第8話 孕み者の運命
「う、あ……」
穴から一度退去し、アルマーニは薄い布をマーヤの胸元を隠すように羽織らせたところで、彼女は呻き声をあげた。
「ほう。生きていたか」
口の中から血か唾液か、他の液体も一緒に吐き出し、マーヤは涙を流して嗚咽を漏らす。
「もう一本掛けといてやるかぁ」
水色の小ビンを再び取り出し、小気味の良い音を立ててフタを開ける。
透明な謎の液体を、マーヤの顔から身体にかけて浴びせていく。
「それさ~水じゃないよね?」
アルマーニの横で眉をひそめるフィズ。
中身が気になるのか、マーヤの身体に指を這わして液体を掬う。
「あぁ、こりゃあ聖水だ。教会の怪しいおっさんが作ってるお浄めの水なんだとよ」
「ふむ。効き目があるとは聞いたことないが、気持ちの問題だろう」
溜め息混じりのアルマーニに、ガルダも肩を竦めて息をついている。
ふ~ん、とフィズは適当に相槌をうち、マーヤの汚れた顔を覗き込んだ。
「あ……う」
声にならない声を発し、マーヤは血で固まってしまった睫を必死に開けようとしているが、力がないのか瞼さえ開けない。
「ふむ。さて、一度帰還するか」
腕を組んで提案するガルダに、フィズは賛成して元気よく手を挙げた。
子供の回復力は凄まじい。
少年の姿を見て、アルマーニは空笑いした。
「オークはどうする?」
「今は考えてねぇ。とりあえずこいつがゴブリン共の孕み者にされてねぇかどうかだ」
フィズの問いにアルマーニは真剣に答え、マーヤを優しく抱いてやる。
「戻るだけなら敵はいない。ふっ、貴殿の商売をするのも構わんぞ。この娘は私が運ぼう」
「そうそう、その間にボクたちがちゃんとお姉さんを調べておくよ~」
やけに親切な二人は、企み顔で笑みを見漏らしていた。明らかに下心が見える。丸見えだ。
「お前らなぁ……顔が緩みきってんぞぉ」
「いやいや! 丁寧に調べるよ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ、こんのマセガキんちょ」
鼻歌混じりで親指を立てるフィズに対して、アルマーニは呆れて率直な言葉しか出て来ない。
「俺の仕事は後でたっぷりさせてもらうさ。ってことで、帰るぜ」
マーヤを背中に負ぶさり、アルマーニは先頭に立ってゆっくり歩き始める。
「おいしいところは全部自分なんだーズルい」
「どうせガキんちょには背負えねぇだろ」
不服を訴えるフィズだが、戦う前にあれだけ怒りを露わにしていたのは何だったのか。
確かに今、アルマーニは背中で柔らかい感触を味わっている。堪能といってもいい。
どうせガルダが背負ったところで、この感触は味わえないのだから、役得ということだ。
「ふぅ、んじゃあまぁ、帰るか」
アルマーニはひとまず、裏の小屋へと戻るために歩いていった。
そんなアルマーニの声を薄ら耳にしながら、マーヤは静かに眠りについた。
──。
────目を覚ますと、薄暗い中に茶色い天井が目に映った。
肌に何かが触れてくすぐったい。
肌寒さを感じ疑問に思えば、どうやら裸のようだ。裸体に触れていたのは、薄い長布だった。
暗く狭い部屋だ。
私物のような物はなく、閑散としている。
そんな部屋の中、自分が寝ているベッドの横には淡い紫の髪をした女性が、腕を支えにして眠っていた。
「戻ってきた……のね」
安堵したマーヤは、自らの身体に出来た無数の傷を見て、顔を歪ませた。
ゴブリン共の下品な笑い声。
一撃も与えられず、オークに掴まれ、王国騎士の装備は粉々に砕かれた。
同時に、誇りも見事砕かれたのだ。
身ぐるみを剥がされ、殴られ蹴られ、異臭のする舌で舐められ弄ばれた後、どうなったのか分からない。
正直、考えたくもない。
「もう、人にはなれないの……」
マーヤは溢れてきた感情を抑えることが出来なかった。勝手に流れてくる涙を、拭うこともなく自分の身体を抱き締める。
「ん……あ、良かった! もう起きて大丈夫なのね?」
紫髪の女性がはたと目覚め、艶めかしい唇を動かして微笑んだ。
突然声を掛けられ、マーヤは躊躇いがちに小さく頷く。
美しい女性だ。
比喩などいらない。ただとても美しい。
マーヤは彼女の微笑みに、涙を流したまま見とれていた。
「泣いているの、ね。大丈夫、もうアナタは襲われない。ここは安全よ。ワタシがいるわ、安心して」
紫髪の女性は柔らかい声音で諭し、マーヤを優しく抱き締めた。
独特な花の香りが鼻腔を突く。
とても暖かい。同じ女性ということもあってか、マーヤはひどく安心した。
「起きてたのか」
不意に声を掛けられ、マーヤはハッと我に返り女性を押し返して引き離す。
「アル、お帰りなさい」
「おうソルシェ、悪ぃな」
果物や包帯などを紙袋に積んだアルマーニが、軽く手を上げたあと部屋の扉を閉めた。
ソルシェと呼ばれた女性は甘く笑みを零し、アルマーニに「お疲れ様」と労いの言葉を掛け、荷物を預かった。
「もうどこも痛まねぇか?」
頬を掻いて、近場の椅子に座りアルマーニは苦笑いをする。
「ああ、えっと──大丈夫」
アルマーニの視線が身体に向けられたことに気付き、マーヤは急いで長布を胸元まで上げて恥ずかしそうに頷いた。
救出されたのだから、当然裸は見られているだろうが、起きているうちは隠しておきたい。
「……はぁ、まぁ、結論から言うぜ?」
ソルシェはリンゴを切ったり擦ったりして、支度をしてくれている。
落ち着いたのを見計らい、アルマーニはソルシェには聞こえないように話を始めた。
「お前は孕み者にされてねぇ。なんか変なモンが入ってたみてぇだからな。代わりに俺の指が千切れかけたぜ」
アルマーニは手を広げてヒラヒラさせる。よく見ると、人差し指の第一関節が包帯で巻かれていた。
じわりと血が滲んでおり、痛々しい。
「ああ……王国から支給される器具よ。半信半疑だったけど、本当に防いでくれたのね」
「器具?」
アルマーニの疑問に、マーヤは少し悩んで説明をし始める。
「ゴブリンやウルフから獣姦されないためのものでね。鉄の処女? だったかな。異物が入ると棘が出る仕組みらしい」
「お、おぉ、凄まじいモンだな……」
マーヤは力なく笑うが、アルマーニにとっては笑い事ではない。
指だけで済んだことを安堵するべきか。
「まぁ、何はともあれ良かったな、と言いたいところだがぁ」
アルマーニは言葉を濁らせた。
何故かは、マーヤが一番よくわかっているだろう。
「一人で無謀にも挑んだ私が悪い。慢心した結果、迷惑を掛けてしまったわ。本当にごめんなさい」
思いを吐き出したマーヤは、深々と頭を下げた。さらに咎めようとしていたアルマーニだが、ソルシェに頭を振られ口を閉じる。
「私はまだ戦える。今度こそ、今度こそ役に立つため──」
「はぁ、やっぱりお前はバカか」
決意を胸に熱く語ろうとするマーヤを、アルマーニは大きく溜め息をついて鼻で笑った。
「こんだけの目に遭って、まぁだ諦めねぇのか。騎士の誇りってのは随分立派なんだなぁ」
「貴様……恩人でも許されないことがあるぞっ!」
肩を竦めるアルマーニの胸ぐらを掴もうと乗り出し、マーヤは裸体を晒し胸を揺らした。
「騎士の誇りも、死んじまったら同じだぜ?」
まぁまぁと抑えるアルマーニに、しかしマーヤは手を緩めることなく怒りを露わにしている。
「貴様には分からない。私がどんな思いで騎士になったか、騎士じゃなければ意味がないのよ」
女性らしい身体付きとは裏腹に、マーヤの表情は厳しい。
胸ぐらを掴まれたまま、アルマーニは息をついた。
「意味も誇りも、騎士っていう称号も、死んだら全部終いだって言ってんだよ」
今までの態度と違い、アルマーニはマーヤの手を離し無理矢理ベッドに座らせた。
「メロン女。頭冷やしてよーく聞け」
「聞いてほしいならその呼び方を止めなさい。まあ、聞く気もないけど」
胸の下で二の腕を組むマーヤ。
自分が裸ということを忘れているらしい。
真剣な話の途中で、男の性か、どうしても豊かな胸に目が行ってしまうアルマーニは、ソルシェに目配せをする。
察しがいいソルシェは、畳まれていた肌着を持ってマーヤに手渡す。
「これ、着てください」
「あ、いや、ありがとう……」
ようやく自分の状況を理解したマーヤは、目を逸らすアルマーニを一瞥し、カァーっと熱くなる顔を隠すように肌着に腕を通していく。
「……熱は冷めたか?」
「……おかげさまで、さっきより暑くなっているわ」
長布で顔を隠したり、手で扇ぎ熱を冷ますマーヤに対して、アルマーニは頬杖をついて苦笑した。
「で? 結局お前は懲りてねぇ訳だ」
「懲りてるわ。懲り懲りよ。けれど、引くつもりもないってことよ」
アルマーニの表情が曇る。
どう足掻いても、マーヤは諦めないだろう。そうなれば、アルマーニにこれ以上言うこと資格はない。
忠告を無視して、他人が死ぬならば、それも運命というものだ。
「俺はもう助けねぇぞ。だがな、約束は果たしてもらうからな」
「約束?」
「一晩付き合ってもらうってこった。晩酌だよ。忘れてんじゃねぇ」
ソルシェが切り分けたリンゴを用意し終えた頃、アルマーニは立ち上がり背を向けていた。
「食べない?」
悲しそうに、ソルシェが呟く。
アルマーニは少しだけ振り返り、眉をひそめて微笑むと、皿に盛られたリンゴの一切れを掴み口に放り込んだ。
「ありがとな。もうちっと、こいつのこと頼むわぁ」
ある程度咀嚼し、アルマーニはソルシェに手を振って部屋から出て行った。
途端に静かになった部屋の中で、ソルシェはリンゴにフォークを刺してマーヤに差し出す。
「アルと……仲良しなのね」
困った顔をして、ソルシェは寂しそうに呟く。まさかそんなことを言われると思っていなかったマーヤは、大きく驚いて左右に首を振った。
「そんな訳ないじゃない! 犬猿の中でも程遠い」
リンゴを噛み締め、全力で否定していくマーヤ。
「ワタシは、あんな風にあの人と話せないもの」
ソルシェの顔が綺麗な顔が歪む。
「あの人がワタシのところに来てくれるのは、同情ですもの。愛情とか、友情なんて、ない」
そこまで聞いて、マーヤはようやく理解した。
独特な花の香りに、妖艶な美をもつ彼女。部屋に無駄がないのは、客を取るためだけの部屋だからか。
魔物に犯されてしまった経験がある、娼婦としての価値しかない女性。
そして彼女は、アルマーニと恋仲だったのか。それともただの冒険仲間だったのか──。
「あの男のこと、好き……なのね?」
聞いてしまってから、マーヤは後悔した。
しかしソルシェは気にすることなく純粋に「ええ」と、だけ答え頷いた。
「ワタシの初恋の人なの」
可愛らしい笑顔だ。
恋する女性は美しいとはまさにこのことか。
マーヤは静かに二、三度頷き黙々とリンゴを食べていく。
「あの人は優しいから。酷いことは言うけれど、格好いいもの。だから、嫌いにならないで、ね?」
ソルシェはマーヤの手に手を重ね、柔らかく微笑んだ。
「あの人のそばに、ワタシはもう居られないから。守ってあげられないから。だから、見守ってあげて……おねがい」
頭をマーヤの肩に乗せ、ソルシェは満足したのかそのまま寝息を立て始めた。
「見守る……ね」
彼女の身体を見ると、同じく無数の傷跡が生々しく残っていた。
マーヤは小さく息をつき、フォークを下ろす。
ソルシェはもう諦めているのだろう。
アルマーニとはどのような関係だったのだろうか。何も分からない。
それでも、ソルシェも命の恩人だ。
その事実は何ら変わりない。
「ああ、私で務まるか……」
女性の頼みは騎士として断るわけにはいかない。しかし果たせるか。この重み。
マーヤは残っていたリンゴに食らいつき、何度も何度も咀嚼した。結局最後に食べたリンゴを、マーヤは飲み込むことは出来なかった。
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