第2話 ふくべ

 東の空に昇った大きな月を眺めながら家路を歩く。昇ったばかりの月は大きく赤く、いつまでも僕の後をついてくる。信号待ちをしている時、右手に提げたレジ袋の中で、二本の缶ビールが、缶詰とぶつかりあってかつかつ鳴った。

 仕事帰りの金曜日。週末に酒を飲むことが楽しみではあるのだが、給料日前のかつかつの現状では、缶詰をつまみに部屋飲みをするのが精一杯だ。

 アパートの部屋のカギを開ける時、目の端にやはり大きく赤い月がいて、一緒に部屋へ入り込まれそうな気がした。それが錯覚であることは、もちろん分かっているのだが。僕はあらためて、しばし月を眺め上げ、それから素早く部屋へ入った。早くビールを飲みたい。

 ロング缶とはいえ、缶ビール二本では飲み干すのもあっという間である。少しはペース配分を考えたつもりだったが、ビールをぐいっと飲まずに何とする。湯煎して温めたサバの味噌煮と焼き鳥の缶詰は、ちゃぶ台の上でまだその温かさを保っていて、半分残っている。アンチョビにいたっては、ほとんど手つかずだ。このしょっぱさ、日本酒が欲しくなる。給料日まで、あと一週間の辛抱だ。来週末は少し贅沢に飲んでやろう。そう思うと僕は立ち上がり、部屋のすみにたたんで寄せてある、ふとんを広げた。こんな日は早く寝てしまおう。

 電燈からぶら下がるヒモを引っぱって灯りを消した。その直前、部屋のすみに何か見慣れぬものが転がっていたような気がしたが、一瞬の後、真っ暗になってしまった部屋では、その正体は分からなかった。

 僕はもう一度灯りを点けた。部屋のすみに半歩近づく。

「ひょうたん?」

 部屋のすみに転がっていた見慣れぬものの正体は、ひょうたんだった。三十センチ以上、四十センチはあるかもしれない。ひょうたんの標準的なサイズというものは知らないが、大きくて立派なひょうたんだと思った。表面はつやつやとしていて、そのくびれと曲線に魅せられ、思わず手に取りたくなった。

 こんなものを買った記憶も、もらった記憶もない。ましてや生っているひょうたんを盗んだ覚えもない。表面のこのつやは、明らかに加工されたものだ。民芸品?

「宇山氏かなあ」

 僕は風変わりな友人の顔を思い浮かべた。旅行に行くたびに、ペナントとか東京タワーのミニチュア付き万年カレンダーとか、そういった類のおみやげを持ってくる人だ。ありそうな話だ。

 再びひょうたんに目を落とすと、そのひょうたんがふるふると身ぶるいするように見える。ヒザをつき、目を近づけてじっくり見ていると、そのひょうたんがいきなり立ち上がった。

 立ち上がった? ひょうたんからは、鳥のような足が生えている。短いが細く流麗なサギのような足だ。立ち上がったひょうたんは、よろよろと歩きだす。一歩、二歩。動物としての本能なのだろうか、僕は反射的に手を伸ばして捕まえようとした。

 その刹那、ひょうたんは意外にも華麗なステップをふんで僕の手をかわすと、勢いよく走りだした。その勢いで壁を垂直にかけ上がると、天井から逆さにぶら下がり、じっと動かなくなった。

 さてどうしたものか。天井を見上げて僕は考えた。この部屋の主として何らかのアクションを起こすべきなのかもしれない。既にふとんも敷いて寝る態勢に入っていた現状を鑑みて、考えごとをするのも億劫になり、その晩はそのまま寝てしまった。

 翌朝、目を覚ますと妙に酒くさい。部屋のすみの天井には夕べのまま、ひょうたんが逆さにぶら下がっていて、その真下の床が濡れている。部屋に広がるこの匂い。

「まさか……」

 これは酒ではあるまいか。その濡れた床に指先をつけてなめてみる。そんな少量では味までは分からぬが、酒であることは明白だった。床が畳じゃなくてよかった。僕は思った。もちろん、その濡れた床をなめとったりするわけではないが。

 雨漏りする天井のその下に、洗面器や茶碗などを置く、といった行為は、ドラマの中でしか見たことがなかったが、そんな行為を自分がすることになろうとは。インスタントラーメンの袋麺を作った時にいつも使うどんぶりを、天井から逆さにぶら下がるひょうたんの下に置いた。洗面器ではなく食器にしたのは、意識はしていなかったが、それを飲むつもりがその時既にあったのだろう。

「よろしくお願いします」

 天井を見上げて僕はつぶやいた。

 休日の土曜日。かつかつの現状ではあっても、うつうつと部屋にこもっているのは本意ではない。ましてや天井から逆さにぶら下がったひょうたんから、酒がしたたり落ちる様子を眺めていることなど。僕はいつもの習慣通り、休日の朝の散歩に出かけた。今日はいつもと違って戻ってきた時の楽しみがある。どんな結果が待ち受けているだろう。

 結局散歩中も、ひょうたんのことが気になって、いつもより心もち早めに戻ってしまった。期待を込めて部屋へ入り天井を見上げる。ひょうたんはいなかった。どんぶりはからっぽ。

「しまった。ヤツには足があるのだった」

 その足で歩くところを僕は見ていたではないか。足は何のためにあるのか。足があるならば移動してしかるべし。閉め切った部屋からひょうたんはどこかへ消えてしまった。現れた時も、閉め切った部屋に忽然と出てきたわけだから、特段不思議なことではないのかもしれない。

 その時の僕の気持ちを客観的に推し量ってみると、ほっとした気分より落胆の方が大きかったように思う。いったい何に期待をしていたのか、自問してみるまでもないことだが、とりあえずその時の僕の気持ちは、落胆の方が大きかったのだ。

 ひょうたんが再び現れたのは水曜日の夜だった。仕事から帰ってきて、部屋の灯りを点けると、ひょうたんが部屋のすみの床の上に横たわっていた。寝ているようにも見えた。

 僕の期待は、否が応にもふくらんだ。つやつやと輝くくびれを持つひょうたんの曲線は、その内側にみっちりと酒をたたえているように思われた。

「なるほど、こいつは夜行性か」

 僕は指先で、ちょこんとひょうたんをつついた。

 途端にひょうたんは、跳ね上がるようにかけだすと、壁を垂直に上り、天井から逆さにぶら下がった。ほくそ笑みながら僕はその下にどんぶりを置く。明日の朝が楽しみだ。これほど浮かれるような就寝は、小学生の頃の遠足前夜以来かもしれない。高揚した気分に、寝つかれないのではと心配にもなったが、意外とすんなり寝入ってしまった。

 翌朝、どんぶりは酒に満たされていた。このどんぶりが満たされているということは、三合ほどあるだろうか。出勤前だが、お猪口に一杯だけ口に含む。

「辛口だ」

 僕はつぶやく。きりっとした辛口が強い酒だが鼻に抜ける芳醇さもある。僕の好みのうまい酒だ。昨夜からの浮かれた気分を伴ったまま、その朝僕は出勤した。

 ことが思う通りに運ぶというのは痛快だ。その日の帰宅後、僕は大いにひょうたん酒を楽しんだ。つまみは缶詰だけで十分だった。次の機会には、宇山氏にもおすそ分けしてやろう、と思う。宇山氏のことだから商売にしようと言いだすかもしれない。気分よく飲んでいると、三合ほどの酒はその夜になくなった。

 帰宅した時、ひょうたんの姿は見えなかったのだが、そのうちまた現れるだろうと、僕は高をくくっていた。就寝後のふとんの中で、またひょうたん酒を飲むことを楽しみに眠った。

 その後、ひょうたんは二度と現れなかった。

 もう少し敬意をはらうべきだったのかもしれないが、どんなふうに扱えばよいのか、皆目見当もつかない。どうにもしようがなかった。これも流れか。

 酒の楽しみは一期一会。酒を飲める幸せが、つくづく身にしみる今日この頃ではある。宇山氏に言わなくてよかった、と思った。

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