第十四話 金のりんご



「……というわけで、黒髪様の軍はひそかに西郷に入り、北進。神帝船団を発見し、急襲したのでございます。完全無欠の奇襲にて、損失は鉄の竜ロンティエ二百機のうち四十七機。なれどもその戦果は華々しく、シャヒーン級軍艦三隻を落としたとのことです」 


 垂れ下がる御簾みすの前で、黒檀の床にびたりと、蒼い鬼火が頭を打ちつけている。


「さらには猛追しました屍龍シーロンどのが、みごと神帝船にとりつきまして、鋼鉄切り裂く爪にて、白い船体を紙のようにかっさばいたと。なんと、くれない髪燃かみもゆるレヴテルニ帝の面前に、迫ったとのことでございます」


 報告する鬼火の声は、内容に反してふるふる震えている。燐光ゆらめく体はあきらかに、何かにおびえていた。


屍龍シーロンどのが咆哮吐き出す合間に、黒髪様はすらりと魔封じの刀を抜きまして、あっという間に間合いを詰め、光一閃。くれない髪燃かみもゆるレヴテルニ帝の結界ごと、かの美少年の頬をすぱっ! 鮮やかに斬ったとのことで、ございます」


 御簾みすの向こうからぱたたと、扇がそよぐ音がたった。奥間におわすのは、黒の薄様うすようの衣をまとう正室、レイ姫だ。青畳にきっちり正座している。


「神帝に傷を負わせるとは。あっぱれじゃな」


 レイ姫の扇の動きはせわしない。ひどくいらいらしている様子である。

 蒼い鬼火は震えながら報告を続けた。


「神帝の船は遠くへ逃げ去り、魔導帝国サハリシュ軍は慌てて国境線より撤退。黒髪様は後詰あとづめ軍を西郷に進入させて、敵軍を追わせました。軍団は破竹の勢いで進み、なんと西郷の半分を奪還したのでございます。

 我らがあるじさまのかようなご活躍で、敵軍は一時停戦を申し入れて参りました。帝都太陽神殿はこれを受諾。それで本日――」


 ごおうごう。

 黒檀こくたんの床が轟音ごうおんでびりびり揺れる。床に頭さげる鬼火の体が、振動を受けてわななく。鬼火はその音が鎮まるのを待って、再び言上した。


「本日、黒髪様は、晴れてご帰塔きとうなさったのです。が……」 

屍龍シーロンが吠えておる」


 レイ姫はいらいらと言葉を挿した。


「痛い、痛いと、なんじゃこのわめきは。うるさすぎるわ。あやつ、怪我でもしたのか?」 

「はい、実は、魔導帝国サハリシュの神帝と対峙したとき、〈聖炎の金獅子〉なるものの反撃を受けたそうです」 

「金獅子?」

「黒髪様が説明してくださったのですが、神帝の守り神らしいです」

 

 〈聖炎の金獅子〉は、くれない髪燃かみもゆるレヴテルニ帝の守護者。常に帝のそばに在り、その魔道の力すさまじきこと、いにしえの神獣のごとしであるという。ゆえにうるわしの神帝には、今まで何ぴとたりとも、近づくことがかなわなかったそうだ。


「神獣……すめらの伝説の守護神、ミカヅチノタケリのようなものであろうか」

「黒髪様いわく、はるか数千年の昔に、超文明によって作られた守護神獣のひとつであるとのことです。いにしえの兵器の鉄壁の守りを越えるとは、さすがわが主さまです。まこと後代まで、語り継がれるべき武勲でありましょう」 


 ごおうごう。ふたたび轟音ごうおんが轟き、塔がみしみし揺れる。


「神獣にどつかれたシーロンは、どこを損なったのじゃ?」

「ええとその、首がすっとびそうになったとかなんとか。でも今わめいているのは、その傷がさらに深くなったからだと思われます」

「は?」

「さきほど黒髪様が放ちましたご勘気で、さらに怪我をしたみたいです」


 レイ姫の扇がばたばた不機嫌に鳴る。機嫌のよろしくない姫は、ねているような声を出した。


「……つまり、わらわたちのせいじゃと」

「いいい、いいえ、まさかそんな、滅相めっそうもございません」


 蒼い鬼火は、へたに慰めの言葉を奉げることを控えた。

 だがしかし、帰塔きとうした黒髪様の、勘気の凄まじさといったら……。

 あれを思いだすと、鬼火の体は恐怖でか細い糸のようになるのだった。

 黒ノ塔に降り立った黒髪様は開口一番、レヴテルニ帝の首を取り損ねたと呪詛まじりにぼやき、いらだちをびんびんに放っていた。その上さらに、しろがねのイナカ・ムスメが倒れて、三日三晩こんこん眠っている、ということを知ったとたん、怒りを爆発させたのだった。


『巫女団に入れて戦わせただと? 私が許したのは、修行だけだ!!』




 龍であるシーロンの魔力は底なしといえるほどに強いが、黒髪様自身の魔力もまた、相当なものだ。

 怒りの波動で半径五十しゃく四方のあらゆるものが、こっぱみじん。塔の一部が損壊した。

 おかげで蒼い鬼火は体を引き裂かれ、空高くで四散した。

 まっ黒どろどろの翼を休めていたシーロンも吹っ飛ばされて、地面に落ちた。  

 蒼衆朱衆あおしゅうあかしゅう入り乱れ、百体の鬼火総動員で折れた柱を支えるとか。正室のレイ姫を筆頭とする巫女団が、黒髪様に呼び出されて叱責されるとか。黒の塔はしばし阿鼻叫喚あびきょうかん。つい先ほどまで、恐怖の風ふきすさぶ、地獄絵図であったのだった。


「はぁ……我が君は怒ると怖いからのう。アオビよ、おぬしも災難だったな。ぶっちゃけ、完全に死んだであろ」

「あ、はい。核を砕かれる直前、すんでのところで分裂複製をいたしました。とっさに四体作りましたが、生き残ったのは私だけです」 

「おまえたち鬼火はそうやって危機をしのぎ、永らえることができる。実質寿命がなく、召使いや衛兵として使役するには、うってつけのものよな。それゆえに手荒に扱われることもあるが……」 

「ワタクシのことは気遣い無用にございます。我が望みは、奥様たちがつつがなくあることのみ。ですので、こたびのご処分に、身が縮まる思いです」

「ふん。このぐらい、屁でもないわ」


 巫女団の婦人たちは黒髪様の怒りの波動を受けて、しばし金縛りになるという罰を受けた。それに加えてイナカ・ムスメを舞わせた第二室のジン姫は、七日間謹慎きんしんせよと命じられた。なれど正室のレイ姫は、その処分を我が身に振り替えるよう黒髪様に願ったのだった。


「たしかに二ノ奥は、しろがねを舞わせるよう進言した。なれどそれを許したのは巫女団長のわらわじゃ。せきは、わらわにある。仕置きをかぶるは当然であろ」 

「あの、そのことについて……二ノ奥様より、これを預かってきております」


 かしこまった蒼い鬼火は、御簾みすのすきまからそろっと短冊たんざくを差し入れた。


「ふん。そんなもの、いらぬわ」


 濃ゆい香りを醸すレイ姫は、真横にある菓子台へ手をのばし、そこに載っている醍醐だいごをごっそり香り紙に包んだ。そうして短冊たんざくの上に菓子の包みを載せて、鬼火に突き返した。


「『あんさんはおひとよし』とかなんとか、びったらしい戯言ざれごとなんぞ見る価値もないわ。あの狐が貰うはずだったものをくれてやろうぞ」


 いかずちのごとき剣幕で処分を言い渡した直後、黒髪様は少し落ち着いたようで、巫女団の働きを認めてくれた。

 正室であるレイ姫は、黒髪様から黒螺鈿くろらでんの菓子台と醍醐だいごを褒美にいただいた。醍醐だいごはすめら最高級の菓子だ。清州しんしゅう高原の黒牛より絞った黄金こがね色の乳を固めたもので、滋養強壮じようきょうそうと不老の効果ありとうたわれている。

 第二室のジン姫や使いたちは、あんがたっぷりつまった焼き菓子と菓子台を下された。

 

「我が君は恐ろしいが、結局は、まっとうなご判断ができる御方なのじゃ」

「はい。仰せの通りだと思います。が……」

「なんじゃ?」

「い、いえ。なんでもございません」


 アオビは腰を低くして短冊を受け取った。

 レイ姫は一見平気なそぶりだが、実のところはかなりお辛いであろうと、アオビは思うのだった。レイ姫がいらいらしているのは、シーロンがわめいているからではない。謹慎きんしんしている間は、階下の竹の間からジン姫を召すことができないからだ。けむり草を吸うのを我慢したときに出る禁断症状と、似たたぐいの症状が出ているのにちがいなかった。


「それではワタクシはこれで。二ノ奥様に短冊を届けます」

「まて。いまだ眠りこけておるあれは……我が君の部屋に運ばれたイナカ・ムスメは、どんな様子なのじゃ?」

「黒髪さまが薬湯やくとうに漬けておられます。じき目覚められるかと」


 一瞬、安堵の息が扇のかげから漏れ出た。だがそれはぱたたと、高速の扇の風にかき消された。


「ふん、あれしきで倒れるとはの。しかし舞力ぶりょくはかなりのものじゃ。実戦はならぬと我が君はおっしゃったが、側室扱いするなら、わらわの巫女団に入れるのが筋であろうに」

「そ、そうですよねえ」


 しろがねのイナカ・ムスメは、入塔記録に「さい」と記されている。しかし黒髪様にはすでに、このレイ姫という正室がいる。

 イナカ・ムスメは側室として扱うのが妥当だとアオビは思うのだが、黒髪さまはなぜ、不可解なことをなさるのだろう?

 ちなみにレイ姫の入塔記録は、五年前に書かれた。なんと書かれたかというと……


(「巫女団長」……まごうことなく、正室ですよねえ)


 すめらの神官族の正室は、奥向きの女性を統率して巫女団を組織する。

 これは古代から続いている、お家を守るための慣習である。

 巫女団は巫女団長の指揮のもと、家に結界をはりめぐらしてしきものを遮断し、家内安全や子孫繁栄など、あらゆる福を呼び込む儀式を行う。

 軍部を司る太陽神官の妻であれば、先日のように戦に臨むこともある。

 レイ姫は果敢に巫女団に号令を飛ばし、塔を護りきった。まこと、太陽の将軍の正室にふさわしい姫であろう。

 アオビは勇気を振り絞って、おのれの見解をレイ姫に伝えた。


「あの、おそれながら、竜蝶に傷をつけたくないのはわかります。天子さまにさしあげる、貴重な献上物となるでしょうから。なれどあのお怒りようは、ちょっとじんじょうではございません。もしかして黒髪様は、もしかして、竜蝶の甘露かんろにあてられたのでは?」

「はぁ? 我が君が竜蝶の娘に魅了されたというのか?」


 御簾みすの向こうで、レイ姫は扇をばんと青畳に打ち付けた。


「たしかにあの種族は、甘い涙のひと粒で人をかどわかす。だがそんなもの、我が君に効くわけなかろう。黒髪様には、どんな毒も効かぬ。煮ろうが焼こうが決して死なぬ。不死身の魔人であるぞ」


 レイ姫はくるりと背を向け筆をとり、すっすと何かしたため始めた。喪服のごとき黒衣をたなびかせるその姿は、なにやらおどろおどろしい。

 アオビはめらめら燃える身をぎゅっと縮め、菓子の包みと短冊たんざくを持って、松の間から下がった。


「あああ、おそろしい」


 いきなり書き出したあれは、しろがねのイナカ・ムスメへの呪詛かもしれない。なにかぶつぶつ、低い声で呪言を唱えているから……

 奥向き専用に作られた人工鬼火は、そう思いこんだ。その昔、初代アオビが住んでいた、天子さまの後宮の記憶を引き出しながら。

 とかく「奥向おくむき」というのはそういうもの。そうなるもの。くわばらくわばらと。





 頬に風があたる。すうっとした草の匂い。それからほんのり甘い果実の匂い。

 どこから匂ってくるのか、甘酸っぱい風味の風が鼻をくすぐる。

 ひゅるるひゅるると、風が鳴る。


(いいにおい……)


『起きなさい』 


 澄んだ声が聞こえる。風が踊って声を運ぶ。


『りんごを取ってきたよ』


(りんご? それはなに?)


 だれかが近づく気配。甘酸っぱい匂いが鼻をつく。


 ごおう。


 突然、風の音がうるさくなった。

 ごうごう、なんと凄まじい轟音。そばにきた気配が何か言う。

 けれどもその音にかき消されて、なんと言っているのかわからない。


『……てる……』


(え? いまなんて?)


『……してる……私の……』


 ほとり。

 頬になにか、しずくが落ちた――。





「あ……あつっ……!」


 急に胸がカッと熱くなり、クナは目が覚めた。

 胸を押さえてよろりと起き上がれば、そこは塔からせり出した舞台ではなかった。梅の間の、青畳あおだたみが香る寝台でもなかった。

 

「匂いに惹かれて起きたか」

「くろかみさま?」


 なんと黒髪の柱国さまがそばにいる。クナが横たわっていたところは、甘酸っぱい香りの中にほんのり樟脳しょうのうの匂いが漂っている、黒髪様のご寝所だった。

 とりあえず挨拶しようと寝台からもぞもぞ、下りてみれば。


「あ、あれ? きもの……?」


 重い衣も歩ける袴もどこへやら。襦袢じゅばんも着ていない。一糸まとわぬ姿である。あわてて腹の下を手で隠すと、鼻先から甘酸っぱい芳香が襲ってきた。主さまがくだものを差し出しているらしい。

 クナはおずおず両手を出し、丸みを帯びた形を確かめながら受け取った。

 そんなに大きくなく、固そうな実。おいしそうだ。おいしそうだがしかし……。


「あの、あたしのきものは?」

「君は体が石のように硬直したまま、昏睡していた。だから薬湯につけて、ほぐしてやったところだ」

「そ、そうなんですか。ありがとうございます」

「慣れぬ者が神霊の気配の中で無理をすると、こんなことになる」


 黒髪様の声はため息混じりで、すこぶる機嫌が悪そうだ。果物を両手に乗せて胸元で抱いているクナは、責められた気がして肩身を縮め、うつむいた。

 遠い戦地にいた黒髪様がここにいる。ということは、自分はかなり長いこと、意識を失っていたのだろう。


「巫女団の婦人たちには困ったものだ。君を勝手に戦に動員するとは」

「みこだん?」

「先帝の後宮にいた女たちの一団だ。天子様より名を贈られたとき、一緒にいただいた。そこそこの霊力を持っているので、塔の守備を任せているんだが……すめらの慣習はよく分からぬ。鬼火どもはなぜか巫女団の婦人たちを、私の伴侶のように扱っている。そういう扱いはしないでほしいんだが……」


 やはりあの楽の音を奏でた一団の中に、正奥さまたちがいらっしゃったようだ。

 しかし柱国さまは、奥さまたちのことを認めてらっしゃらない? すめらの習慣がわからぬとは……たしかに本名は、生粋のすめらの人ではなさそうではあるが……


「あのでも、あたしはみこしゅぎょうをしてます。だからたたかいにさんかするのは、やらなきゃならないおつとめじゃないかと」

「修行はしてもよいが、戦に出ることは許さぬ。危険だからね」

「でも、おくさまたちもあのぶたいに――」

「いやだから、彼女らは私の伴侶ではなく、塔を守る戦闘員だ。君とは違う。私は君の記録にさいと書いた。なのになぜこうなるんだ? 婦人部屋につっこまれているし」


 なんと、「さい」と書いたのは…… 


「えっ、ちょっとまって、ほ、ほんきなんですか?! なんであたしを、おくさまに?!」 

「伴侶にしたいからに決まってるだろう。なぜなら君は――」


 ごおう、ごう。澄んだ美声が、轟くすさまじい音に遮られた。黒髪様は舌打ちしてずかずか部屋を横切り、大きな音を立てて窓を閉めた。とたん、塔を揺るがすような音がすっと遠くなった。

 頬撫でる風は窓から来ていたのかと、クナは夢で感じた心地の由来に気がついた。そしてあのうるさい音は、おそらく龍の声。ずいぶん泣き喚いているような気がする、と思ったとたん。


「田舎娘。とにかく君の部屋は、ここだ」

「ふあ?!」


 クナはきつく抱きしめられ、そのまま寝台に押し倒された。

 ぎしりとほどよい固さの寝床がきしみ、甘い囁きがクナの耳を襲った。


「夫婦とは、一緒に住まうものだからな」





 身分の高い人というのは、こんなに強引なものなのか。

 黒髪様の頭の中では、クナと彼は、なぜかすでに夫婦であるらしい。

 普通それは、最低でもひとこと、「おまえを好いとる」とか、「おまえをめとる」とか、相手に言ってからなるものではないのか。どんなにせっかちで傲慢でも、それぐらいはするものではないのか。

 もしかして有無をいわさず妻にするぐらい、この人はクナのことを好いているのだろうか?

 でもまだ、ろくに会話もしていないというのに……


「ちょ、ちょっとまって!?」 


 クナは縮み上がった。胸に抱くりんごなるものを挟んで、黒髪様の体がひたりと合わさってくる。その肌には、衣の感触がない。


「ほ、ほんき?! ほんきであたしを? ででででも、そんなのこまる! ちょ、ちょっとまってください!」


 抵抗を封じようとしてか、背に回された腕に力がこもる。

 しかしみるまにクナの胸はじりじり熱くなり。肌が合わさったところもひどく熱くなり。すぐにぼうっと、燃えるような熱が噴き出した。


「ぁあっ! あつっ……!」

「実に、忌々いまいましい印だ」


 クナが悲鳴をあげると同時に、黒髪様の体がしぶしぶ離れた。刹那すうっと、クナの体から熱が引いていく。月の夫人につけられた胸の印は、だれかがクナの体に触れると燃え出すらしい。なんと、純潔じゅんけつを守ってくれるようだ。

 黒髪様はあきらめたくないのか、大きく息吐くクナの髪を、ひと房つかんでいじりだした。


口惜くちおしい……もう少しでレヴテルニを殺せたのだが……本当にもう少しで……。金の獅子が邪魔すぎた」


 突然、美しい声が暗く沈んだ。


「レヴテルニをおびき寄せるため、龍二頭を見殺しにした。西郷は占領しないといけなかった。なのに……また仕切り直しだ。だが決して、あきらめぬ。レヴテルニは、決して許さない」


 鬱々と語られる不穏当な言葉。その声は闇夜のようにくらかった。


「あいつは殺す。私がこの手で」


 びりりとあたりにするどい空気がおりる。

 それは黒髪様の怒りだった。ひどく重く、痛々しい。怒りのなかに渦まくのは、心が捻られるような哀しみの気配だった。


「力及ばず情けないことだ。すまない。次は必ず、あいつを仕留めるよ」


 決意固い声で謝られて、クナは困惑した。

 黒髪様はクナを撫でながら、なぜか申し訳なさそうに仰った。まるでずっと昔から、そうすることをクナに約束していたかのように。


「あいつは逃したが、第一級の勲功にはなった。ゆえに天子様は、私に褒美を下さると思し召している」


 クナはごくりと息を呑んだまま、何も言えなかった。敵への憎悪をあらわにした黒髪様がこわくて、喉の奥に声を詰まらせた。

 こわばるクナの貌に気づいたのだろう、黒髪様は声音を明るくした。


「月の女の心臓。もしくは帝室宝物殿にある橙煌石とうこうせき。いずれかを、陛下にねだるつもりだ。君を抱くには、どちらかが要る。炎の聖印をつけた張本人を殺して印を消すか。印の効果を無効にする、絶対零度の環境をつくるかしないといけない。今のままでは、ろくに触れることもできないからね」

「えっ、だ、だく?!」


 いちおうクナは、それがどんなものか知っている。

 姉のシズリは時折、物置小屋に男を引きこんでいた。糸つむぎ部屋に流れてくるのは、あんあん甘やかな喘ぎ声。そのあとシズリは台所でひそひそ、男に何をされたか妹に自慢していたからだ。


「だ、だかれると、きよいみこじゃ、なくなりますよね?」

「そうだね」

「きよいみこじゃないと、シーロンさんにたべて、もらえない、ですよね?」

「うん。純潔を失えば、君は食べられることをあきらめざるをえない」

「で、でも! くろかみさまは、しゅぎょうしていいっておっしゃいました! それって、あたしがまともなみこになったら、シーロンさんにあたえるってことじゃないんですか?!」

「あれは、君を落ち着かせるために言ったいっときの嘘だ」

「そんな……!」


 この方は本気で、自分を妻にするつもりなのか。

 クナはおののき、寝台の上でそろそろ身を引いた。

 黒髪様は逃げたクナの髪を追ってきて、そっとまた掴んだ。

 

「ふむ……凍らせるのは面倒だな。いくら不死身の私とて、橙煌石とうこうせきの冷気を一晩中浴びるのはさすがに辛い。月の女の心臓がほしいと、陛下にねだることにしよう」

「や、やめてください、いのちをとるなんて――」


 とっさに叫んだクナの言葉が、ぷっつり切れた。柱国さまの唇が甘やかにクナの唇を割ってきて、喉の奥からあふれくる混乱を呑みこんだ。両手に持つりんごでクナは相手の体をぐいぐい押し返そうとした。だが、きつく抱きしめられて離せなかった。

 胸から昇る熱が唇を焼くまで、黒髪様の唇はクナの悲鳴を塞いでいた。


 熱い。熱い。熱い。とろけてしまう……


「ふああっ」


 燃え上がる寸前、唇が離れていった。

 クナの喉の奥から、こふっと熱の息がほとばしった。

 こんなに熱くては、相手の舌はやけどどころではなかろう。だがクナの熱を食らった黒髪様の言葉は、さらりと涼しげだった。


「命を取るな? まったく君は、全然変わらないな」

「えっ……?」


 くすりと漏れる苦笑。

 クナは首を傾げた。また不可解なことを言われた。まるでずっと昔から知り合っていたかのような言葉だ。


「どうして……?」

「金のりんごをお食べ、田舎娘」  


 囁きが壁を反射して流れてくる。クナに背を向けてつぶやかれたそれは、とても優しかった。だが大きな音をたてて開かれた扉は、黒髪様が出て行くとすぐに、どずんと閉められた。

 つかまえた小鳥を閉じ込めるように。


 

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