夜を拾いに

@sakamono

第1話 冬ごもり

 赤いトタン屋根の粗末な小屋の軒下に、赤提灯が下げられていた。板戸のすき間からは明かりが漏れていて、温かな煮炊きの匂いがしていた。

 飲み屋なのだろうか、ここは。男は訝しく思った。辺りは杉木立に囲まれた山の中だった。小屋は山仕事の人間の、作業小屋といった様子で、赤提灯が男の目に奇異に映った。目につくものは他に何もない山の中だった。

 ふと男は、なぜ自分がこんなところに立っているのか、判然としないことに気がついた。振り返ると細い山道が下っている。ぼんやり眺めていると、自分がこの道を歩いて上ってきたことが、確かなように思われだした。男はもう一度軒下の赤提灯を見た。匂いにつられたのか男は急に空腹を感じ、訝しく思いながらも入り口の引き戸に手をかけた。

「いらっしゃい」

 ひっつめ髪で、和服に白いかっぽう着姿の女が一人、湯気の中へ顔を上げた。火にかけられた手元の鍋が小気味よい音をさせている。手前に置かれた、厚い杉板の長テーブルがカウンターといったところか。切り出しただけの丸太が三つ、その前に置かれていた。椅子、ということなのだろう。

 湯気の中の女の顔が、次第にはっきり見えだした。年は五十見当か。整った顔立ちをしているが、化粧っ気のない顔には深く年輪が刻まれていて、肌はくすみ、心なしかやつれて見えた。

 お酒飲めますか。男は言って後ろ手に引き戸を閉めた。入ったところは土間になっていて、小さく水が溜まっていた。

「見ての通り居酒屋ですよ」女は薄く笑った。

 見ての通り。女の言葉に男はぐるりを見回した。

 隅に置かれた古い筒型のストーブの上で、やかんが湯気を吐いている。壁にかけられた幾本もの鍬や鋸や荒縄。積み上げられた段ボール箱、一斗缶。物置を思わせる雑多なものが、所狭しと壁際に並んでいた。梁から長くぶら下がる、煤けた笠をかぶった電灯が、黄色く丸く長テーブルの上を照らしている。小さな電灯とストーブの光は、小屋の四隅にまでは届かず、壁際に雑然と置かれたものは闇の底に沈んでいた。

「何にしましょう」

 女の言葉に男は、水溜まりをまたいで真ん中の丸太に腰かけた。

 燗をつけてください。男が言うと、女は体をひねって後ろの壁に作り付けの棚から、二合徳利を手に取った。

「二合にしましょうか」女は言った。

 なぜ、こんなところで酒など飲もうとしているのか。最前まで何をしていたのだったか。男には判然としなかった。

「雪、大変だったでしょう」燗をつける用意をしながら、女が言った。

 そうだ、雪が降っていた。


 男が目を覚ました時、列車は駅に停まっていた。午後の遅い時間だった。窓外は薄暗く、雪が降っている。車内のアナウンスが、雪の影響で列車がしばらくこの駅に停車することを、繰り返し告げている。男は寝過ごしたわけではなかった。元々行くべき場所もなく、この車両に乗り合わせただけだったから。

 男は、ホームに降りて改札へ向かった。白々と、明るく暖かい車内から降りると、外は雪降りの日の黄昏の、奇妙な薄暗さだった。列車に乗った時は、ちらつく程度だった雪が、本格的な降りに変わっている。山あいの小さな駅舎に駅員の姿はなく、そのまま改札を抜けた。入り口の軒下に立つと、線路と並走して国道が左右に延びていて、正面に大きな橋が見えた。傘は持っていなかった。コートのフードをかぶって一歩を踏み出すと、男の足首までが雪に埋もれた。

 男は国道を渡って橋の真ん中まで歩いた。橋の上からは視界が開け、屹立する山々と、その山が削られてできた深い谷と、谷底を流れる急流が見えた。荒々しく尖った大きな岩の間を、白いしぶきをあげて、激しく水が流れていた。橋の高さは二、三十メートルほどか。欄干越しにのぞき込むと、谷底からの風に吹き上げられた雪が、男の顔をたたいた。落ちてくる雪と吹き上げられる雪が、目の前でゆるく渦を巻いている。

 上下の感覚がなくなるようだ。男が空を見上げていると、深い谷の中空に浮いているような、落下していくような、奇妙な感覚が襲ってきた。


「こちらへはお仕事で」男に酌をしながら、女が聞いた。

 雪降りの日に、観光というのも不自然に思ったか、男は曖昧にうなずくと、受け取った徳利を、ごまかすように女に向かって差し出した。女は、大振りの白磁の猪口に両手で受けて、ひと息に干した。空いた猪口を、男がもう一度満たすと、女は半分だけ干して猪口を手元に置いた。

「今度は遊びにもいらしてください。来月には梅が見頃になります」

 女は手塩皿に盛った、ワラビの煮物を男の前に置いた。春に採って塩漬けにしたワラビを、もどして煮つけたという。男はワラビには箸をつけず、酒を干した。すぐに女が酒を注いだ。

「何か召し上がりますか。山のものと川のものしかありませんけど」

 男は、しばらく猪口に両手を添えて、手を温めている様子だった。その手をぼんやり眺めていた男は顔を上げると、女の手元の鍋のことを聞いた。

「モツ煮です、イノシシの。精がつきますよ」

 この山で、女が捕ったイノシシだという。男は女の顔を見た。女の力でイノシシを仕留められるものなのか。猟銃を使えばできるだろうか。それでも猟銃も、相応の重さがあるし、獲物を山の中から運びだす力も要るだろう。

「鉄砲なんて持ってませんよ。罠を仕掛けるんです」

 男の顔に浮かんだ怪訝な表情を、おもしろがるように女は言って、モツ煮を盛った小鉢を、男の前に置いた。

「くくり罠っていうんです。仕組みは単純ですよ。細いワイヤーを輪にしておくだけで。そこにつっ込んだ足が締め上げられたら、もう逃げられません」

 それだとまだ、生きてるだろう。男は話の続きを待った。

「ええ、後は鉄パイプで眉間を一撃。ほら、そこにある」

 女の指差す先に目をやると、薄暗い壁際に鉄パイプが立てかけられていた。罠にかかって暴れている、手負いのイノシシの眉間を一撃。女の力で、そんな芸当ができるだろうか。男の力でも難しいだろう。

「鉄パイプを正眼に構えて、私が正面から見据えると、観念したようにおとなしくなります。不思議なものです」

 さもおかしそうに女はしゃべった。そして男の疑問を見透かしたように、話を続けた。

「丸ごと持ち帰るのは骨が折れるから、その場で血抜きをして解体します」

 女は、そこに置かれていた小さな出刃包丁を逆手に持って、自分の首の辺りを切る仕草をした。

「置いていった残りは、山の動物たちが食べるでしょうし」

 男は目の前の、あふれんばかりに小鉢に盛られたモツ煮を見た。女が仕留めたイノシシ。白っぽいモツの脂味が、てらてらと光っていた。男は自分が空腹だったことを忘れていた。思い出したように、モツ煮を頬張った。

「藤の根をイノシシは食べるんです。山が荒れると藤がはびこってしまって。林業が盛んだった頃は、手入れがされていたんですけど」

 女が舌を湿らせるように、酒を口に含んだ。

「昔は切り出した木を川に流して、ずっと下まで運んでいました。危ない仕事です。命を落とす人もいました。今はやる人も少なくて、山が荒れてしまって。杉ばかりだったでしょう。みんな植えられたものです」

 こつ、こつと上の方で音がした。男が見上げると、薄暗い中にぼんやりと粗末な梁が見えた。天井はない。

「杉の実が、落ちて屋根に当たる音です。杉の木が雪除けになるので、周りに雪が積もらなくて助かります」

 女は、音のした方をしばらくにらみつけていた。その横顔に見入っていた男は、かすかな違和感を覚えた。その違和感は一瞬だったので、別の思いに押し流されていった。

 確かに杉ばかりが植えられていた。男は思い出し始めた。


 駅へと引き返すつもりだった男は、橋のたもとに案内板を見た。案内板は、そこから川へ下りる道があることを示していた。男は、その小道に踏み入った。小道は、谷へ落ちる斜面に植えられた杉が、風と雪をさえぎって歩きやすかった。小暗い小道を下りたところは橋の真下だった。鉄とコンクリートで作られた巨大な橋が、狭い谷の両岸をつないでいる。その光景を男は雪の中に見上げた。薄暗い空一面に、羽毛のような雪が舞っている。橋の上から見下ろしていた場所に、なぜ今、自分が立っているのか、判然としなかった。引き寄せられるように、ここへ下りた気がした。

 谷の両側の険しい崖は、山へ連なると急傾斜の稜線となる。その斜面には杉ばかりが植えられていて、峡谷に細く高くそびえる山を、いっそう尖らせて見せていた。


 木材を流せるような川には見えなかった。男が思ったことを口にした。

「上流にダムができるまでは、川はもっと深かったんです。橋はなくて、渡し舟があって」女は言った。

「ダム工事は戦争で中断されて、完成まで二十年かかりました。その間、工事現場で働く人たちが、たくさん飲みに来てくれました」

 ワラビの煮物とイノシシのモツ煮で、二合の酒を飲む間、女はそんな話をした。意外とよくしゃべる女だった。

 戦争中から店を構えているのなら、年はいくつなのか。男は口数の少ない質だったので、黙って聞いていたが、冗談にのるつもりで聞いた。女の話に引き込まれてもいた。

「いくつに見えます」女は型通りに答えて、ふふと笑った。

「働く男たちは、みんな強かった。朝まで飲むこともしょっちゅう」

 女は薄い笑みを頬に張りつけたまま、男を正面から見据えた。その頬には朱が差し、くすんでいた肌は白く張りが出たように見え、最初の印象よりずっと若く感じられた。やつれた様子は消え、目の光が強くなっている。

 男はうろたえた。酔ったせいだろうか。その目に気圧されて、男はもう二合、燗酒を頼んでしまった。

「マスでも焼きましょうか」女が言った。

 その言葉に男は、マスのことを思い出した。


 峡谷の川辺は狭く、ごつごつと大きな岩ばかりで、歩きにくかった。男は、滑らないように気を遣いながら、岩の上を渡ってゆっくり流れに近づいていった。岩の上に魚が一匹転がっている。マスだった。その先に目をやると、二匹、三匹……十匹を越える数のマスが転がっていて、降りしきる雪を薄くかぶっていた。男は興味を惹かれ、マスのそばにしゃがみ込んで仔細に見た。腹の部分が食いちぎられたように、ない。何だろう、このマスは。辺りに棲む獣が、食い散らかした跡だろうか。


「クマは冬眠前に魚のハラワタだけを食べるそうです。その方が、手っ取り早く栄養をとれるとか。冬眠中に子を産むこともあるそうです」

 クマの仕業か、あれは。男は驚いた。最前からの眠気が覚める思いだった。男は眠くなり始めていた。酒が回ってきたせいだろうと思っていた。

「この辺りの山には、クマもイノシシもシカもいますけど、クマが川に下りてマスを捕るなんて話は、聞いたことがありません」

 女は、湯気をたてているナベにつかっていた徳利を持ち上げて、底をさわり、燗のつかり具合をみた。布巾で徳利を拭う。

「他にも冬眠する動物が、いるのかもしれませんね」

 女が、二本目の燗酒の酌をしてくれた。受け取った徳利を差し出すと女は、白磁の猪口に半分残っていた酒を干して杯を受けた。眠い。男は思った。

「この川には、大きなマスがいるんです。今の時期、脂がのっていて、食べるととても滋養になります。何しろ四、五ヵ月眠りますから、たっぷりため込んでおかないと」

 こつ、こつと音がして女がまた、上の暗闇をにらみつけた。

 頻繁に杉の実が落ちるものだな。男が眠そうにつぶやくと女は言った。

「いくら粗末な小屋でも、杉の実が屋根に当たった程度の音なんて、聞こえませんよ」

 それでは何の音なのか。男は訝しく思ったが、最前から差している眠気で、うまく会話をつなげられなかった。

「小石をね、投げつけられてるみたいですよ。私が独り占めしてるからでしょうね」

 女の言葉尻が、笑みを含んだ言い方になった。

 石を投げている? 誰が。男は最前からの眠気を差したまま、ぼんやりと女の顔を眺めた。艶然と微笑む、朱の差した頬が、雪のような白い肌に映える。店に入った時、五十見当と見えた顔はどこにもなかった。強く光る眼で正面から見据えられ、男は身動きできないような錯覚を覚えた。

「私は途中で目が覚めてしまうんです。うまく滋養を蓄えておけないのかもしれません。昨日からたくさん食べているのに、まだ物足らない気がします。食事が済んだら、また眠るつもりなんですが」

 女はいったい、何の話をしているのだろう。判然としない頭で男は思った。凍えるほど寒かったはずなのに、今は汗ばむほどに暑い。

 凍えるほど寒かった?

 男は何かを思い出しかけた。

「昔から、そんなふうにやってきました。冬に眠ることで私たちは、ずい分と長く生きます。里に下りて人と交わった者は、ほどよい頃合いで死を迎えるようですが、私はずっとここに残ってしまいました」

 顔が妙に火照って熱くなっていた。飲み過ぎなのだろうか。燗酒を二合徳利で二本。男にとって、大した酒量ではないはずだったが、男は自分がいつからここで、こうして飲んでいるのか、判然としなくなっていた。

「本当は仕事ではないのでしょう。どうやってここへ来たのですか」

 女の言葉に男は、判然としない記憶の底をさらった。


 男は谷底の川辺から、しばらく尖った山々を眺め上げていた。降りしきる雪が、灰色の風景に薄く青味をかける。色味のない尖った山を見上げているうちに、男は昔、家の床の間にかけられていた山水画を思い浮かべた。そう思うと、どこかなじみのある風景のようにも思えるのだった。

 その風景に、ぽつんと一つ朱が差した。上の国道から川へ下りる斜面の中ほどに、赤い明かりが点ったのだ。そちらへ足を向けると、杉木立の奥へ続く小暗い小道があった。男が下りてきた道とは別の、上の国道へ通じる道だろう。この道を行けば、赤い明かりのところまで行けそうに思えた。男は引き寄せられるように、その道を上った。

 明かりは赤提灯だった。

 赤いトタン屋根の粗末な小屋の軒下に、赤提灯が下げられていた。板戸のすき間からは明かりが漏れていて、温かな煮炊きの匂いがしていた。なぜこんなところへ来てしまったのか、判然としなかった。どこかで一歩を踏み出してしまった気がする。小屋の中からただよってくる、温かな煮炊きの匂いに誘われて入り口の引き戸を開けると、「いらっしゃい」と声がかかった。


 男は、燗酒を手酌で飲み始めていた。二本目のはずだったが、いつからここで、こうして飲んでいるのか判然としなくなっていた。眠い、男は思った。

「イノシシの臓物も、マスのハラワタも食べました。でも一番は、男の精なんです。働く男たちの精は強かった」

 男は顔を上げ、女を見ようとした。最前からの眠気はいっそう強まり、目を開けていられなくなっていた。女の顔がよく見えない。

「私と寝てくれませんか」

 女が言った。

 男はこじ開けるように、目を見開こうとしたが、叶わなかった。

「一緒に眠りましょう。春まで」

 雪がすべての音を吸い取ってしまったように、しんとしている。薄暗い小屋の中で、やかんが湯気を吐く音と、鍋の煮詰まる音だけがしていた。

 雪はまだ降り続いているのだろうか。女と春まで眠るのも悪くないかもしれない。行くべき場所があるわけでもないのだから。

 こつ、こつと、落ちた杉の実がまたトタン屋根に当たる。

 いや、あの音は小石を投げつけられているのだと、女は言った。

 誰が投げているのだろう……。


 上の国道を、車の過ぎる音がした。

 その音を、男の耳が聞くことはなかった。

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