第5話 忘れられた名

 茜は、凪の元へ飛ぶように駆けつけて、太刀の先を男に向けた。

「そこの男、止まれ!」

 茜が言うと、男が立ち止って、茜の方へ振り返った。

 その顔を見て、茜は驚いた。それは、例の宝玉を売ってくれた、旅人の男だったのだ。

「これは、村長の若様……まさかまだ生きているとは思いませなんだ。」

 男の首には、茜が無くしてしまった宝玉が提げられている。

「若様には感謝しておりますよ。浮き上がってきた宝玉の軌跡を辿って、こうして念願の竜宮城までやってくることができた。お会いできて嬉しいですよ、凪姫様!」

 下卑た目で凪を見つめる、男の熱っぽい声が、茜には不快だった。

 一方、凪はひたすら困惑している様子だった。

「あなたは、先日、海で溺れていたところをお助けした方ですね? もうここに来てはいけませんと、申しましたのに……ここまでの道筋も、もう辿れないようにしたはずだったのですが。」

「滞在の思い出にと、この城で失敬した頂戴した宝玉が役に立ちました。それを、若様にお渡しして、私は再びあなたに、」

 男が凪に向ける甘ったるい声が気持ち悪くて、茜は言葉を断ち切るように声をあげた。

「貴様、もしや、最初からこれが目的で!」

「ええ、あなたが昔、妹を竜神の生贄にささげられて、以来竜神を恨んでいるという噂は聞いておりましたからな。宝玉をチラつかせれば食いついてくるだろうと思ったのですよ。」

 茜が気付くと、男の周りに、他にも仲間らしき男達が集まってきた。皆それぞれに武器を持っている。

「しかし、あなたが生きていたとは予想外だ……村長には、あなたは死んだと適当に報告するつもりだったのになあ。生きて戻られては面倒だ……やれ。」

旅人の男の合図で、仲間たちが一斉に茜に襲い掛かった。

 茜は、襲い掛かる男どもの攻撃をかわし、茜は素早く鋭い打撃を、男達の腹に打ち込んでいく。峰うちで、刃は刺さっていないが、茜に攻撃された男は、たまらずその場に崩れ落ちる。

 しかし、多勢に無勢だった。ほどなくして、茜は男達に取り押さえられてしまった。そのうちの一人が、汚らしい顔を茜の首筋に近づけ、すんすんと匂いを嗅ぐ。何かと思って茜がいぶかしんでいると、突然、男が茜の着物に手をかけ、剥ぎ取った。

「きゃっ……! な、何をするっ!」

 茜が叫ぶが、それは虚しい抵抗だった。サラシの上からでもわかる胸の膨らみが、見知らぬ男達の目に露わになってしまった。隠したくても、両腕を抑えられてしまっている。茜は、恥ずかしいのと恐ろしいとので、顔が、かあっと熱くなり、涙がこぼれそうになる。

「……おいおい、こいつは驚いた! 頭ぁ! こいつ女ですぜ!」

「それによく見れば上玉だ!」

 にやにやと、下卑た目で男たちが茜を見下ろす。茜は、恐ろしくて体が動かせなかった。

「ほほう……殺すのはやめだ。たっぷり可愛がってやるとしよう。」

「や、やめろ……! い、いやあああ……!」

「―茜!」


 一瞬、誰の名前が呼ばれたのか、わからなかった。

 茜の着物を剥ぎとった男が、ばたりと倒れた。目を剥いて、頭から血を流して死んでいる。

 茜が、声のした方を振り返ると、竜神がそこにいた。

「我が城に忍び込み、あまつさえ、不埒な真似に及ぼうとするなど……貴様ら、命が要らんと見える。」

 五年前、あの祭の後から、茜はずっと、自らを葵であると偽って生きてきた。両親以外に彼女の本当の名前を知るものなど、いないはずだ。母も亡くなり、父ですらその名を呼ぶことは無くなってしまった。

この世に、自分を「茜」と呼ぶ者など、もういないはずだ。

たった一人を、除いては。

「まずい、竜神だ! に、逃げろ!」

「逃がすものか……歴代の神々よ、我に力を与えたまえ……竜神剣!」

 竜神の手には、聖堂で見た、あの太刀……竜神剣が握られている。竜神が剣を一振りすると、剣から強大な稲妻が生まれ、男達を吹き飛ばした。

「立ち去るが良い、下郎ども。運よく生き残ったものは、私の恐ろしさを、とくと地上の者に聞かせてやるが良い。」

 一気に海面へと吹き飛ばされてしまった男たちに、竜神の声が果たして届いていたかどうかはわからない。茜は、放心状態で、しばらくその場から立ち上がることもできなかった。

「……着物を、直してはどうだ。」

 竜神に声をかけられて、ようやく我に返った茜は、慌てて着物の襟を合わせて、立ち上がった。

「……怪我は、ないようだな。」

 そう一言だけ言って、竜神は気を失っていた凪のもとに歩み寄り、彼女を手でやさしくつかんで、背に乗せる。そして、茜のことも同じように手でつかもうとして、宙でその手を止めてしまった。

「……動けるのなら自分で動くと良い。私に触られるのは、嫌だろう。」

 そう言って、茜を置いて、行ってしまおうとする。そんな竜神に、茜は、黙っていられず、震える声で彼を呼び止めた。

「待って……! な、名前! どうして、知っているの……?」

 茜の言葉に、竜神は足を止めた。

「……凪から、聞いたんだ。」

「私は、凪さまに『茜』と名乗ったことなど一度もありません。」

竜神は、しまった、と言った表情になった。その表情が、何よりも雄弁に真実を物語っていた。

「葵、兄さま……兄さま、なの……? うそ、なんで、どうして……!」

 茜は、竜神の、巨大な身体に、震える手でそっと触れる。

「……できることなら、知らないままでいてほしかったんだが、ね。」

 竜神は、茜に振り返ると、苦笑いしながら言った。

 あまりにも衝撃的な真実に、茜はまたも力を失い、膝から崩れ落ちてしまった。

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