彦、月彦!」
天城さんは路地の奥に向かって、誰かを呼ばわっていた。生垣越しに首を伸ばして狭い路地の左右を見渡すと、雨の煙る中に二つの人影が見えた。二人はリヤカーを引いている。
「供の者が来たので、もう大丈夫です」
リヤカーを引いてきた二人が天城さんと並んで立った。二人は双子のようにそっくりで、まだ少年の面立ちをしていた。切れ長の目が天城さんとよく似ている。親子なのかと思い、そこで初めて天城さんの顔をまじまじと見てしまう。はっきりしない。親子のようにも見えるし、姉と弟のようにも見える。
「年子の兄弟なんです」天城さんが言った。
「時彦が兄」
そう言われても、どちらが時彦かわからない。二人が同時に頭を下げ、
「僕たち二階の二〇一号室に越してきました」と言った。頭を下げていたので、どちらがしゃべったのかわからなかった。
「はあ、どうぞよろしく」僕は言った。
一人が身軽に、背の低い生垣を飛び越えた(月彦か?)。もう一人が路地側で、リヤカーのダンボール箱を手に取る(時彦か?)。二人はバケツリレーの要領で、てきぱきとダンボール箱を運び入れ始めた。
天城さんはといえば、足元に転がっていた傘を拾いあげ、すまし顔で作業を眺めている。縁側に積み上げたダンボール箱を、すべて部屋の中へ運び込むと天城さんは、「お騒がせしました」と言ってアパートの玄関側へ回り込んでいった。これから荷ほどきでもするのだろう。天気雨は引っ越し作業が終わると同時に、ぴたりと上がっていた。
僕は思い出して時計を見る。三時になっていた。台所に置いたサツマイモはそのままだ。じきに宇山氏がやって来るだろう。しばし思案した後、僕は「焼きイモを作ろう」とひらめいた。この小さな庭に落ち葉を集めてイモを焼く。宇山氏が来るまでに、できあがりはしないだろうが、こうしたイベントは宇山氏の好むところのはずだ。僕はほうきを持ってきて、落ち葉を掃き始めた。アパートにとなり合わせた大家の庭には、大きな栗と松の木があり、見事な枝ぶりがアパートの敷地まで張り出していて、小さな庭にたっぷりと枯れ葉を落としていた。
サツマイモをアルミホイルでくるみ、うず高く掃き集めた落ち葉にくべて火を点けた。天気雨で湿った落ち葉は、なかなか燃え上がらず、白い煙が細く上がるばかりだ。ちらちらとオレンジ色の炎が見えだし、ようやく火が勢いを増してくると、まっしろな煙が、もうもうとあたりにただよい始めた。
想定外の煙の量だなあ。僕は近所の家に配慮して、心配になったが、もう後戻りはできない。縁側に腰かけて、その様子を眺めていた。やがて炎が落ち葉をなめるように、火勢は強くなっていった。
突然、となりの部屋の掃き出し窓が開き、天城さんが飛び出してきた。
「だめなのです、だめなのです! 燻されるのはだめなのです!」
そう口走りながら、裸足のまま縁側から小さな庭に下りると、まっしろなワンピースのすそをひるがえし、獣のような身のこなしで、背の低い生垣を飛び越えて、路地の奥へと走り去った。窓の開く音に見上げると、時彦、月彦の兄弟が、二〇一号室の窓から顔を出し、その姿を見送っていた。
「やれやれ」口をそろえて二人が言った。
僕があっけにとられていると、「やあ」と宇山氏が生垣越しに顔を出した。
「今、猛スピードで走るご婦人とすれ違ったけど、何だ、あれ?」
「さあ?」僕は言った。
その日、落ち葉焚きの焼きイモに、宇山氏は上機嫌だった。僕の予想通り、その風情をたいそう気に入ってくれたようだった。縁側で焼きイモを食べ緑茶をすすった。天城さんのことは気にもしていない様子だった。
翌日、小さな庭で天城さんと顔を合わせた時、天城さんは、ことの顛末を話してくれた。
猛スピードで走り去った天城さんは、近所の公園にある池で顔を洗い、気持ちを落ち着かせるため、ベンチで横になっていた。そこで夜まで寝入ってしまったそうだ。
「だめなのです。燻されるのはだめなのです」
そう言った天城さんは、どことなくしょんぼりしていた。
「紅うさぎ」の焼きイモはうまかった。今度は別の料理を作ってみたいと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます