第十五話 綿蟲(わたむし)の衣
黒き大樹そびえる森の中。
月が死んだ漆黒の夜。
ごおうごうと樹の一本が唸りをあげる。
なれどそれは、まことの大木にあらず。
宵の気を吸い込むそれこそは、漆黒に塗られた天突く塔。
万年杉にまぎれ建ち、せり出す樹肉の舞台には――
「イイイイイイイダアアアアアアイイイイイイイイイ!!」
どろどろはりつく、巨大な肉の塊があった。
「信ジランネエエエエエ! イテエエ! イテエヨオオオ!」
肉塊が、ごおうごう。怒り心頭で怒鳴りたてるそばに、たたずむ影がひとり。
月光のない夜に沈んで、長い黒髪流れるその姿は漆黒。顔はまったく見えない。ただただ、水晶を打ち鳴らしたような美声がりんと響く。
「まあ、レヴテルニの金獅子の咆哮は、風をかまいたちにするというからな」
「違ウッ! ソイツ二切ラレタノハ、首ダ! 首ハ、スグニ
「まあ……もう一歩踏み込んでいたら、完全に切り落とされていただろう。かろうじて皮一枚残って命拾いするとは、悪運の強い奴だ」
「アアソウサ、オレハオマエト同ジ不死身ノ化ケ物サ! デモ痛イノハナァ、チャント感ジル。今痛イノハココダ!!」
ずどんと地響き鳴らし、肉塊が足のごときものを影の前に突き出す。
無残に
「なんだこの穴は」
「オマエガヤッタンダロウガァアアア!!」
ずどんずどんと、苔むした肉の塊は腹立たしげに何度も、無残な足を地に踏みつける。しかし影は、まったく悪びれなかった。
「なんだ、吹き飛ばされただけじゃなかったのか。だが翼に穴が開いたわけではなかろう。飛ぶのは支障あるまい」
「飛ビナガラ再生ハ
「不器用だな」
「ウルセエ! 少シハ手加減シロ!」
「しているつもりだが……この塔はひよわすぎないか? なぜに怒鳴っただけで柱が折れる? ガタがきているにもほどがある。いやそもそも、
「ネボケタコトイッテンジャネエ! アンタノ霊力ガ、オカシスギンダヨ!」
「壁の厚さが異様に薄いし。こんなところに置いていって大丈夫だろうか……」
「オイコラ、聞イテナイダロ! 待テ!」
肉塊の怒号を背に、漆黒の影はかつりかつり。固く端正な靴音をたてて、せり出した肉樹の舞台の端に控える鉄の塊に近づいた。
「待テ
影が腕を伸ばすと、鉄の塊はカッと目を光らせて、黒がねの両翼を広げた。それは全身金属。竜のようであるが竜ではない。足はあるが、腕は翼と一体化している。
背中にある
「エサヨコセコノヤロウ! 俺ニアノ甘イノヲヨコセ!
ごおうごう。肉塊の怒鳴り声に塔が揺れた。あたかも身を竦ませ、おののくように。
『……というわけで、黒髪様はシーロン様ではなく、
黒髪様のご寝所。寝台のそばの卓から、仙人鏡が伝えてくる。さきほどゆっくり、せり上がってきたのだ。
ご寝所の寝台に取り残されたクナは、卓に手をかざした。台座に
『三日間
クナは皿のそばに置いてある
ご寝所の分厚い扉は閉じられて、うんともすんともしない。鬼火たちは出入り禁止のようだ。部屋はひとつではなく押し戸がふたつあり、片方にはご不浄部屋が、もう一方にはこぢんまりとした湯殿らしきものがある。窓は開いているが
クナはちょこんと寝台に座り、見えぬ目をじんわり湿らせた。
鏡はそんなクナの様子を伺っていたようで、申し訳なさそうに伝えてきた。
『肩が丸出し……もしかしてまだ何も、お召しではなかったのでしょうか。すみません、お食事の前に、お着替えのご案内をするべきでした。寝台のそばに置いてあります長持ちから、衣をお取りください』
そうだ、まだ一糸まとわぬ姿だった。
クナはほんのり頬を火照らせながら、腰ぐらいまである高さの寝台からそろりと降りて長持ちを手探りで探りあてた。
長持ちはふたつ置いてある。全く同じ手触りで、大きさもほぼ同じだ。
左の長持ちを押し上げて中の衣を引っ張り出すと、不思議なことにしゃらんと音が鳴った。
楽器の音色のごときではなく、耳元をくすぐるようなかすかな囁き。撫でるとぱちぱちさらさら、音が大きく弾けた。
衣が歌うように音を立てたのだった。
「すごい……! ころもがうたってるわ」
クナが驚いて声をあげると、鏡がまた謝ってきた。
『あああ、またまたすみません。そちらの長持ちは、黒髪様のものです』
「えええっ、くろかみさまの?!」
『今お持ちになられている衣は、夜空色の
「れいりょくをこめる? わたむしのいとって?」
『
黒髪様はすめら百州で生まれた御方ではない。
衣が織られた遠い国。そこが故郷なのだろうか。
『三ノ奥様の長持ちは、右側に置かれております。そちらをお開けください』
同じ手触りの隣の箱。仲良くおそろい。まるで仲良し夫婦の調度品だ。
たじろぎながらクナは隣の箱を開けた。
そこには同じように、しゃらんと歌う衣が入っていた。
とりあげて鏡の方に向けて見せると、それも
「は、はこだけでなく、きものまでおそろいなの?!」
『そのようですね。その衣はおそらく、
「そ、そうなんですか。ひるとよる……」
『昼と夜。
「どうして……」
正直わけがわからない。どうして黒髪様は自分を妻に望むのだろう。
生け贄としてはてんで役に立たないから、腹いせに
「好きだ」なんていわれなかったから、妻にしたのも部屋に連れこんだのも、きっと気まぐれにちがいない。月神殿の女性の命をとることで、役に立たぬものをもらった
そうなったら、月神殿は天子様から責められる。立場を悪くした月神殿は、クナの家族に仕置きをするだろう。それよりなにより。龍のいけにえにされなかったら、死んでかあさんに会うことは叶わなくなる……
「くろかみさま、おねがい。つきのひとのいのちをとらないで。どうか。どうか」
クナは床に膝をつき、寝台に両肘を置き、手を合わせて必死に祈った。
神霊玉を飲んだ巫女の祈りは神霊力を伴うもの。ゆえにその祈念は天の神々に必ず届くと信じられている。
わずかばかりの間だが、クナは巫女の修行をした。となればほんの少しは、神霊の力が腹の中の神霊玉にたまっているはず。そのなけなしの力が発現するよう、一所懸命祈った。
「どうか……!」
心配でおののくクナは真剣そのもの。なれどその神霊力は、いくらもたたぬうちに力尽きた。
ぐうきゅるると、
「ええと。りんご? っていったっけ?」
生まれて初めて手にしたものだ。甘酸っぱい芳香に
「うわ……うわ? ふわぁ?!」
口の中に、えもいわれぬ芳香と甘みが広がる。
なんとおいしいのだろう。夢中になってもうひと口。もうひと口とかじるうちに、クナはあっという間にりんごを平らげてしまった。もっと……と思えば、部屋にはまだ、ほのかな芳香が漂っている。
クナは手探りで匂いのするところを探り、望みのものが円卓に置かれた籠にどっさり盛られているのを発見した。思わず顔をほころばせて手を伸ばす。
そのとき――
どおんと、塔が揺れた。
長持ちの前に両膝をついているクナの身が、瞬間浮いた。
なにごとかと驚くと、またどおん。どおん。
塔が震える。クナはまた浮いたり沈んだり。
なんと分厚い扉から、その衝撃音が出ている。何かがすさまじい勢いで、扉に突進しているようだ。
「な、なに、これ……なんかが、つっこんできてる?」
衝撃が来るたび体が跳ねる。おののくクナはぺたぺた床に手をついて窓辺へ
『三ノ奥さま、ご注意ください! 何かが侵入しようといているようです。いますぐ非常口からご退避を。
慌てて
刹那、分厚い扉が無理やり、外から押し破られた。
「
押し入ってきた者は、ずどんずどんと床を響かせてクナの真ん前にきた。
そうしてふるえあがるクナのまん前で、すさまじい咆哮を放った。
床が揺れる。壁が揺れる。
どこもかしこも、
「会イタカッタァアアアアア!
咆哮と共にバキバキと、クナのすぐ横の窓が砕けた。 分厚く頑丈そうだった
龍が居る露天の場所からここまで、分厚い扉は一枚ではなかったであろう。
すべてことごとく、ぶち抜かれてきたのだろうか。力任せに、無理やりに。
クナは両耳をふさいでしゃがんだ。
しかしその雄たけびはやすやすと、小さな手を突き通ってきた。
「望ミドオリ、喰ッテヤルゾオオオオ!!」
長い長い咆哮。きしむ壁。揺れる床。
この龍こそは、クナが望んでいたもの。食べられたいという願いが叶うのだ。
だが、いざこうなると。
(あ、あ、あたし……?)
クナは声を出せなかった。
こわい――全身が震える。がちがち歯が鳴る。
クナは腰をかがめ、窓辺にぐいぐい背中と尻を押しつけていた。これ以上は下がれないと頭では分かっている。なのになぜか足は後ろへ後ろへ。必死にあとずさろうとしていた。
(あたし……ま、まさかほんとは……)
家族を救わねばならい――そう気負ったから。
母さんに会える――そう信じたから。
クナは龍に食べられなければならないと思った。それしか方法がないと、あきらめていた。でも本当は……。
(あたし、たべられたく、ない……?)
『役立たずのクナ』
そう言われたくなかった。家族に恨まれ責められたくなかった。それは死ぬよりも嫌なことだと思っていたのに。だから喰われる覚悟を決めていたはずなのに。
驚きと共に、クナはおのれを悟った。
(あたし、ほんとは、しにたくないんだ……)
ほろろと頬を伝ったのは、ひとすじの涙。
ああ、自分は本当にいやなのだ。泣くほど喰われるのがいやなのだ。
龍から逃げようとする体は、これ以上下がれないとやっと認識したようだ。のろのろ横ばいに動きだしている。
震える手が無意識に胸元を探る。クナを着替えさせた月の夫人も、湯舟に入れた黒髪様も、取り去らないでくれたものがそこにあった。首から下がる小さなお守り袋。中に入っているのは、母の形見。
クナはその小さな袋を力いっぱい握り締めた。
(か、かあさんどうしよう。あ、あたし、しにたくないっておもってる。いきたいって、おもってる)
思い切って右手へ駆け出し、迫るものをすり抜けようとしたものの。その逃走はあえなく阻止された。
目の前に迫った龍から、何かがしゅるり。湿ってつるりとしたものが勢いよく出てきて、クナの頬を撫でたと思いきや。
「きゃあああ?!」
しゅるりしゅるり。次から次へと、長く湿ったなにかが体に絡み付いてきた。
「
龍はヒャハァと、ひどく嬉しげな声をあげた。
「真ッ白イ甘露! サスガ不老不死の妙薬ヨ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます