第十九話 涙の糸

 髪の間をすべらかに、冷たい指がすり抜ける。

 氷の唇が炎の唇を溶かす。燃え立つ炎を口づけでふさぐ。

 その間に。

 島には何度、朝が来たのだろう――。

 


 天に浮かぶ島は、初冬の雪雲の上にあった。はるか空の高みにある島の空気は、きんきん凍りついていた。なれどクナは、まったく凍えなかった。


「あの子はとても美しかった。君と同じしろがねの髪。しろがねの肌」


 うっとりささやきながら髪を撫でてくる人が、片時も離してくれなかったからだ。おかげで胸の聖印は絶えずごうごう。鮮烈なる炎を放ち、クナの身を焦がしていた。


「ずっとここに、一緒に住んでいたんだ。あの子は金の林檎がとても好きで……」

「やだ……もうはなして……」

「毎日食べても食べ飽きなかった。君も好きだろう?」

「お、おいしいけど! わかんない……わかんない!」


 島にはりんごだけでなく、様々な果樹を実らせる温室があった。

 檸檬れもん葡萄ぶどう、桃や蜜柑みかん。どれもはじめて食べるものばかり。いろんな果実を渡されたクナは、ずっと黒髪様の腕の中に閉じ込められていた。うろたえ声が、ぱっと舞い散る炎の中に消える。めらめらばちばち、激しい燃焼音の中に溶けていく。

 黒髪様が口づけしてくるたびに、渦巻く熱が体から迸る。しかし炎は瞬く間に、しゅうしゅうと勢いをそがれて消え失せるのだった。


(あつい。あつい。とけちゃう……)


 橙煌石とうこうせきなるものは、ほどよく炎熱を食らっていた。黒髪様の胸に下がるそれは、ごくごく小さな小石ほどの塊だ。炎に包まれたクナの指先に触れても、氷のように冷たい。常人ならばたちまち、その身が凍てつく彫像と化すかもしれない。

 しかし黒髪様は、まったく平気だった。その凍てつく手も唇も、クナの身を焦がす熱を愛しげに吸っていて、遠慮などみじんもなし。意地悪く、「ああ寒い」とくすくす笑っていた。まるで炎になど触れてないかのようだった。

 一方、クナの頭は熱でくらくら。ぐるぐる回転する意識の中で、澄んだ声のささやきが踊っていた。


竜蝶りゅうちょうによって生き返った者は不死となる。飲まず食わず、たとえ首を飛ばされようが死なないんだ」


 妙なる美声が冷気と共にこおこおと、あたりに舞っていた。


「一度死んでいるゆえ、私の五感は鈍い。寒暖もそうだし、味覚はほとんどない」


 つまりいも甘いも感じない。だが――。


「主人たる竜蝶りゅうちょうの甘露だけは特別だ。この上なく甘く、美味に感じる」

「やだ! とけちゃう。とけちゃう!」

「ああ、あの子と同じだ……」


 甘く燃え立つクナの炎に包まれ、クナを抱きしめるたびに、黒髪様の声は湿り気を帯びて、何度も何度も、誰か知らない人の名を口の中で呟いた。音には出さない。だがクナの耳にはしっかりその名が聞こえた。涙とともに呑まれるその名前が。

 それはおそらく、かつてこの島に住んでいて、黒髪様を不死身の魔人にした竜蝶の子の名前にちがいなかった。

 なんてきれいな名前だろうと、クナは思った。

 すめらの国のものとは思えぬ響き。

 音なくその名を呼ばわるたび聞こえてくるのは、殺された嗚咽おえつだった。


(くろかみさま、ないてる……)


 口づけされて、熱を奪われる心地よさに震えながらも。クナの胸はなぜかしくりと痛んだ。   


(その子はいつ、しんだの?) 


 問えばきっと、黒髪様の奥底に押し殺されたものが、どっと湧き上がってくる。

 クナはそう直感した。

 少しでも突いたらせきが切れる。黒髪様は「あの子」の名前を大声で叫ぶだろう。たぶんそうしたくて仕方ないだろうに、黒髪様は必死にこらえていた。

 「あの子」に生き写しとはいえ、クナはその子とは別人だ。同じものではないと分かっている。だから必死に我慢しているのにちがいなかった。


「もうだめ……とけちゃう……あたしとけちゃう」

「大丈夫だ。もう離さぬ、私の――」  


 泣いて訴えたクナは今一度、黒髪様の喉の奥に消え入った名前を聞いた。

 腰が折れそうなほど、きつくきつく、息が止まるほど抱きしめられたクナの胸が、またしくりと痛んだ。



 島に幾日いたのか分からない。何回天照あめてらしさまがこがねの光を落としたのか。何回月女つきめさまがしろがねの光をこぼしたのか。心地よい熱に浮かされるクナには分からなかった。

 だがその間中、クナの胸はしくしく痛んだ。

 ほのかに哀しく。





『――というわけで本日、我らが主、黒髪様の寝室が完全に修理されました。そのむねあめ浮島うきしま水鏡みずかがみに伝信いたしましたが、ご返事がございません……』

  

 脇に置いた鏡からの報告に、狐目の婦人はほうと肩を下げた。鏡の向こうには家司いえのつかさたるアオビがいる。めらめらおろおろ、蒼い鬼火は困り果てたていである。おおかた、正室で巫女団長のレイ姫のことを気にしているのだろう。


『黒髪様が浮島うきしまに行かれて一週間経ちます。ですが、あちらからはなんにもご連絡がございません』

「まさかそないに、竜蝶りゅうちょうの娘に夢中とは。まあうちは再婚で名ばかりのおくやから、別にどうでもよろしいけど」


 狐目の九十九つくもの方は、吐息を混ぜた声を針のごとく鋭くした。


「それより、いまやぴんぴん、完全再生してはる腐れ龍のかせを外したもんは? たれか分かりましたんか?」

『ご指示通り探しておりますが、まだなんとも、特定できておりません』 


 屍龍シーロンは脳が腐っていて、獰猛どうもうで危険極まりない。きよらな巫女だけでなく、生き物を見たらなんでもすぐに食べたがる。ゆえに塔にいる時は、上階にせり出す発着場にてかせつながれ、決して屋内に入れぬようにされている。

 だが、しろがねの娘が龍に襲われた晩、そのかせがわざと外された形跡が発見された。黒髪様はいつも韻律いんりつと呼ばれる呪言じゅごんを用いて、かせの鍵にもう一重、厳重な封印を施している。ところが、その封印が破られていたのである。


『正奥様にもお伝えしました。この塔で韻律の封印を消せるのは、韻律と同じ神霊の技を駆使する、巫女のみ。という事実と合わせまして』

「犯人は、巫女団に属するおなごたちのたれか。団長はんは、おかんむりやろねえ」

『仰る通りでございます』

「巫女団をまとめる団長はんにとっては、身内の不祥事はおのれの失態。面子めんつを潰されるも同然のこと」


 九十九つくもかたは、黒ノ塔に住まう巫女たちの面々を脳裏に思い浮かべた。

 正室である百臘ひゃくろうかた使つかは三人。九十九つくもかたのもとにも三人いる。


「六人の巫女たち。みな、我が君の即室候補や」

 

  百臘ひゃくろうの方と九十九つくもの方は、同じ頃に先帝の後宮に輿入れし、同じ寝殿に住んでいた腐れ縁の仲だ。六人の巫女たちはその御殿で下働きをしていた雑仕女で、二人が黒髪様に輿入れしたとき、一緒についてきた。いずれも二十歳になるかならないかという、年ごろの乙女たちである。


「うちらは使つかたちを妹のようにおもて、いずれは黒髪様の三ノ奥や四ノ奥にするのがよいと思てました。せやから、手塩にかけてあの子らを育ててきましたんや」


 奥向きの女が巫女団を組織するすめらにおいて、花嫁修行とは、巫女修行に他ならない。六人の巫女たちは神霊玉を呑んでおり、巫女団長と副団長の指導のもと、日々修行に励んでいる。すなわち、そこそこの霊力を持っている。 


「そろそろ黒髪様に推薦しよかとおもてた矢先に、我が君に寵愛される娘が現れた。それどころか、団長はんもその娘をめっさ気に入って、嬉々として目をかけてはる。嫉妬されるんは、当然やね」

『引き続き、調査いたします。ところで奥様、松の間の正奥様が、琵琶の音色をご所望でございます」

「あいな。ではさっそく参りまひょ」


 謹慎が解けてから、巫女団長は毎日、九十九つくもの方を呼んでいる。一週間誰にも会えなかった反動だろう。琵琶びわの弾き手は薄重ねの衣をひきずりながら、いそいそと竹の間から出た。


「さて今日は、なんの今様いまようを聴かせやろうか」


 ここが天子様の後宮のようにならねばよいが。

 呪詛が飛び交う魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこするところには、ゆめゆめなってほしくない。

 ゆえに九十九つくもの方は願うのだった。

 アオビの空騒ぎが、これからも空回りし続けるようにと。

 


 



 あめの浮き島の泉の水は清らか。火照ほてった体を冷やすのにちょうどよい。


「こごえるよ」


 クナが行水しようと入った泉に、黒髪様は一緒に入ってきた。触れていないと胸の印が燃えないので、クナの体が凍ると言うのだった。


「そんなにさむくないし、きついです。はなしてください」

「溺れる」

「おぼれないです。ここ、あさいですよね?」

「深いよ。君は泳げないだろ?」

「およげま! ……せん」

「なら、このままでいた方がいい」


 クナはずっと、黒髪様の腕の中。水に漬けられると、泉に流れる甘露がもったいないと、黒髪様は真面目な声で言ってきた。

 甘露は竜蝶りゅうちょうの魔人にとって、命の水に値するもの。一滴受ければ何年分もの活力となるが、目の前にあればあるだけ、欲しいと思うものらしい。

 おかげでクナはずいぶん貪られた。口づけで唾液を吸われたし、涙も吸われた。

 でもまだ成人の歳になっていないからと言われて、本当の妻になるようなことはされなかった。


「あの、いつ、とうにもどるんですか?」

「あの塔は住処すみかに適さない。できればここにまた住みたいな」


 島には平屋の石造りの建物が一軒ある。クナを抱えて放さない黒髪様は、屋内を丹念に確かめた。

 部屋数は多く、一本通る廊下の両翼にずらりと並んでいた。柔らかなしとねがある部屋。居間らしき部屋、厨房らしき部屋……。かなり古いようだったが、そこにはいまだ、ほのかに生活臭が残っていた。黒髪様は時折、うっすら埃をかぶる調度品や生活用品を懐かしげに撫でていた。


(ここで、「あのこ」といっしょにくらしてたのね)


 地下にもたくさん部屋があった。えたいのしれない箱が並ぶ部屋。がらくたのごとき物品があふれかえっている部屋。


「昔ここは兵器工場で、兵士の目にはめる人造義眼があったんだが……」


 黒髪様はクナを片手で抱いたまま、地下室をほっくりかえした。片手でいとも簡単に重そうなものをほいほい。あれよあれよと廊下へ投げ出した。がしゃがしゃ鳴る音からして、金属でできているものが多かった。

 魔人の腕力は、人間離れしている。一騎当千は龍の力でと思っていたが、黒髪様の腕力もすごい。敵兵をたやすく薙ぎ払いそうだ。


「残念ながら義眼はないね。あればめてあげられたのに」


 でも義眼をはめると、瞳の色がすみれ色ではなくなる。だから今のままでよい――

 部屋の中の物があらかた出されたあと、黒髪様はそう結論を下した。

 目の色が変わったら、「あの子」ではなくなる。

 そう言われた気がして、幼子のように抱かれるクナは、唇を噛んだ。


「ふくれっつらだな。期待させて悪かった」


 そんな理由でしくしく胸が痛むのではない。なぜ痛いのか、よく分からないけれど。義眼が見つからなかったせいではない……

 かつかつ靴音をたてて地上階へ戻る黒髪様は、ぽそりと囁いた。

  

「ここにずっといたいのはやまやまだが。本願を叶えなければ」

「ほんがん?」

「あの子を殺した奴を倒す。くれないの髪燃ゆるレヴテルニを――」


 憎悪が込もるその声音にクナはびくりとした。許すまじきと心に誓った仇敵の名は、先の戦いで戦った国の帝ではなかっただろうか。


「昔……天から災厄が降ってきて、海が干上がり大陸中が焼けた。レヴテルニはあの子に無理矢理、災厄を止めさせた……そうする必要はなかったのに、あいつが無理強いしたせいで、あの子は死んだ。星はなんとか割れずにすんだが、私の心は砕け散った。だから必ず復讐してやる。レヴテルニの血をあの子に捧げる。そのために私はすめらの将となった。公然と、神帝を殺せる者になるために」


(なんてくらいこえ)


 黒髪様はクナの手にほとりと何かを落とした。歌う衣のたもとから出されたものは、とたんにふるふる震え出し、クナの手をじんじん揺らした。

 

「涙糸だ。あの子の涙を吸ったものだよ。この糸は真っ赤なんだ。なぜならあの子の涙は赤かったからね。いつもこの真紅の糸に誓っている。いつか仇を討つと」


(しんく? あかと、にたようないろ? かまどのほのおより、あつい?)

 

 それは糸巻きに巻かれた細い糸。ふおんふおんと、音の波紋をかすかに広げながら震動していた。

 耳に当てるとかすかにささやきが聞こえた。ひそやかで、今にも割れそうなギヤマンのような声が。

 クナはそのささやきに息を呑んだ。


 あいしてる

 あいしてる

 あいしてる……


 糸巻きから、はっきりそう聞こえた。歌う糸を慌ててつっ返そうとしたら。糸巻きを持つ手は、冷気放つ人の手ですっぽり包み込まれた。


『あいしてる……』


 刹那、糸巻きからはっきり声が聞こえた。不思議な糸は震えながら、りんりんと歌った――

 

『あなたが、幸せになりますように』

 

 それは祈りの歌であり。


『無敵の守りがありますように』


 愛を語る歌であった。



『この涙が、あなたを癒しますように』

 


 肌身離さず身に持っているのだろうその糸巻きを、柱国さまはクナの手ごと、強く握りしめてきた。

 震えるクナの目尻が、じわと湿った。

 どうしてだろう。またしくしく、胸が痛む……


「これはあの子が白綿蟲しらわたむしの糸で紡いだんだ。あの子の赤い涙には本当に、癒しの力がある。触れるだけでたちまち、傷が癒える。だから人々はあの子のことを、白の癒やし手と呼んでいた」


 糸にこめられた歌声は止まらない。えんえん歌い続けている。


 あいしてる

 あいしてる

 あいしてる……

 

「きれいな声だろう? 君の声と似ている」


(うそ。ぜんぜんにてないわ。あたしのこえ、こんなにかわいくない)


 歌ってごらんといわれたが。クナはそんな気分になれなかった。

 躊躇ちゅうちょするクナにもうひと声かけようとした黒髪様は、ひたと言葉を止めた。短く唸って、しゃらんと鳴る袂からもうひとつ、何かをとりだす。手のひらに載せたのか、それは糸巻き同様かすかにふるるると、細やかな振動音を立てていた。


「天子様から下された小鏡だ。国姓をたまわって以来、あの方は直接これで話してくる」


 黒髪様は渋々、鏡に返事した。ほどなくそこから聞こえてきたのは――まだうら若そうな男の声だった。


――『三寶サンパオ。会えるか?』


 これが玉音? 輝ける天孫、天照らしさまの御子と崇められる方の声?

 ずいぶん曇った音だと、クナは眉をひそめた。

 声が途切れると、黒髪様は重苦しいため息をついた。


「呼び出された。先日お会いしたばかりだというのに。何の用であろうな」


 衣擦れの音がすんと落ち込む。がっくり肩を落としたようだ。

 

「安普請なのが心配だが、君をまた黒ノ塔に置いて、巫女団に守らせる。今度はシーロンに乗っていくから、危険はないだろう」

 

 黒髪様は、直接陛下に呼ばれるほどの方。それほどの地位にあるのなら……。


「君は、天子様のもとにいる竜蝶りゅうちょうを助けたいのだろうな」

 

 ありがたいことに相手はクナの貌を読んでくれた。一も二もなくぶんぶん頭を振ってうなずけば、くすりと苦笑された。


「いつもそうだ。君は他人の心配ばかりする……まあ、陛下が手に入れた竜蝶の様子を見てきてやろう」

「あ、ありがとうございます。おねがいします!」


 いつもそう? 他人の心配ばかり?

「あの子」もそうだったと言いたかったのだろうか。

 黒髪様は渋々、鉄の竜ロンティエに乗り込んだ。歌う衣でくるりとくるんだクナを腕に抱きながら。クナは反射的に、冷気放つ胸にひたと頬をつけた。

 たちまち熱を帯びる頬は心地よく溶けていき、しゅうと炎が消えゆく音がした。

 

(かわり。みがわり) 

 

 はじめは巫女姫の代わり。そして今は――。


(あたしは「あのこ」じゃない。「あのこ」のかわり……)


 竜蝶の「あの子」はクナに瓜二つ。だからいきなり妻にされたのか。一緒の部屋にされたのも。同じ長持ちを並べられたのも。「あの子」に似ている子だからか。

 似ているということは、その子はクナと血のつながりのある者なのかもしれない。もしかして父や母とつながりのある者? それとも……


(それとも、なに?)


 何にしても変わらぬだろう。

 柱国さまがまなざし熱く見つめているのは。

 きつく抱きしめているのは。

 切に求めているのは――。


(あたしじゃない)


「大丈夫。すぐに戻るよ」


 頭を優しく撫でられるクナの胸は、またしくりしくりと静かな悲鳴をあげた。


(ちゅうこくさまがすきなこは、あたしじゃない……)



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