第十八話 天の浮島
黒髪様は歌う衣にくるんだクナと共に、はがね臭くて固そうな乗り物に乗りこんだ。
「
鉄の
翼持つものは上へ上へ、一気に舞い昇っていった。ひたすら、天へ。
吹き渡る風は凍える
上昇する鉄の
「北より南下してきた白鳥だ。シーロンだったら追いかけっこができたのにな。鉄の
黒髪様は出がけに、舞台の隅で呻いているものに向かって、起きて飛ぶよう声をかけた。
『オキレネエ。足ガネエ。手モネエ。翼モネエ……』
しかし
『使えぬ。いつおまえに乗れるのだ?』
『オマエガヤッタンダロウガァ……!』
恨みの声は
『腐れ魔人メ! 手カゲンシロ畜生!』
手足を潰すとはずいぶんきつい罰だと、クナは龍に少し同情したけれど。黒髪様は、あれはすでに死んでいるから大丈夫だと、くすくす笑った。
「あいつはかつて龍だったものの成れの果て。
「シーロンは死なない
黒髪様の体は不死身? たちまちクナは疑念に囚われた。
体が老いないのは、かつて
ザッと蒼ざめたクナとは裏腹に、美声の人はしごく上機嫌だった。
白鳥の群れを見送ったあと、クナたちはひゅんひゅんりんりん不思議な音をたてる物に遭遇した。そのとたん黒髪様は嬉しげに声をあげた。
「
耳を澄ましたクナは息を呑んだ。りんりんひゅんひゅん、音のうねりが凄まじい。何百何千どころではなさそうな数が群れている気配だ。
「みんな、歌ってる?」
「羽をこすり合わせている。そして頭は発光している。大きさは、赤子の手ぐらいかな。数えきれぬほどいて、星の海のようだよ」
夜空にまたたく
「明けの明星、龍の涙、女王陛下の首飾り」
とたんに、黒髪様はうれしげにささやいた。
「ああ、輝く星が君の手に止まった……!」
蟲の群れを抜けると、鉄の竜はほどなくどずん。しっかりとした固い所に降り立った。
いつのまにはるかなる大地へ下りたのかと、クナは首をかしげた。鉄の
黒髪様の腕から解かれたクナは、疑惑の衣を震える手で引っかぶりながらしゃがみ、手探りで地面の感触を確かめた。
鼻をくすぐるのは、ほんのり青草の匂い。手に触れるのは、とても細かく柔らかい草だ。触れた手を優しく受け止めてくる。
「ずいぶん高度が下がっている。氷雲の中に入っているようだ」
「くものなかに?」
ぽつりと冷たい粒が頬に落ちた。冷気帯びるそれは、あたりにぱらぱら降ってきた。雪にしては固く、みるまにばらばらと勢いを増してくる。
ひゃっと身を縮めるクナの頭を、冷たい手が撫でてきた。
「雷雲でなくてよかった。黒焦げになるのは嫌だからな」
しかし
退いたところには木立があるようだ。ざわりと揺れる枝葉の傘のおかげで、氷の粒がまばらになる。
ざわわ。ざわわ。木々のざわめきがそこかしこから聞こえてくる。
「いい匂い。あ、これって……」
鼻を襲う甘酸っぱい芳香。あの果物の匂いだ。思わずたくさん食べてしまった、あの――
「雲の上に昇りはじめた」
「天河に近づいている」
「ちかづいてる? ここはすごくたかい、おやまのてっぺんとかじゃないの?」
「ここは島だよ、田舎娘。雲の上に浮かんでいる」
クナはぐいと腕を引っ張られ、抱き寄せられた。その耳もとで「夫」を名乗る人はささやいた。声に甘さを忍ばせて。
「
「照る天に寿ぎ 天河の水道昇る舟……」
一字一字丁寧に、口の中でぶつぶつ言葉を紡ぎながら。
『――というわけで、シーロンはまだ声が十分に出ません。黒髪様のお戻りは、明朝かと思われます』
かたわらの大鏡から、蒼い鬼火がおそるおそる告げてくる。紙にしたためる手を止めることなく、松の間の主人たるレイ姫はふんと鼻を鳴らした。
「なんという声じゃ。もっとしゃんとした声音で報告しやれ」
『は、はい。ですがその』
「しつけのなっておらぬしろがねが、我が君の
ため息まじりにぼやけば、鏡の声はとんでもございませんと短い悲鳴をあげた。なにをそんなにおののきやるかと、巫女団長たる御方はあきれ返り、
「ふん。またぞろ、わらわが嫉妬しているだのなんだの、思っておるのであろ」
何回複製されようとも、蒼い鬼火の思考は一代目と変わらない。
すなわちアオビは、すめらの後宮で起きたあらゆることを知っている。
「後宮とは
レイ姫が
その御殿には、寵が薄くて、御殿をそっくりひとつ与えられるほどの品位ではない夫人たちが十人、つめこまれていた。アオビは毎日、十人の夫人たちの機嫌をとるのに四苦八苦。かなり神経をすりへらしたことだろう。
レイ姫と共に黒ノ塔に来てからも、ここは後宮と同じだと思いこんでいるようで、相変わらず勝手に恐れおののき、やきもきしている。
レイ姫は暇さえあれば、
「まったく。わらわは、再婚の再婚じゃというのに」
レイ姫の口から漏れ出る白い吐息が、目下の紙に降りかかる。
黒髪様は実にお優しいと、黒の薄様の衣をはおる姫は、胸中いつも感謝する。
アオビを引き連れてこの塔へ輿入れしたとき、レイ姫は夫となる方にきっぱり申し上げたのだ。
『わらわは、黒髪様の巫女団長となりました。すなわちお家を守る務めは精一杯果たしまする。なれど、
気に入らねばどこへなりと、おやりください。今上の天子様のように。
平伏して黒い
『なるほど。そなたも、誰かを
「天河にたどり着きし舟より
格子窓から入る冷たい夜風が、墨を乾かす。凍えそうだがしかし、黒き
祈りの言葉が窓を抜け、天河へ昇っていくようにしなければならない。
銀星流れる天の河には、死者の魂がたゆたっているからだ。
レイ姫の心にあるのは唯一人。
きらびやかなおくり名で讃えられ、天河に昇りしその人こそは、先代の天子様。
かつて一度、寵が薄い夫人たちが住まう御殿にお渡りになった。
暮れる秋風が吹く季節。ちらと雪がちらつき、物寂しく庭園が枯れていた夜だった。
歌詠みで気を引こうにも、歌にできるものはなく。困り果てて侍る夫人たちの中で、
「ほほほほ。
レイ姫の神霊力は、純潔の巫女には及ばない。実を言えば
「今の天子は父殺し。そんなものには仕えられぬ。たあさまにべったりの若造なぞ、
先代の天子の葬祭が行われたあと、後宮に住まう夫人たちは整理された。
若くて美しい数人が、若き天子の寵愛を受けるべく残された。そうではない数百人は、めぼしい神官族に下されるか、
レイ姫はできれば
皇太后が直々に名指しして、寵愛が濃かった順に生け贄を決めたからだった。
『あらまあ、我が夫と一緒に眠りたいというの? いいえ、命を大事になさい、
「皇太后はかつて寵を競った相手をことごとく、殉死させた。わらわは、あの残酷なおなごの歯牙にもかけられなかった。なんともちんけな存在よ。それでも……」
これからも決して、黒い喪衣を脱ぐものか。喪意の証として髪を黒く染めるのもやめるものか。
レイ姫は窓を見上げて誓った。
「どうか
「ああ、星がこぼれ落ちそうだ。
黒髪様がしみじみ仰った。その澄んだ声に、ほんのり
この地は島だというが、およそ浮いているとは思えない。だが竜は一度も下がらなかったから、本当に空の中にあるのだろう。
「この島ははるか昔、大陸がたったひとつの国だったころ浮かべられた。統一王国が広い大陸を見渡して
ざわめく木立の向こうから聞こえてくるのは、さわさわ滝が落ちる音。ずいぶん遠くから聞こえてくる。
「うちのむらより、ひろいかも」
黒髪様はそばの木から、芳香放つものをぽきりともいだ。鼻先にさしだされたそれは、なんとも
「りんご?」
「黄金の林檎だ。南王国の聖地から株分けされたものだが、母株があった聖地は滅んでしまった。ここが大陸で唯一、実っているところだろうね」
きんきんこがね。おうごんのいろ。それは
ここにしかないということは、塔で食べたものもここから獲ってきたもの?
りんごを受け取ったクナは、いやだめだと食べるのをこらえた。
おいしい餌でごまかされるものか。
しゃんしゃん鳴る外套にくるまれている娘は、震えながら問うた。
「このころも。ほんとは、りゅうちょうのいとでおられてるんじゃ?」
「いや。私の衣は
「でもりゅうちょうは、くだものをあたえてそだてるって……」
唇を噛むクナの頭に、冷気を帯びた手が降りてきた。
「確かに、
クナは湿った吐息をもらした。胸の内の恐れが震え声になって出てきた。
「かぞくが、つかまるかも……」
「ああ、月のトウイが天子様に差し上げたのは、君の親族かな?」
「ええっ?!」
どうやらクナの懸念は現実となったようだった。
褒美を拝領しに帝都へ赴いた黒髪さまは、天子がおわす
「天子様のそばに侍っていたよ。天子様は大変ご満悦で、月神殿を褒めそやしていたな」
黒髪様はみるみる蒼ざめるクナに腕を回して、抱き寄せた。
「まだ若い娘だった。君よりも小さい。十かそこらだが、伽をさせるのに飽きたら、成長促進の薬を与えて
妹のシガの笑い声が、クナの耳の奥からよみがえってきた。
村にいた十歳前後の子は、シガのほかに五、六人。村は、月神殿の者に
「私が君を陛下に差し出したり、君の親族を探してさらに
「た、たすけないと。きっとそれ、あたしのかぞくか、むらのもんです!」
クナは思わず相手の胸を掴んですがった。だが、澄んだ声は望む言葉を発してはくれなかった。
「
「そんな……!」
うろたえるクナは相手の言葉にとまどった。
黒髪様は、クナから糸をとらない? 守ってくれる?
すめらの天子や神殿の慣習に反してそう思うのは、なぜ?
知り合って間もないのに。ろくに話も交わしていないのに。
「どうしてあたしをまもってくれるの? やっぱりあたしのかんろのせい?」
ひゅおうと、天の島に冷たい風が吹いた。
永遠にも思われるような静寂がしばし流れる。見つめてきているのであろう、沈黙のまなざしが深々とクナを
「ここは本当に、
ようやくのこと黒髪様がしみじみつぶやいた、その直後。
美声を紡ぐ彼の口から、ふっと歌が漏れ出した。
『ひと目見ればその子と分かりぬ。
その子がそうだと魂が気づく』
とたん、りんごを抱くクナは驚いて固まった。
『心をば焦がす恋の炎 その身をば焦がす聖なる炎』
このうた。ああ、このうたは。
歌詞は違う。だがこの歌はまごうことなく。
「か、かあさん……かあさんのうた……!」
忘れもしない。母がしろがねを見せてくれた月夜の晩。糸が震えて見えないものが見えたとき。母はこの歌を歌った。まちがいなく、この歌を。
「うそ……! どうしておなじなの?」
クナをくるむ衣が震えた。歌声に合わせてしゃんしゃん鳴りだしたと思ったら、不思議な気配が降りてきて、周りのものがよく見えるようになった。
とまどうクナの周囲にある木々は、
それはたわわに実っている果実。きらきらという音が本当に聞こえてくる。こがねいろの音がはっきり見えた。
「昔。ここにしろがねの髪の子が住んでいた。美しい、純血の
黒髪様は澄んだ声で、驚きおびえるクナに静かに告げた。
「純血の
冷気を帯びた手が、びくりとわななくクナの頬に降りた。
「ここに住んでいた
手の冷たさにクナは身震いした。その手は何かを確かめるかのようにゆっくりゆっくり首筋に降り。そして――
「今はもういないあの子が、私を不死の魔人にしたんだ」
はらりと、歌う衣が引き落とされた。低く
「君に瓜二つの、あの子が」
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