第十七話 隠れし者の里

 扉が破壊され、いたるところ粘液だらけの部屋はひどい匂いに包まれてしまった。

 鏡を抱えて青ざめるクナは、ほどなく鬼火に先導され、ひとつ下の階にある部屋へと案内された。

 ひどくしなびた匂いのするところで、普段あまり使われていないようだ。扉は上の部屋より薄いらしく、廊下を行き交う鬼火たちの燃焼音がよく聞こえてくる。


「ただちに黒髪様の寝室を修理いたします。それまでしばし、ここをお使いください。それと、シーロンの粘液は洗いおとしても匂いが残ります。どうか薬湯にお浸かりくださいますよう」


 鬼火たちは続きの湯殿にある湯舟に薬草袋を入れ、湯をはってくれた。

 なんと湯を運んでくるのではなく、金属の管から直接じゃばじゃばお湯が出てくるので、クナは驚いた。

 実のところ、クナは今まであまり、熱い湯にゆったり漬かったことがない。

 家には薪で焚く風呂釜があったが、クナが木桶の風呂に入るのは一番最後。ほぼ毎晩、湯は抜かれてしまっていた。姉のシズリの仕業である。もう風呂桶は掃除したからと姉に冷たく言われ、ささっと冷たい水で行水して済ますのが常だった。

 身についた習慣とはおそろしいものだ。「梅の間」には広いご不浄の間の奥に立派な湯殿があったが、クナは使うのを遠慮していた。湯をはったたらいをもらってカラスの行水をしていたのである。

 暖かい湯気が頬を撫でてくる。丹念に体を洗い、鬼火たちに感謝しつつ、湯舟に手をかけると。


「あたし……」


 クナの目から、涙がほろほろ落ちてきた。拭っても拭っても止まらない……

 

「あたし……おとなになれないの?」

「ど、どうなさいました?」


 たじろぐ鬼火にクナは、鼻をすすりあげながら聞いた。


「あたしいずれ、だれかにうられるんですよね?」





 クナの頭に渦巻くのは、ついさきほど、鏡に聞いたことだった。


『りゅうちょうってなんですか?』


 鏡の向こうにいるものは、即座に答えてくれた。まるで何かの巻物を読み上げるように。

 

竜蝶りゅうちょうとは、大陸同盟によって絶滅危惧種ぜつめつきぐしゅに指定されている種族です。五塩基で構成される生物で、この星の原種ではなく、紫の四の星より来た種族と言われております。

 純血の固体はよわい一千年。混血でも百の齢を越える寿命を持ちます。

 純血種は六十歳前後、混血は三十歳前後で繭を作り、その中でさなぎとなり、羽化して、交尾可能な成体となります』


 それは、聞くだにおそろしい「事実」だった。

 

『純血種はしろがねの髪に紫紺しこんの瞳の個体となることが多いです。血が混じると頭髪に色素が入り、瞳の虹彩こうさいが薄まります。とび色系の髪、すみれ色の瞳になるものが多いようです。

 龍蝶の血液は甘く、一般に甘露かんろと呼ばれます。これは青の三の星より来た四塩基の種族にとっては、不老長寿の薬となると信じられております。しかも甘露かんろは大変に強力な、魅了の効力を持ちあわせております。

 大昔の乱獲が原因で、すめらの国では希少な生き物となっていまして、庶民にとっては伝説の生き物といっても過言ではありません。

 すめらの国では現在、捕獲されました龍蝶りゅうちょうはすべからく帝室か帝都神殿に献上され、天子様か大神官様、もしくは巫女王ふのひめみこ様のご所有物となります』


「あたしいずれは、へいかとか、ひめみこさまのところに、うられるんですよね?」 


 クナにかれた鬼火たちは、びくりとして動きを止めた。


「ま、まだそのような思し召しはいただいておりません。ただ、黒髪様とご一緒の部屋に住まわせるように、とだけうけたまわっております」


 鬼火たちはそう答えて、逃げるように湯殿から出ていった……


龍蝶りゅうちょうは、まゆを作るまで飼育されます。餌は高価なもの、とくに果物が与えられます。

 まゆは手足から出されます。周囲に支えが必要となりますので、手足に斑点はんてんが出始めましたら、羽化部屋に隔離してまゆを作らせます。

 ひと月ほどで羽化いたしますが、飼育されている場合はまゆができましたらただちに糸を取ります。不老の霊験あらたかな白き絹糸を、すべて巻き取ります。その絹糸から、天子様の礼衣や、大神官や巫女王ふのみこひめ聖衣せいいが織られます』


 竜蝶りゅうちょうは飼うもの。

 黒髪様が自分を妻にするなど、真っ赤な嘘にちがいないと、クナは思った。

 黒髪様は単に、夫婦ごっこをして遊んでいるのだろう。

 だから男女の関係を深める手順など、一切踏んでこなかったのだろう。

 クナの頭の中でぐるぐる、鏡の言葉が渦巻いた。

 たずねた者が竜蝶りゅうちょうであることを全くおもんばからない、淡々と語られた「事実」が、どろどろとうねった。


『糸をとられたさなぎはすりつぶされて、不老長寿の生薬しょうやくになります。代々、天子様のご寿命が百を越えるご長寿で、すめらの王朝が万年も続いておりますのは、まことこの神秘の益獣えきじゅうを飼育して、利用しているためだと言われております――』





 なぜに百臘ひゃくろう上臘じょうろうさまが、月の巫女姫よりもクナの方が価値が高いと仰ったのか。

 クナはようやく合点がいった。

 霊力あらたかなまゆ糸。人の寿命を長くする血。たしかに信じられぬほど、たいそうなものだ。


「りゅうちょうのちは、あまいって……みんなそうじゃないの? なみだがあまいのは、りゅうちょうだけなの?」


『涙が甘いのは反則だよ』


 黒髪様のささやきが耳の奥をくすぐってくる。なんだか胸がぎゅうと痛い。

 湯舟から上がったクナは、部屋に運び込まれた二つの長持ちを手で探った。

 

「おそろいのはこ。ふうふ」

 

 なぜいきなりこんな扱いをされたのか。

 それはたぶん――

 

「あたしの、かんろのせい? ちゅうこくさまは、あたしのたいえきにまどわされた?」


 きっとそうなのだろうと確信しながら、クナは右の箱の蓋を開け、中から衣を一枚引っ張り出した。腕を通すと目眩めまいがした。湯に漬かりすぎたのだろうか。ぼすりと寝台に身を投げて手を伸ばし、鏡のそばに置いていた母の形見を、きつく握りしめる。

 鏡がいったことが真実なら、母の形見は、龍蝶りゅうちょうまゆ糸から織られたのにちがいない。

 母さんが後生大事にそれをもっていたということは……


『蛹はすりつぶされ、不老長寿の生薬とされます』


 ぞくりと、背に冷たいものが走る。

 母は昔、帝都月神殿で飼育されていたのかもしれない。

 そこで生きている間に、白衣しろきころもを織るために使われた糸を出して殺された人と、なにか関係があったのかもしれない。

 血の繋がった肉親か。それと同じぐらい、大事な人だったのか。 

 母は「形見」として、白衣しろきころもを得たのかもしれない。

 


「かあさんは、しんでんからにげた? つきのふのひめみこさまから、ころもをぬすんで、にげた?」


 母はいつ山奥の村に来たのだろう? 

 聖衣の擦り切れ具合からすると、ずいぶん経っている気がする。

 母はあの村で生まれ育ったとクナは思っていた。

 兄もシズリもシガも弟も、みなちゃんと、母の子だ。墨汁色の髪に栗皮の肌。母はクナだけでなく家族みんなに、「すめらの良民たる色合いを持っている」と言っていた。

 だがクナの髪はしろがね色だ。おそらく、髪を洗うときに使っていた灰汁あくで、黒く染まっていたのだろう。


「しろいのはあたしだけ? それとも、かぞくみんな、ほんとはあたしとおなじ、しろがねのかみなの? シズリねえさんもシガも、同じ灰汁あくを使って髪を洗ってたけど。みんな、黒く染めてたってこと?」


 甘い涙は魅了の力がある。鏡はそう言っていたけれど、家族も村のもんもみんなクナには冷たかった。ゆえにおのれが本当に竜蝶りゅうちょうかどうか一瞬疑ったクナは、鏡に訊いてみた。


「もしかしてかんろって、りゅうちょうどうしでは、こうかがないですか? ゆうわくされないとか?」

「詳しい調査結果はありません。しかし同族には耐性があると、もっぱら言われております」


 即座に返ってきた返事に、クナはうろたえた。


「ということは、うちのかぞくも、むらのもんも、みんなりゅうちょうなの? うちのむらって、もしかして……」

 

 村は竜蝶りゅうちょうの隠れ里? 

 母はかなり昔に、そこへ逃げ込んだ人なのだろうか。

 村では病で死ぬ者が結構いるが、百を越えている老人は……


(デンさん、カンさん、ミッさん。オンさんにヨンさん。い、いっぱいいる) 


 指折り数えれば両の手の指に収まらない。かなりいる。しかし繭を作って羽化するという話は、この世に生まれて十四年、家でも村でも一度も聞いたことがない。

 冠婚葬祭、村の大事な行事のもろもろは三色の神殿が取り仕切っているが、酒を飲んでいいと神官さまに言われるのは――

 

(あ。さんじゅっさいになってからだ)


 結婚相手を探す夏の夜祭りに出られるのも――


(さ、さんじゅうにならんとだめって、いわれたっけ)

 

 鏡曰く、三十はたしか、竜蝶の混血がまゆを作る年齢ではないか。

 その齢になる前後に、村の若いもんたちは成人の儀を受ける。太陽神殿の地下におこもりをするのだが、期間はひと月ぐらいだ。その間は決してだれにも会えない。とても神聖な儀式とされ、おこもりしている間のことは、決して口にしてはならんといわれている。


(ま、まさか、しんでんのちかは、まゆになるためのへや?!)


 兄は五年前に、嫁に行くといっていたシズリは去年の夏、太陽神殿にこもった。


『おこもりが終わったから、これで子どもを生めるわ』


 兄やシズリが儀式から帰って来た日は、どんちゃん騒ぎ。飲め飲めと兄や姉は父に酒をすすめられ、餅や菓子を食べ放題。シガがおこもりとはどんなだったか知りたくてシズリにまとわりついたけれど、姉は口を閉ざして教えなかった。言えば神罰が下ると、神官さまに脅されたそうだ。

 村はふもとの街と交流があり、外と完全に隔絶されてはいない。ゆえに村のもんが他の人たちと違うことを知られないよう、おこもりを口外しないしきたりができたのかもしれない。

 鏡曰く、竜蝶りゅうちょうを知らない庶民がたくさんいるそうだが、あの村で生まれ育ったクナもそうだった。何も知らずにいた。ということは、たぶん父や村のもんもきっと……


「りゅうちょうなんてよびな、みんなきっとしらないわ」


 自分たちには、特別な「価値」がある。もし父がそのことを知っていたのなら、相手の素性も調べず、まったく警戒なしにクナを売るはずがない。


「むらににげてきたかあさんは、いわなかったの? りゅうちょうはおそろしいことをされるって。もしかして、いっても、しんじてもらえなかったのかしら」

 

 父が竜蝶りゅうちょうの価値を知らないのは確実だ。おそらく村のもんもみんな、ただただ、神殿の教え通りに良き民たらんと髪を黒くして、大人の儀式を秘密にしてきただけ。普通の人と違うなどとはたぶん、だれも思っていないだろう。

 そんな楽園のごとき環境にいる村人たちをみて、母はこのまま、何も教えない方がよいと思ったのかもしれない。


 クナは大きく息を吐いた。

 竜蝶りゅうちょうを知らない庶民に、売られればよかったのだが、クナを買ったのは帝都月神殿だ。村が本当に竜蝶りゅうちょうの隠れ邑なのだとしたら、父はとても危険な相手に娘を売ってしまったということだ。

 身代わりの役が果たせねば、家族に災禍がふりかかる。そう心配していたけれど、それどころではない。クナの推測が正しければ、月神殿は竜蝶を狩り放題だ。

 ああどうか、シズリやシガが無事でありますように。

 お守り袋をにぎりしめるクナは寝台から降り、手を合わせてぶつぶつ、一所懸命祈りだした。

 どんなに考えても、今できることはこれしかない。

 腹はくちている。だから神霊の力が、いくばくかでも出るはずだ。


『餌には高価なもの、とくに果物が与えられます』


(ああ……)


 鏡の言葉が胸を刺してくる。


(りんご。くろかみさまがあのくだものをくださったのは、そういうことなのね。あたしのかんろにやられながらも、それにあらがって、だれかにうるまで、ちゃんとかんりしようっておもってらっしゃるんだわ)


 三十になるまであと十五年ほど。黒髪様のもとでも、そして売られた先でも、これからいやというほど、果物を食べさせられるのだろう。

 クナは必死に祈ることで、胸の痛みを押し隠した。

 黒髪様の優しさは、嘘なのだ。

 そう感じる心から、どっとあふれてくる哀しみを包み込んだ。悲しくて、泣いてしまわないように。


 


 それからどのくらい時が経ったのか。

 天井が一瞬ひどく揺れたのを感じて、クナはハッと耳をそばだてた。

 いつの間にか祈り疲れて、寝台につっぷしてしまっていたようだ。床にひざをつき、寝台に上半身を投げているわが身を起こすと。


「空に輝く三つの宝石」

 

 背後からしゃんしゃんと、きれいな歌声が聞こえたような気がした。

 

「輝きの明星、竜の涙、真珠のしずく

 石をとりあう妖精たち」


 それは気のせいではなかった。 


「心臓こがすまっかなサソリ

 まなこ鋭き天空の鷹」


 澄んだ歌声はとても上機嫌。かつかつ小気味よい靴音を立て、クナの背後に寄ってくる。黒髪様がお帰りになったのだと気づいたとたん。クナの腰に腕が回され、あっという間に体が宙に浮いた。


「おはよう。なぜここにいるか鬼火どもに聞いたが、あきれたものだ」


 声をあげる間もなく、どさり。クナは寝台に落とされた。あたりに異様な空気が漂っている。頬を刺してくるのは、冬空から降りてくるような、きんとした冷気。美声の人の周囲に、こごえるような波動がたゆたっている。

 息を呑むクナはそろろと寝台のはじに後退した。なれど、簡単に一枚だけはおっていた衣はいとも簡単にするり。すっかりはがされた。


「私の寝室は修理中だった」

「し、シーロンさんが……」

「本人から聞いた。網の中で動けぬというのに自慢しくさるから、仕置きに四肢を吹き飛ばしてやった。まあ、三日もあれば再生するだろうが」

「きゃあっ!?」


 ひたひた、肩から胸へ。確かめるように触れてくる手に、クナは悲鳴をあげた。

 なんという冷たさか。氷の塊のようで、一瞬それが手だとはわからなかった。まるで研ぎ澄ました刃のようだ。クナの反応に黒髪様はくすくす笑っている。

 

「胸に橙煌石とうおうせきをはめこんだ。天子様よりいただいたよ。君が月の女を助けてくれと言うから、言う通りにした。これで君を抱ける」


 細い指が、つうと腹へ撫で降ろされる。胸の印がたちまち燃え出し、体が熱を帯びてきた。だが炎は煌々こうこうと冷気帯びる手をじゅわりと溶かし、たちまち互いの肌を人肌のぬくもりに落ち着けた。


「いい感じだ。ちゃんと中和している」

「いやっ!」


 クナは黒髪様の手をどけようとしたが、冷気帯びる手は微動だにしなかった。


「あの馬鹿龍は君のみさおを奪ったと自慢したが。まっかな嘘だろうね」


 こくこくうなずくクナは身震いした。熱を吸収する冷たい手は聖印の炎でしゅうしゅう溶けている。焼けてはいないようだが、本当に大丈夫なのだろうか。


「よかった。純潔な子の甘露を得られるとは嬉しいかぎりだ」


 甘露。

 その言葉を聞いた瞬間。クナは顔を歪め、腹に触れている冷たい手をつかみ、ぎりりと爪を立てた。


「いや! はなして! あたしをおくさんにしたいのは、あたしのかんろにあてられたからでしょ?!」

「いやそれは――」

「ほんとは、あたしをうりものにするつもりでいるのに!」

「なんだって?」

「う、うるんでしょ!? あたしを、えらいどなたかに! てんしさまとか、ひめみこさまとか!」

「ああ……なるほど」

「ひああっ!」


 煌々と冷気を帯びた手が、クナの腹を優しく撫で上げて胸に達した。しゅうしゅう音を立て、氷のような手が焼ける。蒸気が出ているようだ。

 ひっくひっくとクナはしゃくりあげた。祈っていたときは我慢できたのに、今はどうにもならなくて、ぼろぼろ涙が出た。


「どこかにやられるかもしれないと、おびえているのか」


 こわいのではない。遊ばれることが嫌なのだと、歯を食いしばって言おうとしたとき。

 ふわりと、体が浮いた。抱き上げられたのだと気づいた瞬間、唇に何かが押し当てられた。しっとりとして冷たいもの。それはたちまち熱を帯びたがすぐに離れた。水晶を打ち鳴らすようなささやきが、そこから漏れてきた。

 

「君を妻にしたのは、甘露に惑わされたせいではない」

「でもかんろをえられるのはうれしいって! やだ! いやよ、いや! おろして!」

「信じてくれないのか」


 澄んだ声が少し低くなる。ほんのり怒りの色が入ったように。

 しゃららと衣が鳴る。鏡が教えてくれた夜星よるぼしの衣だ。

 クナは星のささやきを放つ布に包まれた。黒髪様がまとっていた外套にふわりと、くるまれたのだった。

 強く速い足音とともに、クナは樟脳しょうのうくさい部屋から連れ出された。 

 放せとどんどん胸を叩き足をばたつかせても、黒髪様はものともしない。クナが暴れるたび、しゃららしゃららと衣が歌う。


「おいで田舎娘。飛ぼう」


 その衣の不思議な伴奏に乗せて、黒髪様は歌うようにささやいた。

 

「星降る天で初夜をすごそう。我が妻よ」  

 

  

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