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新シルダ歴四百五年、九の月、三日
雪が降った。そんなに長い時間ではなかったが、自分の服の上に落ちたものを見たから断定出来る。とても小さな氷の結晶だった。トレキア王国では秋なのに、ここではもう雪が降ったのだ。エルディオス様が寒い寒いとひっきりなしに言うものだから、寒暖差に疎い私もかなり北まで来たことを実感する。お貴族様の割にいい反応をする素直な上官様なので、私はなかなか気に入っているが、如何せん五月蠅いのが少し宜しくない。ついでに部下でなく上官であるということも宜しくない。だが、仕方のないことである。
私達は北へ向かう旅人である、と、あらかじめ学んでおいた彼らの言語を使って言ってみれば、この地域をよく知っている案内人の背の高い青年は、疑うこともせずにそれをあっさりと信じた。今年で二十歳だという青年は、ヒェブという草の繊維を取り出して織った筒袖の服に、麻のズボン、灰色の狼の毛皮の分厚い胴衣をその上から着て、鹿革のしっかりした靴を履いている……靴底は堅い杉だ。全ての衣類の裾には、黒い獣や白い獣を中心に、色とりどりの草花が配置された刺繍が施されていた。彼の名前はギリ・エギリ=シルニルだ。エギリ、が名前で、ギリ、は家の名前。シルニル、というのは二つ名、意味は《夏風》らしい。エギリという名前は祖父から貰ったものらしく、また、同い年の従兄弟二人とも全く同じだそうなので、シルニルと呼んでくれ、と彼は言った。
雪が降るのを目にして、去年死んだ者の魂が還ってきた、と、シルニルは言った。
ところで、彼らは自分達のことをブルナーフ、と称する。どうやら、語り継ぐものという意味らしい。私達よりも肌の色は濃く、髪の色は灰色だ。同じ人間であるのにどうしてこうも違う色をしているのか、不思議なものである。
新シルダ歴四百五年、九の月、四日
エス・トゥーナの集落に到着した。エス・トゥーナとは、平原という意味だ。草、平地、という意味の言葉が組み合わせられている。こういった集落は点在しているらしい。ここに辿り着いたブルナーフの先祖達は草原のど真ん中に集落を作った。草原の南の隅に集落を作った場合、草原の北の隅まで狩りなどで遠征に行くと、その日のうちに帰ってくることが出来なくなって、冬だと死んでしまうからだ、ということだそうだ。
今日も雪は少しだけ降った。雪が途切れずに五日間続いて、地面に白く積もり始めたら、還霊の祭り、というものが開かれるらしい。何でも、この季節は、先祖の魂が雪となって還ってくる時期らしい。迎えの酒が振る舞われる、ということを知って、エルディオス様も楽しみなようだ。僻地の調査を任された十人隊長のエルディオス様はずっと心の御加減が宜しくなかったようだが、これで少しは私も愚痴から解放されるだろうか。
来客用に家があるから、と、空の住居に案内された。外見は素朴な六角柱の家だ。中に入って驚いた。六本の柱の上は白、下は黒で塗られており、その間には咲き誇る色とりどりの花畑が描かれている。特にその住居の中央にある主柱の彩色は見事で、白と黒で光の神と闇の神が描かれている、と、シルニルが説明してくれた。西の方向には分厚い毛布や毛皮の寝具が大量に積み重なっており、東の方向には土で造られた炉があって、そこでは既に火が焚かれていた。有り難い話である。どうやら、住居の中ではブーツを脱がないといけないらしい。エス・トゥーナやその周辺地域の人々は、地面から少し浮いたところに板を張って、その上を足袋のみで歩くらしい。火が焚かれていても冷えて仕方がないので、持ってきた絨毯を足元に敷いたら、幾分か快適になった。
ところで、日の出から七刻くらいしか経っていないのに、もう夕刻だ。そして、日が沈んでしまうのも早かった。そうなるとやることはなくなってしまうので、仕方なく身体を清めようとしたら、水が冷たすぎて手が凍ってしまうかと思った。すると、昨日からずっとそばで世話をしてくれているシルニルが、私達をとても良いところへ連れて行ってくれた。集落の広場の隅にある浴場である。浴場は男女別で、土壁に覆われていて、互いの中の様子は見えなかった。土を掘って、そこに木の板を乗せて、大きな浴槽を作っている。退屈を極めていたエルディオス様もお喜びだったから、それについてはとてもよかった。
枕がとても硬くて眠れそうにないので、毛布で包んだらましになった。
新シルダ歴四百五年、九の月、十日
エス・トゥーナで祭りの準備が始まった。切り出した杉の木材で、狼や大白鳥、鹿、狐などを掘り出していくのは、集落の年寄り達だ。それを白と黒の塗料で塗るらしい。かなり作業はゆっくりしているようだが、準備も含めて祭りらしいので、何月何日に必ず行わなければいけない、というものでもないらしい。
還霊の祭りでは、十五歳を迎えている少年少女達の成人の儀式も行われるそうだ。男は狩りへ出る。一番立派な獲物を捕らえた者が、この集落の十五歳の娘の中から最も美しいと思う者を選んで娶ることが出来る、というのだ。因みに、美人の条件は、尻が大きいこと、だそうだ。おそらく健康な子を沢山産めるからだろう。女は、自分を選んだ夫が狩ってきた獲物の皮を剥ぎ、それで一着の大きな衣を作る。
エルディオス様が十五歳の娘達を品定めしていたが、手を付けるつもりだろうか。確かにエルディオス様は見目麗しく体つきも申し分ないが、十五歳ではなく三十五歳だ。生娘達に良い思いはさせてやれるのだろうが、集落の少年達や大人達に喧嘩を売る必要はない。部下として、小大陸南部連合軍の一員として、人々と良い関係を築きながらこの新たなる大地を北まで開拓する為に、面倒臭いことは避けねばならないのだ。私はエルディオス様をしっかり諫めなければならないが、彼のお人は非常に気分屋であるから困ったものである。よく貴族としてやってくることが出来たなあと思うが、だからこそこうやって斥候のようなことをさせられているのかもしれないという考えに思い至った。それに付き合わされる私も私なのではないか……非常に遺憾であるが、連合軍の将軍殿は私をお目付け役か何かと勘違いしているのではなかろうか。
良い関係を築く為には、相手を知ることが大切だ。聞いたことを何でもかんでもここに書いていくことにしている。エルディオス様のことまで書いてしまうのはやめた方が良かったかもしれないが、エス・トゥーナの人々と比較するのに丁度いいかもしれないので、併記しておくことにする。困った上官だけれど悪い人ではないのだ、悪い人では……。
新シルダ歴四百五年、九の月、十一日
腹を壊した。心も身体も図太いエルディオス様はぴんぴんしている。その丈夫さが今は恨めしい。くそ。エス・トゥーナの厠は肥溜め式だった。尻は木の皮で拭いている。尻穴が痛い。私はもう駄目かもしれない。
新シルダ歴四百五年、九の月、十二日
見かねたシルニルが、シシラ草という葉っぱを煎じた胃によく効くという飲み物を持って来てくれた。ついでに、傷口を塞ぐ効果のあるアインズミという花の成分がたっぷり入っている塗り薬を塗ってくれた……切れた私の尻の穴に、だ!
エルディオス様は私の無様な格好を見て涙を流して大爆笑していた。くたばれ!
しかし、エス・トゥーナとその周辺地域の人々は森の薬草の使い方をとてもよく知っている。おかげで生きて帰れそうだ。半刻もすれば私の調子は良くなったので、エルディオス様から敷物にしていた絨毯を取り上げた。しきりに謝っていたので許した。この人は顔がいい。
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