第七話 兇夜(きょうや)
夜風が帝都を吹き抜ける。
帝都太陽神殿。刑法と軍部を司る、太陽神殿の本拠地だ。
「空をご覧くださいませ。
松の木が連なる庭園のすみっこ。巨大な合掌造りの本殿の窓辺に、必死の形相ですがりつく者があった。
その男は、恐怖に染まった叫び声をあげていた。
「この
月のリンシン。家格第二等の
リンシンは藍色の髪を振り乱して訴えていた。
なれど、太陽神殿の神官たちは、だれひとり反応しなかった。
ちんとんしゃらら、ふおーふおー。
神殿の広間に響くお
無情にも、圧倒的な音量で消していく。
「どうか、どうか、中止を……!」
なぜにリンシンが叫んでいるのか。
それは月の巫女姫たちが帝都太陽神殿に集められ、いよいよ
だが、山奥から連れてこられたクナはいまだに、その真実に気づいていなかった。
本殿の広間に入れられ、
(リンシンさん? なんでそんなに、さけんでいるの?)
クナは昨晩、帝都月神殿でお
天の二十八宿についてとか、
夫人は鬼のように厳しかった。クナはこっくりこっくり舟こぐ頭を何度も修正され、鼻先で手を打ち合わされ、「しっかりお聞きなさい!」と叱り飛ばされた。
そうして日が変わり、ちゅんちゅんと鳥が鳴く朝が来て、昼をすぎたころ。
『さあ、支度をいたしましょう』
クナはまな板のような平たい胸に手を当てられ、
夫人の手の熱さにびっくりしたクナを巫女たちがとり囲み、着付けがなされた。異様に重い衣を何枚も何枚も、これでもかと重ねられて、
『……
夫人はしみじみつぶやきながら、クナの目に
『昨夜も申しましたが、そなたは
『えっ、よびなじゃなくてですか? あ、あの、あたしでもまだ、三十さいになってないんですけど』
まだ十四のクナはとまどった。
三十才で大人になる。そのときに神官から大人の名前をもらう。
村ではそう定められていたからだ。なれど夫人は声を固くして返した。
『そなた、リンシンに喋るなと言われたでしょう?
『えっ、あ、すみませ――』
しーっと息を吐いてクナを黙らせた夫人は、クナの耳元で囁いた。
『そなたの村は少々特殊なようですが、すめらの神官族は十三から十五の間に成人の儀を行うのです。授けられた
大人になるときにもらう名前は、誰にも秘密にしないといけない。そこは村とおんなじなんだと、クナはこっくりうなずいた。
『さて。準備万端整いましたね。そなたはまだ戸惑っているでしょうが、心配はいりません。どこへ連れていかれても、何があっても、三つの戒めを守り通す。それがそなたのなすべきことです』
夫人は最後の最後、深く深く平伏してきた。まるで神々しい
クナの身に向かってではなく、床にじんと響いた声。それでクナは、夫人が伏せていることが分かった。
『マカリ姫。こたびの仕儀、まこと心より、感謝を申し上げまする。わたくしのたむけがせめて、御身を守りますように』
夜通し巫女の務めを教えている間の厳しさとは別人のような、弱々しい声だった。 それにまさか、拝み伏されるなんて。
(この人はこわいひと? やさしいひと? どっち?)
目が見えないクナには、わからなかった。
そのとき、畳の台座から降りて床に額をこすりつけた夫人が、眼からはらはら涙をこぼしていたことを。クナに真実を悟らせまいと、すまぬ、というひとことを必死に吞み込んでいたことを――
そんなやり取りを
『これより
リンシンは固い声で説明してくれた。クナの
帝都太陽神殿の門でいったん止まって、リンシンが門番に「つれて参った」と告げてから、建物の中へ入るまでの長さといったら。太陽神殿の敷地は、馬鹿みたいに広いようだった。
クナは迎えに出て来た四人の太陽神官に
一緒に来た月の巫女姫たちは、クナの左脇にずらりと並んだようだ。あでやかなお香の匂いとひそかな緊張のため息が、左の方からクナの鼻先に流れてきた。
そうしてじゃーんと
「どうか空をごらんください! 本日は大変、日がお悪いと存じます。中止できぬのなら、せめて日延べを!」
リンシンが庭から叫んできたのだった。
彼は他の従者が帰ってもひとり居残って、茶を所望した。一服を求めるは、しばし居座らせてもらうという意思表示。手荒く追い払われなければ帰らぬ覚悟であるらしい。
太陽神官は仕方なく
「今宵の月の色は不吉すぎます! 月の乙女を
(つきめさまが、あかねいろに?)
見えないクナは不安を募らせながら、頭の中でその色を思い浮かべた。
(あかね……ああ、カナイモのにおいのいろね)
クナは独特の方法で色を理解している。
カナイモの花は、あかね色。母さんからそう教えられた。
あの花のにおいは大の苦手だ。
(そう、あかねはカナイモのはな。とてもすっぱい)
鼻を抑えてきつい匂いに文句を言うと、姉のシズリが意地悪く笑ってきたものだ。
『ケチつけないで、役立たず。イモがなきゃ、牛が
(ねえさん……あたしをうって、もらったおかね、きっとやくにたってるよね? うう、それにしても、なんてけむたいの。せきがでる)
ほのかに甘い煙があたりに充満している。お香が盛大に
クナは両手で鼻と口をふさぎたいと思ったが、無理だった。何枚も何枚も重なっている衣のそでは、とても長くて重かった。
(そんな、うでをあげられないじゃない。どうしてこんなにおもいの?)
そもそもいきなり月の巫女にされるなんて、わけがわからない。でも従わないと、家族に渡ったお金が取り上げられる。
自分の務めはなんだったか。
柱国将軍に、神霊玉という力の玉を渡すべし。
月の夫人にそう言われたけれど……
(しんれいだまって、きのう、のめっていわれて、のみこんだものよね。つまり、からだのなかにあるんだけど。ええと、どうやって、たまをとりだせばいいの?)
月の夫人は、いろんなことを休みなく話していた。けれどついぞ、そのことは教えてくれなかったような気がする。いや、眠気に負けて頭が船を漕いでいる間に言われたのだろうか。
(まさかあたし、ききのがしちゃった?!)
クナがざっと血の気を引かせたとき、お
太陽神官が、これから柱国将軍たちのもとへ案内すると告げてくると同時に、クナの
(ま、まって!)
移動が始まった。
他の七人の巫女姫は、クナの前を進んでいっているらしい。押し黙って床に足をすべらせる気配が聞こえてくる。どうやら長い廊下を歩いているようで、姫たちの気配は少し進むごとにひとりずつ、右手の方へ消えていった。太陽神官たちが姫たちの名を呼んで案内していった。
「ああ、
姫のうちのだれかが湿った声を漏らすのを、クナは心細い思いで聞いた。
(ないてる……あたしもこわいよ。ああ、どうしよう)
クナの
つきあたりの部屋らしきところに直進し、そのまんなかにどっしりすえ置かれると、かつぎ人がそのまま、四方に座す気配が聞こえた。
目の前にひとり。左右にひとりずつ。そしてうしろにひとり。
右の人が出すトツトツという打音は、クナのじいさまが不機嫌なとき、いろりの前で出す音とそっくりだ。あぐらをかいてあごに手をあて、もう片方の手でひざを叩いているのかもしれない。
左の人がミシッと床を鳴らしてすぐに立ち上がる。右から左へ、左から右へいったりきたり、せわしない足音をたてている。
正面の人とうしろの人は、しきりに重苦しいため息をついている。数える間もなく交互になんどもなんども、まるで競っているように。
流れる風がひとすじ、クナの左のほおを刺してきた。窓がひとつあるようだ。
壁や床は、おそらく檜。建ったばかりのような、あの独特の、すがすがしくて新しい香りがする……。
「いよいよだな」
「ああ、正念場ぞ」
「無事終わればよいが、今回も無駄な願いであろうな」
「顔を下げておけよ。目を合わせるな」
これからここに、黒髪の
一騎当千の太陽の武官。クナの父さんもじいさまも知っている英雄のはずだが、耳に入る言葉はなんとも不穏だ。周りの人はなぜか厳しく警戒している。
なれど冷や汗たらたら
神霊玉を渡せと言われたら、一体どうすればいいのか。
玉はクナの腹の中。何か特別なことをして、取り出さないといけないのだろう。
でも今、だれかに聞いたら、不言の戒めを破ることになる。リンシンに報告されたら、家族を助けるお金がとりあげられてしまう。
焦りで、手足の先が急速に冷えていく。
(どうしよう……どうしよう……)
窓から鐘の音が流れこんできた。ごおんごおん、低く唸るような響きだ。
「真夜中を二刻過ぎた。方々、
あたりの空気がざわっと動いて、正面の人の気配が遠のいた。
「
「そうだな。何もせぬよりは、ましというもの」
「しかし黒髪の
「同意ですな。黒髪どのは一瞬にして千里を飛べるが、あの乗り物は荒ぶりすぎだ。帝都に住まえば、ゆるりと牛車で来てくれるであろうに」
りぃんりぃん
まうしろの人が息をつめ、なにかの楽器を鳴らし始めた。
りぃんりぃん ぃん
とたん、クナは驚いた。なんと澄んだ音だろう。いったいどんな楽器で奏でているのか、ただの鈴とは違うようだ。
りぃんりぃん ぃん ぃん
前の音が消えぬうちにまた鳴らされて、音が重なっていく。
ふわりふわり。音の連なりがあたりにどんどん広がっていく。
(なんてきれいなの……!)
クナの胸は、いっとき不安と焦りを忘れるほど
部屋いっぱいに音が満ちていく。空気がわななく。
(すごい! すごいよ! へやがふるえてる!)
『
かしこみ かしこみ お願い
四方の四人が、歌のような
(ああっ! これは……!!)
奇跡が、起こった。
まさしくあれだった。あの気配が降りてきたのだ。
かつて母さんがおろしてくれた、糸におりてきたあの感覚。
みえないものが感じられる。匂わないものが匂ってくる。ふれられないものにふれられる。あの、魔法のような不思議な気配が。
呆然としたクナは、頬にあたる風を感じた。
(わああ! かあさん! きれいなおと! きれいなおとよ! てんのきらめき、おどるかぜ!)
見える。
はっきり見える。
この風の色は――
だが、歓喜に満たされたのもつかのま。窓から刺してくる風の色に、クナの顔は固くこわばった。
頬にびりりと痛みが走った。
これは、月の光?
なんと痛い。なんと鋭い。針のようなおそろしい光が、頬を刺してくる。
月の光は、あの静かに燃える、美しいしろがね色ではなかった。
(こわい……なにこれ、すごくいたい! これが、あかねいろのつきのひかり? リンシンさんが、さわぐはずだわ)
クナが呆然としたとき。
「来るぞ!」「
「下がれ!」「くわばらっ……」
クナのまんまえ、真正面から、どずん、ばきばきと、世にも恐ろしい音がした。
小部屋の外へ逃げゆく神官たちから、悲鳴がほとばしる。
どうと吹き付けてくるのは、威力ある風。何かが目の前ではばたいているような音がする。砕けた木片がびしびし、クナの頬に当たった。
「ひいい! なんと手荒なっ」
「結界がさっぱり効かぬ!」
「毎度毎度、なんで突っ込んでくるんじゃ! わざとやってるであろう!」
「また建て直しかぁっ!」
一瞬にして、あの不思議な気配が消えてしまった。
りぃんの余韻がなくなる瞬間、クナの頬を打ってきたのは、黒い影だった。
部屋を破壊して目の前に押し入ってくるものが、ほんの一瞬だけ視えた。
それは肌を刺すあかね色の月光よりも、もっともっと、おぞましいものだった。
「な!? なにこれ!? なんなの?!」
それは、うごめく闇だった。
どろどろびちびち、這い回る何か。不気味としか、言いようのないもの。
形はある。あるにはあるが、腐っているかのように崩れている。
なんだこれは。
なんだこれは。
こんなものが、この世にあるなんて――
逃げなくては。
クナはそう直感した。
なれど体は重たい衣にくるまれていて、ほんの少しも動けなかった。
ばりばりめきめき、壁が壊されていく音があたりに響く。
鼻先にあるものからごうごうと、すさまじく熱い風が吹き荒れた。
いや、これは風ではない。
ぐおおおおおおおおおお!!
それは咆哮とともに吐き出された、吐息だった。
『
おぞましい声が、熱い息と一緒に飛んできた。
刹那。何かに力いっぱいはたかれて、クナの体はすっとんだ。重い衣ごと、真横に勢いよく。したたかに壁に打ちつけられ、
ごつんと激しく頭が壁に当たる。床にずり落ちるとともに、目に当てられていた錦の帯がほどけて落ちた。
衣の鎧がなかったら、クナの手足はばらばらになっていたかもしれない。それほどの衝撃だった。
『アレェ? ナンテ、ブアツイ包装紙ダロ』
「う……うああ……うああ……」
頭が痛い。クナは震えた。自分のこめかみからどろどろ、何かが垂れてくる。
「ち、ち……
『ヘヘ。オマエウマソウ。イママデ食ッタモンヨリ一番小サイ。デモウマソウ』
恐ろしいものが、息をぶしゅうと吐いた。その勢いでクナはまた壁に押し付けられ、頭を激しくぶった。
「やだ……たすけ……だれか……」
これが、
――「待て、
そのとき。おぞましいものの背後から、涼やかな声が降ってきた。
鈴の音よりも、今聴いた美しい楽器の音色よりも、なによりも澄んだ声が。
「その子を喰うな!」
一体誰の声だろう?
『ナニイッテル我ガ主。
「
(なんて、きれい……)
遠のく意識の中。クナは思った。まるで若草を撫でる風のような。天に舞い上る、ほのかに暑い初夏の風のような――
(うつくしい、こえ)
しかしクナの思いは声にはならず。
『イヤダァ食イタイ! 食イタイ! 食ワセロォオオオオオ!』
あたりにごうごう、おぞましいものの叫び声が吹き荒れた。
怒りの
今にも裂けんほど、激しく。
『コノシーロンニ、食ワセロォオオオオオ!!』
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