black sea

 "さあ! 冒険の始まりだ!"

 英語と日本語でそう書かれたゲートをくぐり、船が動き出す。


 **ドリームランド、アクアパーク。

 開園を明後日に控えた今日。

 エンジニア──ヒグチは船首に立ち、最終点検をしていた。

 船の動作チェックが彼の担当だった。

 本来、彼は事務所にてデスクワークに従事する管理職であり、点検は同部署の部下の仕事であった。

 しかしその部下の身内に不幸があり欠勤。急遽その代りで自ら現場に赴いたのだった。

 いくつもの遊園地のレール系アトラクションの開発に携わってきた彼は、熟練の技術者として、厳しい目でレールや船の動きをチェックしていく。

 プールには水は入っておらず、レール珊瑚と魚の模型も直接目視することが出来る。

 入水は明日、その前の最終点検だった。

 容赦無く照りつける夏の日差しに、ヒグチは汗を拭う。

(俺が歳なのか、今年が暑過ぎるのか。歳か)

 そう自嘲気味に笑みを浮かべた。


 点検は順調に進んでいる様に見えたが、ヒグチは船を止めた。

 そして前方を厳しい目付きで睨む。

「おいおいおい! 話と違うぞ。なんで、こりゃあ」

 船の前方にはトンネルがあった。入口は洞窟を模した荒々しい岩肌が剥き出しになった作りをしている。

 設計図には無い、洞窟が口を開けていた。

 中は薄暗く、ひんやりした冷たい風がヒグチの頬を撫でた。

 仕様の変更があったのだろうか?

 部下の連絡ミスかあるいは……。

 ともかくもチェックしない訳にはいかない。

 トンネル内でのトラブルは外より遥かに厄介である。

 ヒグチはヘルメットに備え付けられたLEDライトの電源を入れ、中を確認した。

(おいおい……)

 トンネル内には薄っすらと水が張られていた。

 幸い水深は浅く、レールは目視でも十分確認ができた。

 ヒグチは大きくため息をついて船首の操作盤を触り、船を動かし。

 低く唸る様な機械音がした後、トンネル内へと進んで行った。


 やはりトンネル内は暗く、最低限の非常灯と思しき明かりがあるだけだった。

 トンネル内の空気はヒグチの想像以上に冷たくひんやりとしていた。

 奥から流れてくる冷たい風に肌を撫でられ、ぞわりと鳥肌がたつ。

 多分演出だろう。エアコンを利かせ冬の海か、極地の海を再現するのだろう。場所によっては人工雪を振らせる所もある。ここも同じか。

 上を見ると青緑色の光の帯がヒラヒラと揺れてオーロラが再現されていた。

 南極海、いや北極海だろうか。

 冷房が一段と強くなった。トンネル内の温度がぐんと下がり、息が白くなった。

(意外と凝ってるじゃ無いか)


 ヒグチは此処がなんであるか、考えを巡らせながら点検を続けた。

 ふと、視界の端ーー右手の壁で何かが動いた気がしてそちらをみた。

 ヘルメットライトが作る直径50センチほどの明かりが壁を照らす。黒くぬるりとした表面の壁、下部にはフジツボが付いていた。それは洞窟の壁と言うより、タンカーの外壁を連想させた。

 トンネル内は暗く、ライトの範囲でしか見えないが、ヒグチは言いようの無い不安にかられた。


 その時急に、船が動きを止めた。


 何事かと進行方向へ向き直り確認するとそこにあるはずのレールが無かった。

 代わりに黒々とした闇を、闇と同じ色をした水がなみなみと広がって……。

 そう、どこまでも広がっていた。前を見ても、左を見ても、後ろを見ても、暗く黒い水面が広がっているだけだった。

(なんだ!? 一体……)

 頭上には星は無く、オーロラがはためいているだけ。

 白い息を吐きながら、再び、右側を見た。

 そこには相変わらず黒いぬるりとした壁と、壁に付着したフジツボが──音も無く、水面を横に滑り、まるで水に潜っていくかの様に、消えて行った。


 それは壁では無かった。


 それが水中に潜った瞬間、波ひとつない静かだった水面が大きくうねり船を揺らした。

 ヒグチはとっさに手すりにつかまり揺れに耐えた。

「なんだってんだ!? 一体よお!」

 叫びは一切反響するくと無く、暗闇に吸い込まれて消えてしまった。

 半ば恐慌状態で周囲に視線を巡らす。

 LEDライトの真っ直ぐな光が闇の中で出鱈目に振り回される。

 どこをみても、暗い水面か黒い虚空しか照らさなかった。

 呼吸は荒く、奥歯がガチガチと鳴った。

 次の瞬間、暗闇から音が聞こえて来た。


──ずぁ、ずぁ。


 微かな、さざ波の様な音だ。

 ヒグチは弾かれた様に音のした方を見た。何も無い。


──ずぁ、ずぁ、ずぁ


 また音がした、違う方向から、同じ音だ。慌ててそちらを見る。何も無かった。


─ずぁ、ずぁ、ずぁ、ずぁ。


 また、別の方向から、音が聞こえて来た。それも複数。

 音は次々と、泡の様に湧き上がり、彼と彼の小舟を取り囲む様に全方向の至る所から聞こえていた。


「はっ、はっ、はっ、は」


 呼吸と鼓動が頭に響く。

 暗闇に慣れた目で、彼は見た。

 人間の何十倍も大きく歪な人型をした影が、数十体、自分と船を取り囲むんでいるのを、見てしまった。


 体の震えは寒さによるものでは無かった。

 震えながら、頭を上げ、ライトの明かりで影をなぞる。

 20メートル、いや30メートルはあるだろうか。

 黒くぬるりとした皮膚にフジツボを付けつた人型の何か。

 そして、その巨影が船を覗き込み、その何かと目が合った瞬間。

 彼の精神は発狂に至った。


 小船の上で胎児の様に身体を丸めあらん限りの絶叫を迸らせ、意識を失った。



 彼が発見されたには夕暮れになってからだった。

 帰りが遅く、何かトラブルでもあったのでは無いかと心配した部下がアクアパークをで彼を発見した。

 アトラクション内、トンネルの出口で停止した船の上で、一人倒れていたのだ。

 緊急搬送され、命に別状は無かった。

 しかし、うわごとの様にどこの国の言語か分からない言葉を呟き、暗がりと水を極度に恐れる様になったという。

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