第4話 迎え火
国道のカーブを曲がるとトンネルが現れる。その手前にある、町の無料駐車場に車を入れるため、僕はウインカーを右に出した。めったに通らない対向車がトンネルから出てくる。二台をやり過ごした後、駐車場へ車を入れた。全体が急峻な山の中にあるようなこの町は、峡谷の斜面にへばりつくように家々が建てられている。それが「懸造り」という建て方だということを、僕は母から聞いて知っていた。母の発音は「かけづくり」の「か」にアクセントがあって、子供の頃に聞いた時、その語感が愉快で、母を揶揄するように、「かけづくり」と繰り返し言ったものだった。
車を降りるとセミの声が降ってきた。むっとする、真夏の午後の蒸し暑さが押し寄せてくる。それでも、街中の凶暴な暑さより幾分ましかと僕は思う。酒と食べ物、寝袋の入ったリュックを背負い、墓参のための花を手に取る。駐車場から見上げると杉木立の間に、山の斜面にへばりつくように建てられた、母の実家が見えた。ここから見えるのは家の裏手になる。そこへ行くには、五分ほど山道を上るのだ。
母の実家は、住むものがいなくなって久しい。この家で一人で暮らしていた叔母のサワさんが四十歳で亡くなった後、空き家になっている。叔母の葬儀に出た時、僕は三十歳だった。あの時、どういう話し合いがもたれたのか、今となっては思い出せないが、この家を管理する役割を僕が仰せつかり、鍵を預かることになった。あれから十年経つ。僕は毎年お盆の入りに、こうしてやって来るのである。
母は三姉妹の真ん中だった。一番上の伯母が婿養子を迎えて家督を継いだが、山の中の家には住まず、もっと至便な町中へ家を建てて移り住んだ。実家には祖父と祖母、出戻っていた末の妹のサワさんが暮らした。母が「サワちゃん」と呼んでいたのにならって、年の近い叔母を、僕も「サワさん」と呼んでいた。
玄関の引き戸に鍵を差し入れて回す。からからと小気味よい音をたてて引き戸が開く。古い家だが玄関や窓はサッシに付け替えてあった。昔は土間だったことが分かる広い玄関。上がったところは応接間。奥に台所が見える。右手に屋根裏へ上る階段があり、脇の柱に柱時計が据え付けてあった。毎朝ゼンマイを巻くのが母の役目だったという柱時計。僕が子供の頃、ここへ遊びに来た時には、まだ動いていた。屋根が大きくあまり日の入らない、昼でも薄暗い家の中で、かちこちと大きな音を響かせ、定刻にぼーんと鐘を鳴らす柱時計は、僕を不安な気持ちにさせたものだった。その柱時計は、もう十年動いていない。
僕は家中の窓を開け、風を通した。一年分のほこりをほうきで掃きだす。応接間の隣の、居間として使われていた十畳の座敷と、奥へ続く四畳半の座敷が二つ。最初に来た時は、汗だくになりながら畳に雑巾がけをしたものだったが、とてもそこまでやっていられないと、翌年からやめた。築百年ほどだと母から聞いているが、確かなことは分からない。黒光りする居間の太い梁を見ると、なるほど築百年ほど経っていそうな様子はうかがえる。
一時間ほどで掃除を終えると、僕は墓参りに行く。花と線香を持ち、庭から山の中へ続く小道を墓地まで歩く。僕が十五歳の時、祖父の葬儀で大人たちが棺をかついで歩いた道だ。その先に、ぽつんと一つだけ墓がある。土葬だったということには、後で気づいた。
杉木立の中にある墓は、周りに枯れた杉の葉がたくさん落ちていた。簡単に掃除をして、花と線香をあげる。墓参りを終えると夕方まで特にすることはない。日が暮れかかってきたら迎え火を焚くのだ。
家に戻り、居間と庭の間にある広縁に腰かけて、僕は何の気なしに、目の前の斜面を眺めていた。上に一軒だけある家が小さく見える。家の前の畑で草むしりをしている人がいる。自分の腕を枕に広縁に横になり、その様子をぼんやりと眺めた。草むしりをしている人影は、時おり立ち上がって腰を伸ばす仕草を見せると、少し空を仰いでしゃがみ込む。しゃがみ込んだまま少しずつ移動して、草むしりを続ける。斜面に作られた畑での農作業は大変そうだ、と思う。南に面している上の畑には、まだ真夏の太陽が照りつけているが、広縁の前の庭は日が陰り始めていた。相変わらずセミの声がうるさい。
家の前を左右に延びる細い庭は、下に新しい道ができるまでは街道だったということも母から聞かされていた。庭の土は踏み固められていて、道として使われていたことが想像されたが、真ん中に古い柿の木が一本あるのが不思議だった。街道として使われなくなった後、母の実家の誰かが植えたのだろうか。庭の隅にある小さな池も、そのようにして作られたのかもしれない。その池の際には梅の木があって、水面へと伸びた枝の先に、モリアオガエルの卵が生みつけられているのを、僕は見たことがあった。母に連れられて遊びに来た、小学三年生の夏休み、サワさんに教えてもらった。池をのぞいてみると、鯉や金魚など、魚の姿は見えず、イモリばかりがたくさんいた。
僕は少し眠ったようだった。気がつくと、あたりが薄暗くなり始めていた。草むしりをしていた人影も見えない。見上げる狭い空はまだ青いが、日が西に傾くと急峻な山間にある庭には日が差さなくなる。
僕はリュックからおがらを取り出した。適当な長さに折って、庭の固い地面の上に、直接置いて火をつける。オレンジ色の炎が小さく上がり、ほどなくして薄青い煙が、細く高く上り始めた。持ってきた酒を湯呑み茶碗に注いで、広縁のふちへ置いた。青い空が少しずつ紫色に染まり始めると、後ろの座敷で畳を踏む音がした。サワさんが来たのだ。
「よくここが分かったねえ」
後ろからサワさんの声がした。毎年同じ第一声。のんびりした口調。戻ってきたばかりのサワさんは不明瞭だ。声ばかりがはっきりと耳に届く。後ろの薄暗い座敷のどこかにいるようではあるが、茫洋としている。次第に足元から輪郭を帯びてくることは初めて会った時に知った。少しずつ明瞭になってゆくサワさんを眺めていた僕は、奇妙な気恥ずかしさを覚え、翌年からは、その様子を見ないようにしていた。この場所に、サワさんが確かに在るようになるまで。
「ええ、ここにいると思ったから」
だから僕は迎え火を見たまま、去年と同じように答えた。
母の実家の管理を頼まれたからといって、僕が何か特別なことをするわけでもない。人が住まないと家は傷む。たまに来て風を通してくれればいい、という話だった。
「別荘だと思って自由に使って」
一番上の伯母は明るく言った。だからお盆を理由に来ているわけではないのだが、何かの年中行事に絡めないと忘れそうだったし、重い腰も上がらないだろうと、この時期に来ることを決めた。
迎え火を焚くのも、ついでのことだった。ただ小学生の頃、毎年の夏休み、よく母に連れられて遊びに来ていた記憶があったので、それとは意識せずに夏に来ることを選んだのかもしれない。あの頃ここで何をして遊んでいたのか。夏休みが永遠に続くと思っていた頃。
「昨日は出かけてたから。今日でよかった」
サワさんが隣に立った。僕は少しだけ首を巡らせ、その足元を見る。サワさんは膝をつき、正座して湯呑み茶碗を手に取った。酒をひと口飲んだようだった。サワさんがしっかりとそこに在ることが分かり、僕は安心してそちらを見た。サワさんは正座して真っ直ぐに、庭の迎え火を見ていた。
おがらから薄く青く上っていた煙が見えなくなり、すっかり暗くなった庭に燃え残ったおがらが点々と赤く見える。
「灯りをつけましょうか」サワさんが言った。両手で持った湯呑み茶碗を膝の上に置いている。
「はい」僕はリュックからランタンを取り出した。
家の電気は止めてあった。ランタンに灯油を入れて火をつけると、白みを帯びた黄色い光が、僕とサワさんの座っているあたりを、ぼんやりと丸く照らした。
「いい塩梅ね」サワさんが言った。
あれだけうるさかったセミの鳴き声は、聞こえなくなっていて、代わりに夏の夜の虫が、騒がしく鳴きだしていた。
僕がサワさんの暮らしぶりを知ったのは、長ずるにつれ、母との会話から何とはなしにだった。子供の頃は、夏休みに遊びに行くのを楽しみにしていた場所として、ただそこに在るだけのところのものだった。
母に連れられて、よく遊びに来ていたのは、小学生の間だけだったと思う。母は毎度、「来たよー」と声をかけながら家に入っていった。たいてい昼前で、祖母が冷たい麦茶を入れて、出迎えてくれた。祖父とサワさんは、家にいないことが多かった。とりとめのないおしゃべりに興じている母と祖母の隣に、僕は麦茶を飲み終えるまで大人しく座っていて、飲み干すと「遊んでくる」と言って一人で外に出た。
庭から続く墓地へと向かう小道を山の中へ歩くと、墓地の手前の沢に、橋がかかっているところがあった。僕は、橋の脇から沢へ下りて沢筋を上った。沢伝いに道がある。この先にあるワサビ田を、祖父が拓いた時に整えた道だった。農作業の利便を図って、道幅も広く、平坦にならされている。右手の斜面を塩化ビニール製のパイプが長く延びている。沢の水を家まで引いていたのだ。生活用の水は、それですべてまかなっていたという。
真っ直ぐに歩いてきた道が、右にゆるく曲がり始めると、その先にワサビ田が現れ、しゃがみ込んでいる祖父とサワさんの姿が見えた。僕に気づいたサワさんが、立ち上がって手を振り、「よくここが分かったねえ」と言った。
湯呑み茶碗が空になっているのを見て、僕はサワさんに酒を注いだ。
「ありがとう」サワさんは、前を向いたまま言った。
僕はリュックから、ぐい呑みを取り出して、自分の分の酒を注いだ。
「あの頃、一人で何して遊んでたのかな」
「さあ……。よくサワガニをたくさん捕ってきたのは覚えてる。素揚げにして夕飯に出したよね。お父さんが喜んでお酒のつまみにしてたでしょう」
僕にも何となくそんな記憶があった。ワサビ田のあった、あの沢で捕ったのだろう。手頃な石をひっくり返すとたいてい、いた。バケツに入れて、眺めて満足したら帰りには放してやったと思っていた。今なら祖父と同じように喜んで酒のつまみにしたことだろう。その沢も、もう枯れてしまった。ワサビ田も、沢が枯れてやめてしまったのだろうか。
「あの沢にワサビ田があったでしょう。山から下りてきた猿に荒らされて、困った、困った。網で覆うくらいじゃ効果なし。頭いいしね、猿」
「猿がワサビを食べるんですか?」
「ううん。サワガニをね、食べるの。サワガニを捕るのに邪魔なワサビを引っこ抜いちゃう。サルカニ合戦、知ってるよね」
「そんな話じゃないでしょう」僕は笑った。
「猿とカニは仲が悪いってこと」サワさんは真面目な顔で言った。
サワさんは自転車に乗れなかった。そのことで僕は、サワさんを揶揄したことが何度もあった。十歳しか年の離れていない叔母を、姉のように慕う気持ちから出たものだったろう。「私は山育ちだから」サワさんは笑って答えていた。その暮らしぶりはサワさんが亡くなった後、こうして本人から直接聞くことになった。
祖父の葬儀に出た時、僕は十五歳になっていた。中学生になってからは、親と一緒に出かけることも少なくなり、母の実家に来るのも三年ぶりだった。喪服姿で忙しそうに立ち働くサワさんは、僕を見つけるとそばに来て、「大人になったね」と言った。
祖父が亡くなり、祖母と二人暮らしになったサワさんは、役場の委託職員として事務の仕事に就いた。ワサビ田は細々と続けていて、時季ともなると休日返上でワサビ田の手入れをした。祖父のように上手に作れなかったし収穫量も少ないが、収入の足しにはなった。二人で食べる分くらいの野菜も畑で育ててはいたが、サワさんは山の実りを採りに行くことを好んだ。
春にはタラの芽やコシアブラなどの山菜を採りに、秋には栗拾いやキノコ狩りにと、一人で山へ分け入った。山や畑の収穫を近所や知り合いにおすそ分けすると、お返しにとマスやヤマメなどの川魚をもらった。狩猟期間には、シカやイノシシの肉をもらうこともあった。もらった塊肉は小分けにして冷凍する。春に採った山菜も塩蔵しておくのが常だった。サワさんは、食べられる山野草には詳しかったが、それ以外の、例えば花の名前などはよく知らないようだった。
祖父が亡くなって五年ほど経った頃、高齢の祖母の、山暮らしを心配した一番上の伯母が、自分たちと一緒に住まないかと言ってきて、祖母は移り住むことになった。
サワさんは一人になっても、それまでと変わらずつましく暮らし続け、十年経った秋晴れの朝、たまたま訪ねてきた近所の人に、布団の中で冷たくなっているところを発見されることになる。
サワさんの葬儀のために、僕が母の実家に来たのは、祖父の葬儀以来だった。
山の闇は深い。稜線に隈取られた夜空が、薄墨のように明るく見える。
「ああ、よかった。今年もモリアオガエルが来てる」サワさんが言った。
池の脇の梅の木の枝に目をやると、モリアオガエルの泡状の卵塊が、闇の中に白く浮き上がるように見えた。
持ってきた一升瓶の酒は、半分なくなっている。空いていた互いの器に、僕は酒を注いだ。サワさんはすぐに口をつける。
「サワさんは再婚しませんでしたね」
「一度で懲りたし、縁もなかったし。結婚して暮らしたのが海辺の町で、潮臭くてかなわなかったし。ここより他で暮らしたくないって、そう思った」
「それが理由ですか?」
「それだけのわけないでしょう。いろいろあったよ、もちろん、ね。と言っても世間によくある夫婦間のごたごた以上のことは何もなかった。そういうのって大体どれも似通っていて、自分だけはと思いたいけれど、十把一絡げにされても反論の余地なしって、感じ。あなたは結婚しなかったのね」
「縁がなかったので」
「そう。こればっかりはね……。甥っ子と、こんな話をする日が来ようとは」サワさんは笑ったようだった。
「僕ももういい年ですよ」
僕が言うとサワさんが、
「私はいくつになったのかしら」と小首を傾げながら言った。
僕はサワさんの方を向いた。見たところサワさんは、亡くなった時のままの容貌だ。こちらは十年分年を取っている。サワさんの年齢に追いついてしまったようだった。
「分かりません。死んだら年は取らないのかな」
「ああ、そうか……。私、死んだんだっけ」
手で弄ぶようにしていた空の湯呑み茶碗を、サワさんは突然、ぽんと庭へ抛った。一瞬、虫の音が止む。固い地面の上を湯呑み茶碗が転がり、迎え火の手前で止まった。
「今夜は泊まっていきなさい」
「そのつもりで用意してます」
「夕飯は? ああ、もらったヤマメが冷蔵庫にあったはずだから、自分で焼いて。私はくたびれたから先に休むね。明日も出かけるところがあるし」
サワさんは立ち上がって座敷の奥へ向かった。肩先から家の闇にまぎれてゆく。最後までランタンの光が届いていた足元が見えなくなると、サワさんの気配は消えた。そして虫の音が戻ってきた。
僕はぐい呑みに残っていた酒を干した。庭に転がっている湯呑み茶碗を拾う。リュックから寝袋を引っ張り出し、広縁に敷いて潜り込んだ。引き戸は閉めずに、このまま眠るつもりだった。
明日の朝家に帰り、三日後に送り火を焚きに、また来る。その時、どこにいるのか毎年サワさんの姿は見えない。どこで何をしているのか。何か不都合はないだろうか、と考えもするのだが、心配することもないだろう、と、すぐに思い直す。何でも一人でやってしまう叔母なのだから。
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