第六話 黒牡丹の扉
その扉は両開きで、一面彫り深い文様が入っている。
流美に編まれた蔓野に、
闇夜に沈む扉は、もとからして黒はがね。頭上につけられた水晶球の門灯は
その扉の、ぴたと閉じたところがほのかに白んだ。
ず……と、
こおっ……
細い
蒼白い炎はいらだたしげにゆらめき、いったんするっとひっこんだ。とたん、扉の内側から、はげしくじゅわっと衝突音がした。炎がわが身を、鋼に打ちつけているようだ。
じゅっ、ずず。じゅっ、ずず。
扉の
「ふう、ふう」
じゅっ、ずずず。
やっとこ、指四本分ほど開いた隙間から、するり。青白い鬼火が飛び出した。
「ふう! やっと外へ出られました! この扉、重すぎるんですよね!」
扉の上を見上げれば。
天つく塔の壁面はぼこぼこで、木の根っこを
けれどもそれは果てしなく黒い。夜を吸いこんだように漆黒。うんざりするほどの、黒である。
壁の中ほどに、大きな銀の円時計が
塔はすっぽり宵闇の中。周りに隆々と生え立つ万年杉にまぎれている――
「うわあ、なんてこと」
おぼろに人の姿をかたどる鬼火は、空を見上げてびくりとした。
ぬばだま色の空に浮かぶは、ふたつの月。大きな親月。小さな子ども月。
今宵は十五夜。月は煌々と輝いているはずなのに、またたく星がくっきり見える。親月、すなわち月女さまの色あいが、なんとも異様だ。なんと真っ赤に染まっている。まるで人の血に濡れたかのように。
こんなときに外へ出ねばならぬとは、いったいなんの罰なのか。これを
「すごい悪気……ああしかし、こんな
蒼い鬼火はぶるっと身震いした。
鬼火の主は、ずいぶんと変わり者である。日が悪いだの縁起が悪いだの、そんなことには
幾万もの兵を率いるすめらの太陽神官、「柱国将軍」であるというのに、帝都に居を構えず、国境付近にそびえる塔に住んでいる。
ほかの将軍閣下は、ひのきの匂い香ばしい光り輝く寝殿にお住まいであると聞くけれど、鬼火の主人は、豪勢な館でくつろぎたいとは思わないらしい。敵が近づけば砲火噴き出すこの塔を母屋とするなんて、よほど
「そろそろのはずでございますが。ああ……ああ……」
扉の前で門灯の代わりのごとく、蒼い鬼火はゆらめいた。忠義者よろしく、出かける主を送り出す。それが主の家を守る、鬼火のつとめなのだが。
「ああああ! 気持ち悪いー!」
真っ赤な月の陰気な光を浴びた鬼火は、辛抱たまらず悲鳴をあげ、するっと扉の内側に身をすべりこませた。
月女さまが笑っている。こっちをみて、目を細めてニタリと笑っている……!
そんな気がしならなかったのである。
蒼い鬼火は扉の取っ手に巻きついた。
悪気が入り込まぬよう締めなければと、懸命に黒牡丹の扉を押す。
どうせ主さまは、地上などごらんにならぬであろう。いってらっしゃいませの声も、きっと聞こえない。心の中でお見送りして、熱い熱い、厄払いの茶でも淹れて飲んでいよう。
それにしても重労働だと、蒼い鬼火はひいふう息を切らした。
この扉。もっと軽くて薄ければよいのに。厚みも大きさも、この半分の半分の半分の、半分ぐらいでよいのに。主さまは、今まで一度も、この扉を使ったことがないのだから……
「あれですね、小さな隠し穴をどこかに作るとよろしいですね。アカビに改造を打診してみましょう」
しばらく扉の内側で、炎が鋼を押すうめき声が続いたあと。ほのかに割れた牡丹の園が、みしりと閉じた。とたん、扉の上の門灯がハッと思いだしたようにまばたきして、一瞬まばゆい光を放ち、扉の牡丹たちを照らした。黒に沈む花園を。
闇夜に沈む扉はしばしそのまま、ぴったり閉じていた。
しかし塔に架かる銀時計の針が音もなく動いて、午の文字の一歩手前を差したとき。
「ぁああああああ!」
鋼の扉が一瞬で、どばんと開き、中からあの青白い鬼火が投げ出された。
弾丸のように勢いよく、地に一直線。
「もうしわけありません、もうしわけありません!」
「さわぐでないわ」
地に刺さった身を引き抜き、蒼い鬼火がうろたえあわてる。その大慌ての叫びを、きんと冷たい声がさえぎった。
「そなたこの塔の
「でででですが奥さま、月が。月女のお顔が、恐ろしいお色でっ……」
「だまりやれ」
りんと透きとおる声の持ち主は、全開に放たれた扉のしきいをまたがず、その場に仁王立ちしている。漆黒の塔内に半分沈み、異様に白い顔ばかり目立っているが、白粉をぶあつく塗りたくっているようだ。おかげでいかほどの年齢か、皆目わからない。しかし長いまつげに囲まれた赤い瞳は、白磁の顔の中で爛々と輝き、ぽってりとした形よい唇と絶妙の均衡を成している。
一言で言えば、なんとも絵に描いたような美女だ。
秀眉麗目な顔を包む髪の色は、漆黒も漆黒。足もとまでとどく長さで、闇の中に溶けている。
重ねの衣は、白の
「どうかお慈悲を、奥様。塔の中に避難させてください」
「職務を果たせ、
「職務をおこたるなど
「茶はわらわがいただくわえ」
「そそそそんな」
「今日は一日中
「そ、それはお疲れさまでございました」
「むろん、今宵、わが君を満足させやるであろう月の巫女どのへの、深き
黒そでを口に当て、黒髪の美女はホホホと笑うと、両腕を広げて、ばずんと
蒼い鬼火があんなに苦労したというのに、たった一瞬で扉はびっちりすきま無し。
扉がしまる瞬間、黒そでからかいま見えたのは、なんとも野太い腕。
「筋肉隆々。修行の成果ですかねえ」
鬼火は嘆息した。我慢しきれず塔の中に戻れば、あの腕につかまれて、また放り出されるかもしれない。
「月の巫女へ謝辞を書いた? いやそれきっと、呪いのことばでしょうに。いやしかしまさか、奥様が一階に降りてこられるとはねえ」
一階に降りてきたのは、もしや主さまのお見送りをしようと思ってのことか。あの御方はそのために長い衣をひきずってきたのか。
「でもやっぱり恥ずかしくて、ご遠慮なさったのでしょうか」
もしかして、強い虫の知らせか胸騒ぎでも覚えたのか。月女さまの変色は、やはり凶兆なのだろうか? ああ、空を見上げるのが怖い……
りん、ごおんと、塔の中ほどから荘厳な音が流れだす。
鬼火がぽうっとおのが体の光量を上げ、いずまいをただし、扉の前でお辞儀した。
とたん――
塔の黒壁が、ずんと揺れた。
ぉぉおおおお……
はるか頭上から、音が降ってくる。
それは、この世のものとは思えぬ轟き。
ぐおおおおおお……
それは、なんともおそろしい
黒壁が激しく揺れる。扉がずずずと地鳴りする。塔が生える地は跳ね、その振動で鬼火も跳ねた。しかし鬼火はお辞儀したまま。空裂く
おぉおおおおお……!
おどろおどろしい
降り注ぐ声の嵐を浴び、鬼火の体はびゅうびゅう吹きすさんだ。なんと荒ぶる雄たけびか。吹き消されてしまいそうだが、鬼火はじじじとひたすら耐えた。
「いってらっ……ませ! ……さま!」
あまりの
ゆるりと頭を上げても、
吼えたける黒い影は
「なんと、お速い。あの漆黒の翼。ああ、あわれな生贄は、一瞬にしてひと呑みにされてしまうでしょうねえ」
黒髪の柱国将軍は
敵も味方も関係ない。目の前にいるものはすべからく、あの黒い影が吐き出す黒い業火に焼かれてしまう。目の前を横切るものあれば、次の瞬間こっぱみじん。いったいどれだけの眼力を持っているのか、まったく恐ろしい。
鬼火は待った。すさまじい飛翔音が、ぬばだまの闇に溶けゆくのを。
ああ、早く中へ戻りたい――
わが身を刺してくる悪気をめらめら焼きながら、すっかり音が消えるまで鬼火は頭を下げ続けた。
あでやかな、黒い牡丹の花園を背にして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます