第2話 赤と青


「すごい、お湯が出るよ!」


 ホテルの一室。シャワールームからキサラが顔を出して興奮気味にそう言った。


 ちょっぴり運が良ければ、偽猫種フェーリカがかつての日常を維持するだけの努力をしてくれていることもある。


 彼らにはどんな言葉も通じないけれども、ホテルマンのサービスが受けられない代わり、エントランスからルームキーを失敬してくれば最高級スイートルームにも連泊し放題というわけだ。


「食事にしようか」


 付属の簡易キッチンが生きているのも僥倖だった。

 普段の食事はほとんどが保存食。だから、さっと焼いただけのスクランブルエッグも、この世で最高のごちそうみたいに思えてくる。


「いい匂い!」


「シェフ自慢のコースでございます」


 缶詰のコーンスープを暖めて、簡単なサラダと、炒めたソーセージにスクランブルエッグ。粉末のレモネード。焼きたてのロールパンでもあれば最高なのだけれど、乾パンで我慢してもらうしかないのは残念だ。


 ソーセージを大事そうに口に運ぶキサラの姿を、私は頬杖をついてじっと眺める。


 くりっとした鳶色の瞳。ショートカットに切りそろえたサラサラした栗色の髪の毛と、そこから覗く猫耳。


 外見だけなら偽猫種フェーリカと見分けがつかない、完璧な美少女。


「美味しい?」


「うん!」


 屈託のない笑顔は、私だけの大切な宝物だ。


 私にできることは、この笑顔を最後の時まで守り切ること。それだけなのだろう。


 その時がいつ来るのか、誰にも分からない。


 偽猫種フェーリカになる人間は、その前の晩に幻視をみるという。限りない地平線に太陽の昇る夜明けの夢を。

 「ほんとうの夜明け」。学者連中はそう呼んだ。


 いつ来るのか分からないものを恐れても仕方ない。


 私にできることは、とキサラの笑顔を眺めながら思う。

 それまでの間、キサラをこの世のあらゆる悲しみから守ってやること。このくそったれの世界の中で叶う限りの望みを叶えてやること。

 それだけなのだ。




 ベッドランプのやわらかな明かりの中で、私たちは静かに眠りの時を待っていた。


 キングサイズのベッドの上でではしゃぎ回って、キサラも私も少々お疲れモードだ。


 二人ではたいして盛り上がらないはずのトランプ遊びも、すこしは無聊を慰めてくれたし、ルームウェアに着替えれば、とりとめのないおしゃべりも立派な娯楽として享受できる。


 他愛のない会話のキャッチボールが途切れがちになり、一段落して、あとはもう寝るだけかなという時になって、


「ねえ……運命っていうものがあるとして」


 私はぽつりと言った。


「どうしたら運命から逃げ切ったって言えると思う?」


 ピルケースから二色のカプセル錠剤を取り出す。


「なあにそれ?」


「赤は苦しまずに死ねる薬」


「青は?」


「死ぬよりもっとひどいことになる薬」


「それってさ」


 眉をひそめたキサラは、うーんと考えてから言った。


偽猫種フェーリカになる薬ってこと?」


「正解」


 人間から偽猫種フェーリカへの変化は一方通行だ。

 いろんな研究者があらゆる方法を試したけど、「元に戻す」方法は、結局、見つからなかった。

 だから私にはこの錠剤が与えられた。運命に追い越されることのないように。


「ミツキは死ぬのが怖くないの……」


「怖くないよ。正確に言うと、どうでもいいんだ」


 偽猫種フェーリカたちの楽園となったこの世界で、人類最後の少女が死を迎えたとして、いったいなんだというのだろう?


「あたしはミツキに生きてて欲しいな」


「…………」


「運命が怖くて、逃げたっていい。死ぬのが怖くて、立ち止まってもいい。生きるのは恥ずかしいことじゃないよ」


「プライドの問題じゃなくて……」


「そうじゃなくて!」


 ガバッと身体を起こして声を大きくするキサラの気勢に、私はすこしびっくりする。


「生きているから色んなものを感じられるっていうか、生きているから意味があるっていうか……。ああ、なんだろう。うまく言えないけど……」


 上気して頬に朱を差した猫耳少女が、まっすぐにこちらを見つめてくる。


「約束してよ! ミツキは生きるって。あたしが、その……あたしがどうなっても!」


 その剣幕を前にして、私は折れざるを得なかった。


「わかったわかった、約束する」


「約束だよ」


 すねたような口調でそう言って、キサラは小指を立てた小さな拳をさしだす。


 ふぅ……と、ため息の私。


 小さな子供たちがするように、私たちは念入りに指切りをした。

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