第五話 仔狗(こいぬ)


「それでこれが……候補の中で、一番見目良い娘であったというのか?」


 いらだつ声が、びりり。あたりにしびれるように響きわたる。

 声のまん前に正座するクナは、びくりと身をすくめた。

 声の響きが、四方に果てなく散っていく。

 ここはどこだろう? 自分は一体誰に買われたのだろう?

 クナは腫れ上がった目にじわじわとにじむ涙をぬぐった。

 ここはとても広くて、天井が高そうだ。背中に当たるのは、日によく当てられた、すがすがしい風。大きな垂れ幕がたくさん垂れ下がっているのだろう、窓から入る風に揺られて、ばふばふそよいでいる。


「も、もうしわけございません、猊下」


 びたり。クナのすぐ横にいる気配が、床に手をつく音をたてた。


「今朝方手に入りました娘は、この娘ひとり……」

「ごくふつうの、未通の娘ひとり、手に入らぬとは」

「もっと時間をいただけますれば……」

「時間がない。太陽神殿は我らが小細工できぬよう、期日を狭めておる」


 クナはいまだ湿る鼻をすすりあげた。

 てっきりふもとの街の色宿に入れられるのだと思ったら、人買いは、今クナの隣にいる男にクナを引き渡した。とたん、鉄の匂いのする固い車におしこまれ、しゅんしゅんがしゃがしゃ。ごうごうがしゃがしゃ。

 男の声の響き具合からすると、かなり大きくて広そうな車だった。布張りの座席がいくつも並んでいるらしく、クナは十歩以上進んで、奥の席に座らされた。

 そんな不思議な鉄の車は丸一日、ものすごい速さで走っていた。


「……これ・・に、銀五本か」

「御意」

「それは買い叩きすぎだ」

「売り主はよき臣民。黒い髪に茶色の肌たれと、月神殿より良き教育を受けた、山村の農夫でございます。乗車前に娘に体を洗わせまして、我々も気づいた次第にて」

「ふむ。物を知らぬは、是非もないか」


 買い叩きすぎ? まさかそんな。

 クナの家が毎食おかず二品でひと月暮らすには、銅銭が四百枚ほど要る。

 銀棒一本は、銀銭千枚の価値。銅銭にすれば一万枚。

 つまり銀棒五本は銅銭五万枚ということで、なんと十年は楽に暮らせる値段だ。

 必死に指折り計算した父さんは、仕送りはできればでよいと、しどろもどろ。ひどく仰天していた。


「しかし盲目とは。それに体臭がひどいのう。なんという甘さか。口いっぱいに白砂糖を詰め込まれたごとくじゃな」


 自分が甘い匂いを放っている?

 たしかにそうだが、そんなにきついとはクナは思わなかった。

 家族全員、同じ匂いを醸していたからだ。

 クナの目の前にいる人は、声からすると男のようだ。押し殺した低い声は、なんとも陰鬱。くんと鼻をひくつかせれば、ほんのり甘いような苦いような香りが、その人の衣から漂ってくる。村のおやしろの中にただよう、お香の匂いとそっくりだった。


「それで名は? ずいぶん小柄だが、年は十を越えておろうな?」


 クナが答えようとすると、隣の男が声でさえぎった。床に額をこすりつけているようで、響きがくぐもっている。


「年は十四、太陽神官による真名の命名はまだとのこと。父親は狗奴クナと」

「純血のすめらの神官族であれば、裳着を行ってよい年であるが……しかしいぬころという名とは……しきりに鼻をくんくんさせておるからか。まあ、妥当な呼び名ではあるか。まずは禊。次に神霊玉を投与せよ。不視不言、そして不動を課せ。化粧をほどこし、髪色は藍に染めよ。目には眼帯を。白千早を着せたらわしの私殿へ届けよ。巫女として最低限必要な知識を、我が妻が一夜かけて伝授する」


 顔前から漂う雅びな香りに、クナはうっとりしかけたけれど、目の前の偉い御方の声は、苦いせんぶり茶を飲んだかのように、暗く濁っていた。


「まあ、一晩の一瞬のことゆえ、なんとかなろう。できるかぎり娘の体臭を消せ、リンシン」

「御意、猊下」


(ひとばんだけって? それにあたし、そんなにくさいの? たしかにおふろは、あんまりはいらないけど)


 首をかしげるクナは隣の男に、広くて高い屋敷の奥に案内されて。つるりとすべる廊下のつき当たりでいきなり、冷たい水が張られたところに落とされた。心の臓が凍るかと思うような、きんと澄んだ水に。


「ひいいいっ! しぬ! こごえしぬ!」

「だまらっしゃい! そなたはこれより帝都月神殿の巫女となる! 神聖なる儀式を行うゆえ、これより決して言葉をもらさぬよう!」


 男が、声を張りあげて怒鳴ってくる。


(て、ていとの……げっしんでん?! じゃあここって、てんしさまがおわす、みやこなの?! って、みこ?! あたし、つきのみこさまになるの? なんで???)


 わけがわからず、クナはぶるぶる震えた。寒い以上にこわくて、震えがとまらなかった。

 

(なんで? なんで……?!) 


 何人もの女が、禊の水に入れられたクナを一斉に洗い上げた。

 香油がしみこんだ海綿がごしごし、皮をそぎ落とさん勢いでクナの肌を蹂躙した。

 髪もぐいぐい引っ張られながら洗われ、引っこ抜かれてるのかと思うほど。

 痛くて痛くて、だまれといわれたのにクナは悲鳴をあげてしまった。

 クナをつれてきたリンシンという男は、女たちにクナのことをこう説明した。 


「トウ家傍流より、お越しになられた姫である。本日より巫女姫となられる修行に入られた。さっそく不視不言不動の三苦行を行われておられるゆえ、みな様そのおつもりで」


(あたし、おひめさまじゃないよ!) 

 

 何度も叫びそうになるたび、リンシンは絶妙の時宜で、鋭く釘を刺してきた。


「姫さま! 集中なさいませ!」


 ひいひい言うクナとは対照的に、女たちはみな無言。けほりとむせる甘い匂いは、化粧した村の舞巫女と同じ匂い。

 決して動くなと言われたクナは、軽い衣を一枚着せられたあと、座布団のようなものが敷かれた台に乗せられて、しずしず運ばれた。


(はながひんまがる……)


 部屋も人もすべからく、お香の匂いがしみていた。でもどれもが違った匂いで、それぞれが自分の存在を強く主張してくる。おかげでクナの頭はぐらぐら酔ってしまった。

 尖った香りのお香が漂う部屋で、クナは女のひとりから丸いものを飲まされた。のど越しがつるりとした、白玉のようなものだ。

 それから三つほど違う部屋に立て続けに運ばれ、水のしずくをかけられたり、銅鑼の音を聴かされたり。そばに付き従う女たちが、声を合わせて祝詞を唱え、鈴玉をりんりんしゃんしゃん。そこでようやく、女たちは巫女たちなのだとクナは気づいた。

 響き渡る雅音に、手はむずむず。なんてきれいな音かと、反射的に糸をさらしてみたくなったけれど、手ごろな紐も糸もない。動けないし、もし糸をうまくふるわせても……


(かあさんは、ここにいない。あえないよ)


 こぶしを固く握って涙をこらえるクナは、長い廊下をしずしず、座布団台座で運ばれて。


「なんとまあ……ようお越しなさいましたな」


 低い声を出す女性にょしょうの前に、どっこいしょと据えおかれた。

 白粉の匂いのなんときついこと。クナは盛大にむせて咳き込んだ。

 体を倒して礼をすると、びたり。勢いよく頭に手を置かれ、元の姿勢に戻された。


「不動の修行中はわずかな首肯でよろしい。今これから、そなたの名はマカリ。トウ家のマカリ姫です」


 新しい呼び名をつけられた。

 クナはそう思った。よもや身代わりにされたのだとは、気づけなかった。

 麗しいマカリ姫の評判は帝都を中心に津々浦々、百州全域に広く広まっていたものの、クナの住む山村には伝わっていない。クナの村はそれほどの山奥であった。

 容易に足がつかぬよう、大神官トウイはよくよく用心して、身代わりを調達したのだった。


「そなたはこれより、大事なおつとめを果たさねばなりません。帝都太陽神殿に参り、飲み込んだ神霊玉の力を、柱国将軍にお渡しするのです。神霊玉は修行していくうち、体内にて育つもの。そなたのものはまだほとんど力を蓄えておりませぬが、それは気にせずともよろしい。玉をお渡しするお相手は、『黒髪の御方』。第八番目に柱国将軍に叙された方です」 

 

 クナは唖然と、狐につままれた気持ちで女性の声を聴いた。どことなく痛みを帯びた、暗い声を。


「本来、柱国将軍の勲位は、金の髪の太陽神官族の武人に与えられるものなのですが。『黒髪の御方』は異人なれど、輝かしい武勲をおたてになりまいたので、天子さまより、シェンの姓、すなわち国姓とともに、この勲位をお与えになったそうです。封土と大殿も賜わられたそうですが、『黒髪の御方』は畏れ多いとかしこみ、いまだ国境近くにお住まいであられます。すなわちすめらの守りの要塞、守護の七塔の一基。黒の塔に」

「くろのとう……」

「すめらの守護要塞は、難攻不落の城。その一基、黒の塔は今、万年杉そびえる森に在ると聞いておりまする――」 


 



 こそり忍んで、奥殿の庭からまなざし一線。

 買い取った娘の様子を見た月の大神官トウイは、いかれる肩をホッと落とした。


「なんとかなりそうじゃな。しかしまさか、銀五本であれが手に入るとは……あの瞳の色。あの髪の色。そしてあの匂い。誰も不思議に思わぬということは、あの娘の故郷はもしや……。その身を黒い髪と茶色の肌に染めよ……さてもわが民へのわが政策は、完璧至極であったか」


 紅武三年十の月十五日。

 建国祭三日目の吉日、トウイはこっそり古語でしたためている日録に、このときの出来事をこう記した。


『從墺州買了小狗。小狗的眼的顏色是菫色。

 是非常佔便宜的心情。但是為了我的心凌亂、不能坦率地感到喜悅』


(墺州より子犬を買った。子犬の目は菫色であった。

 非常に得をしたが、私の心は乱れていて、素直に喜ぶことができない)


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