チョコレート日記

曙 秋華

チョコレート日記

月曜日


 人間なんて気持ちが悪い。

ああ、ごめんなさい、誰も読まない前提でつらつらまとめているから、もし読んでもお気を悪くしないでね。

それにしても、一体人間って何様のつもりなのかしら。生物の上に立った気になってあんなに偉そうにしていたって、黒かったり金色だったりするただの点にしか見えないし。

じゃあなんで眺めているのかって? そういうお前は何様なんだって?

まず一つ目。自分で動くことのできない私は、ついこの間優しいおばさまに引き取られた。で、二つ目。私の寝床は二階のお部屋にあるの。そこからだと、外を眺めたくても空か向かいの家か人間の頭しか見えない。

最初はね、新しいおうちだって喜んだし楽しみにしてた。おばさまはいい人だから居心地にはなんの文句もない。

でもね、自分ではほぼ動けない私にとって、できることって数少ないの。

それこそ相手から動いてくれたりしないと難しいのね。ああそうだ、これを自分勝手だって言うような人を相手にする気はないからさっさとこの日記を閉じなさい。気に入らないからって暖炉の燃料にしたりしないで頂戴よ。

 で、人間の話だったっけ。そう、私ね、何度もいろんな場所を転々とさせられて正直かなり腹が立ってる。なんなの、みんな自分のことしか考えてないじゃない。

ここに来て、やっと安らかというか平和な生活ができるようになったものだから、もしかしたら人間にも一縷の希望くらいあるんじゃないかと思って毎日眺めているわけ。

でもさすがにつむじと髪色だけじゃなにも判断できないから愚痴も言いたくなるでしょ。まあ顔だけで判断するのかって聞かれたらなんとも言えないけれど。無垢で純情な乙女に見えても中身がまったく別人、なんてこともあるらしいし。

今までで唯一顔を見たのは、幼稚園くらいの男の子が転んで起き上がって泣いていたとき。それをカウントするのか、って話になるけど、だったらもう少し出来事を用意してから言ってほしい。

平日の昼間とかだと人すら通らない時があって、そういうときに向かいの家とか空も見るようにはしてるけれど、大しておもしろくない。平和でいいとは思うけどね。もしなにかあったらこの先書くようにする。

空はいい。一秒として同じ空はない。といってもさすがにそれだけを見つめていられるほど忍耐がないもので。

今日の空は……あれ、さっきまで晴れていたのに、どんどん流れる雲のスピードが速まって、大きくなって。もうこれ、雨が降るまでそんなに時間はかからないはず。まあでもそろそろ夕方だし、雨が降る前に帰れる人も多いかな。さて、どの頭まで濡れずに帰れるか、また観察開始。

空なんて見てなくて、呑気にゆっくり歩く人。あ、またスマートフォン見ながら歩いてる人発見。危ないからやめなさいよ。

楽しそうに走っていく小学生たち。ランドセルってかわいい。いいな、わたしもほしい。もう少し降り始めているのか、折り畳み傘を鞄から出してスタンバイする人。あなたは正しい。

いくつか点を数えていたら、本格的に降ってきた。みんな足早になっていく。

もう降ってきちゃったのね、ご愁傷さま。

鞄を傘代わりにかざして、なにかいいことあるのかしら。余計に被害が増えるだけじゃない?

あ、逆に長い傘をさして、持って、駅のほうに向かう人もいる。ああやって迎えに来てくれる人がいるのは本当にいいな。素敵。

カラフルな傘たちが私の下を通っていく。

こんなに人がたくさんいるなら、わざわざ濡れて帰ることを喜ぶ人がいてもいいのにね。

ああでも最近の雨ってなんだか危ないんだっけ? 酸性とかなんとか。

そう思ってメランコリーにやられていると、少し不思議な黒い点。傘をささずに、とぼとぼと歩く学生服。

あなたは急がないのね。私の中での好感度、今日一のハイスコア。

でも待って、こちらへ向かって角を曲がったあたりから、なんだか様子がおかしい気がする。どんどんスピードが落ちるというか。

周りの人はそれを全く気にせずそれぞれのペースで歩いていく。

あの子、一体どうしたんだろう。

私の心配をよそに、少し緩めの二つ結びがどんどん濡れて黒くなっていく。

この家の下で、その女の子はとうとう止まってしまった。

なに、具合でも悪いの。どうしよう、私、おばさん呼べるかな。

おろおろうろたえていると、その子は不意に、上を向いた。

否、私のほうを向いて、口元を何度か動かした。

それは一瞬のはずなのに、とてもスローモーションで。時が止まってしまった感じすらして。

その子は、泣いていた。ううん、大粒の雨がそう見せたのかもしれないけれど。真相のわからないままその子は腕で顔を拭って、再び前を向いて歩きだした。

今のは、なぁに。

真摯に見つめられたこちらがつぶされそうなくらいまっすぐな瞳。まだ幼い、けれども芯の通った強い表情。

それは、私を向いて――?

雨は嫌いじゃないはずなのに、今の私には窓に打ち付ける雨粒が何よりも邪魔だった。もっとよく見たかった。

その子の後ろ姿は遠ざかり、見えなくなってしまう。雨に濡れたセーラー服も、スカートも。黒い髪も。

痛いほどまっすぐな瞳が、あの一瞬が、私のものだったとすれば。

ダメだ、頭が、全身が熱くなってきて、考えがまとまらない。

どうしよう。

……ちょっとこれ以上はまともに文章が紡げそうにないので、今日はもうおしまい。でも明日からは、日記も少し意味を成すようになるかな。じゃあ、また明日。


火曜日

退屈だった私は、突如恋の熱にあてられておかしくなってしまいました。

よく考えるのよ昨日の私。

どうしてあれが私を向いていたと断言できる?

偶然泣きたくて空を向いたらここだっただけかもしれない。

でも、じゃあなんで立ち止まったの?

ああもう。

それ以前の話、私はまともに人の顔を見たことがない。

おばさんとか私をひどく扱ってた人たちを除いて、ほぼあれが初めてみた他人の顔なわけ。

それって、なんだっけ、刷り込みって言ってたっけ。

初めてみた相手を親だと思うあれ。刺激に飢えていた私は、初めてまっすぐ見た顔に惚れて恋をしました。

そんな馬鹿な。

一回落ち着いて。深呼吸。

だいたい名前すら知らないなんて、そんな絶望的な恋ないでしょ。私は出歩けないんだし。

神様が私に一瞬だけ見せてくれた夢だって言うの? 残り短い余生で日記のネタにしろって?

なにかの手のひらでいいように踊らされてるようにしか思えない。

こんなことじゃ、おばさんにも話せないし。

 そうだ、この家のおばさんといえば、結構謎なんだよね。

普通の一軒家なんだけど、夫はいないし子どももいない。たまにお友達がくるらしいけど、だいたい静かだし。

寂しいから私を引き取った、とか。でも、それなら一緒の部屋にしたりするんじゃないの? まあいいけど。

ああ、話題が逸れた。

だいたい恋なんてね、満足に動けない私みたいなやつにはお門違いでしょ。

私はこの狭い世界を愛しているの、って可哀想な女の子を気取っておしまいにしておけば幸せなの。みじめだけど。

もちろん周りにどうみられても良いから好きに生きたい、っていう人もいるだろうけど、限度ってものはあるしね。

あーあ。一縷の望みもなくて、もう笑うしかなくなってしまう。

誰なの、恋なんていう、こんなわけのわからない感情を生み出したのは。名前を付けたのは。

私なんかにかなえられるはずないのにね。

でも、いまの私に失うものなんてないし、きっと寿命もそんなにない。そう思うと、せっかく感じたこの激情、そのままにするのはきっと惜しい。

名前も知らない女の子に恋をしているなんてじゅうぶんお笑い種かもしれないけれど、大海を知らない蛙で終わるなんて愚の骨頂だもの。一度光をみて這い上がろうとして、それで底に落ちるなら大いに結構。

やってやろうじゃない。

もう一度でいい、こちらを向いて。私を見て。

そうしたらこの弱いからだも心も全部擲ってもかまわない。

名前も知らないあなたのために――。


さて、決意も表明したところで、日課。

今日は昨日の雨と打って変わって快晴。

きっと私の熱情が雲を吹き飛ばして……って冗談は置いといて。

そういえば、さっき飛行機を見た。まだ飛行機雲も残ってる。

一回乗ってみたいな。雲の上ってどうなってるんでしょうね。

それにしても、よくあの鉄の塊を飛ばそうと思ったよね。すごく謎。でもすごいとは思う。ほんの僅か落ちるかもしれない確率に、怖がる人の気持ちもわからなくはない。

…………。

えっと、書くことね。あんまりない。

もう通勤通学組は行っちゃったあとで人はまばらだし、あの子が通ったかはわからなかったし。

だって私まだ寝てたの。起きたときには、もう登校してるだろう時間は過ぎちゃってたの。

あの子のセーラー服。見たらたぶんわかると思う。

わからなくても愛でなんとか。って、それはさすがに無理か。

うーん、ずっとあの子あの子って呼んでるのもなんだか不便だな。暇だしなんかあだなでも考えようかな。

あの子。黒髪の二つ結び。強い目。セーラー服。背は、そんなに高くない。あとは、泣いてたかもしれない、ことくらい?

学校に行けば同じセーラー服の子はいるはずだし、校則で髪型が決まってるところも多いっていうから、二つ結びは珍しくないか。

わかった、じゃあ泣き虫さんね。泣き虫さん。

なんだかかわいい。一気に距離が縮まったというか、愛着がわく。

ああもうなんなの。結局あの子のことばかり考えてるし。

黒髪セーラー泣き虫さん。

なんで泣いてたんだろ。友達とけんかした? テストで悪い点数とっちゃったから親に怒られるのが憂鬱? 失恋、とかじゃないよね?

もうわかんないわかんない。

恋は盲目。恋する乙女は一直線。だめだ、恋とかで浮かれる人間なんて大っ嫌いなのに。

恋なんて馬鹿馬鹿しいとしか思ったことがなかったから、いざ自分が取り込まれると、気恥ずかしいを超えてもう開き直るしかないのよね。

嬉しいような気持ち悪いような。

そうだ、人間が一番愛せるのは自分自身なんだって、誰かが言ってた。私が愛しているのは何なんだろう。

でも、変な人が言った言葉だっていうし、鵜呑みにしないほうがいいってさ。

愛ねぇ。

ね、愛と恋って違うの? 前どこかで、愛は真心恋は下心、っていうのを聞いた気がする。

どちらにせよ心がないとだめなのね。じゃあ心ってなに。

私にもある? どの辺だろう。このへん? 

難しいなぁ。

いつも私の下を通るみんなは、あんなに毎日忙しそうにしてて、愛や心なんて考える暇あるのかな。

もちろん自分が直面してないと考えないだろうし、逆にいつでも愛について考えてるっていうのもちょっと変だけど。

私は暇だから、むしろ暇つぶしに困ってるくらいだったから、これを読んでいるみなさまの代わりに考えてみる。

もしよろしかったら、もう少しだけお付き合い願えるかしら。    


水曜日

私の寝床の横。だいぶ使われていない学習机。その上には、カラフルなペンが刺さっているペン立て。ちょっと気取った、おませな感じの筆箱。

これは、今私がいる部屋のこと。

今日は雨。今日こそはと思って早起きしたんだけれど、いくつもの傘が雨をはじくのが見えるだけで、泣き虫さんが通ったのか、いつくらいにいたのか、なにもわからなかった。そううまくはいかないみたい。

で、せっかくだからこの部屋についても書き留めておこうと思って。

机の反対側には本棚がある。

その本棚に並んでいるのは、よく見えないけど、漫画かな。

奥行きのある本棚みたいで、本の前にはこまごまとしたものが置かれている。小さいガラス瓶とか、アクセサリーとか。

あ、本棚の空きスペースにかわいいテディベアが置いてある。そのくまちゃんは、なんだか不思議なかたちのピンク色の物体を持ってる。

もしかしてあれ、ハートの片割れ?

セットのくまちゃんを二つ並べるとハートになりますよ、みたいな。

よく見るとそのピンクの部分にはなにやら刺繍がしてあるみたいなんだけど。

なんだろ。赤い文字で何文字か。

ここから、というか私の視力じゃみえない。断念。

片割れしかないってことは、もう半分は別の誰かがもってるってことかな。

お友達とおそろいとか?

いいなぁ。わたしもそういうことしてみたい。

本棚の隣には、鞄やら帽子やらがかかったラック。どれをみても、女物。

さっきから思っていたけれど、この部屋の持ち主はどなたなのかしら。

どう考えても、中学生とかそういうお年頃の女の子の部屋っぽいけど。

私がここに来てからそれらしき少女は一度も見ていないし、おばさんだってほとんど出入りしない。

……何か、わけありなのかな。

そうだ、教科書とかおいてないかな。学年とかわかるかも。

本棚にはいくつか辞書らしき分厚い書物が見つかったものの、教科書はない。

だめかぁ、と思って最初に見た学習机に目を戻す。すると、さっき言った筆記用具以外に、なにあれ、いろんな色の紙がいくつも折り重なっているのに気がついた。

紙っていうか、封筒?

お手紙ってとこかな。でも、重なっているものには宛名や差出人などはなにも書かれていない。

もっと変なのは、全部読まれたこともないように閉じたままで、並べられるでもなく崩れそうになっていること。

誰かに送りたくて送れなかったのかな。それとも、一方的に送られ続けてそのままにしてるってことも、ある?……ないか。

読まれないお手紙。どこにも行けない言葉たち。

私はなんだか少し痛いような悲しみを覚えた。

なんとなく暇だったから部屋の中を詳しく書き出してみただけなのに、どんどんこの家への謎が増えるばかり。この部屋の持ち主は、どんな人なんだろうか。

……はぁ、こんなつもりじゃなかったんだけど。

うつむいた私の目に入った、いくつもの背の高い本。

学習机の下、国語とか、数学とか。これ、教科書だ。

どの教科書の最後にも、二年って書いてある。二年ってだけだと中学生か高校生かわからないけど。

この部屋の主はやっぱり学生さんみたいってことね。

じゃあもしかしたら、泣き虫さんの部屋もこんな感じだったりして。

誰かにお手紙書いたりするのかな。お部屋はきれいなのかな。今何してるんだろう。

もっと、知りたいのになぁ。

 そうだ、もし私が泣き虫さんと同じ学校に行ったら、どうだろう。毎朝一緒に登校して、一緒に帰るの。

同じ制服を来て並んで歩くの。手なんか、繋いだりして。

……私のバカ、ここは妄想ノートじゃないんだから。

でも、この世で一番幸せなんじゃないかと思う。いっぺんにそんな幸せをこの身に受けたら反動で死んでしまいそうだ。

いいなぁ。私も、あの子と同じ世界に行けたらいいのに。1日だけでもいい、人魚姫みたいに足が痛くても泡になって消えても構わないから連れて行ってよ。    


木曜日

早朝。かわいらしい鳥の鳴き声で目が覚めた。

鳥さんがいるってことは晴れね。思ったより早い時間、朝日がきれい。

気分よく、なんとなく窓の下を見た。私は、時が止まったようになった。

あの、泣き虫さんが、歩いていく。

間違いない。あのセーラー服、二つ結び。

いくら声を出そうとも、届くはずはないのだけれど。

必死で目だけでもと追って、その曲がり角を曲がれば見えなくなる、というところで気が付いた。

あれ、泣き虫さん、なにか持ってる。黒くて大きいケースみたいなもの。

なんだっけ、あれ、なにかが入っているのよね。確か。

思い出せそうで思い出せない。なんだか高価で、まぶしくて、運ぶのが大変なもの。

あ、泣き虫さん行っちゃう。

いってらっしゃい。頑張ってね。

ああ、行ってしまった。でも、見れてよかった。鳥さんが起こしてくれてよかった。

それにしてもあれ、なんだっけ。

こういうときって考え続けてると余計わかんなくなるよね。

泣き虫さん、こんな朝早くから学校なのかな。

朝練ってやつ?

じゃあさっきのあの荷物もその道具?

うーん、でもなんだかしっくりこないなぁ。

泣き虫さんは、スポーツってよりは文化系のほうが似合いそうな感じ。

完全にイメージだけど。

そうだよね、部活とかやってるよね。

いいなぁ、みんなで力を合わせてなにかを作ったり、成し遂げたりするんでしょ。個人でやるのもいいけど、みんなでやってできたときのほうが達成感が段違いに大きいって聞いた。

そうか、ということは泣き虫さんも団体行動をして、仲間といるんだ。

その仲間は泣き虫さんと何かを作りあげて、肩なんか組んだりして、その声を感じて、その雰囲気を感じて、香りを間近に受けて、一緒に何かを作る。

ずるい。

でも、団体行動って難しいんだよね。私には向いてない。迷惑だけかけて何の役にも立たなそう。

同じ舞台に立つこともできない、一方通行の恋。

寂しいよ。

……ああ、考えすぎて頭が重い。

ぶんぶんと頭を振ったら、少し軽くなった気がした。

またしばらく退屈だけど、学校が終わって帰る時間になったら、また泣き虫さんが通るかもしれないからね。見ておかないとね。


追記

泣き虫さんは夜遅く暗くなってから帰ってきた。大事そうに黒いケースを抱えて走ってた。

でも、大事そうなのに、辛そうな顔をしていたのがすごく気になった。もうこれ以上はわからないや、おやすみなさい。


金曜日

今日も晴れ。でも昨日みたいに早くは起きれなかったから、行ってらっしゃいを言い損ねた。

今日も鳥さんが起こしてくれたらよかったのに。

でも最近いろいろ考えたり日記つけたりするせいか、ちょっと疲れてるのかも。この間恋に落ちたときみたいなパワーがあんまりない。

まあ仕方がない、ちょっとはしゃぎすぎたかな。

反省して、また静かで退屈な時間がくるかと思ったら、おばさんが部屋にやってきた。

あら、珍しい。

いつもと変わらない顔をして私のほうへ向かってきて、細く窓を開けた。

それから手に持っている小さなはたきで、ものを動かさないように部屋を掃除している。

掃除機じゃないのね。あれうるさいから好きじゃないし、別にいいけど。

はたきを使った掃除なんてすぐ終わる。ひとしきり終わってから、おばさんは私のほうを見て、悲しそうな顔をした。

なぁに、と聞いてみた。

おばさんは答えず、悲しそうな顔で見ているばかり。

どうしたの。ねぇ。

いくら聞いてもなにも言わない。

いつもなにも言ってくれない。

そんな瞳で見られたって私にはどうにもできないんだから!

お願いだからなにか言ってよ。

こっちまで寂しくなるじゃない。

私の声が届いたのか、おばさんは喉を震わせるのすら辛そうに、涙ぐんだ声でぽつぽつ話し始めた。

私は全身で台詞たちを受け止めていた。でも、言っている言葉が難しくてわからない。

私はここにいていいのかな。

その涙は私に向けられるものじゃない。見えない誰かだ。

話されてもなんにもできない私って無力ね、もはや自虐的な笑いしか出てこない。ああ、だからおばさんは私の話を聞かないんだ。お互いに一方通行なんだね。寂しいね。

おばさんはふと私のいるほうを見て、深く考え込んでいた。

あら、私なにかおかしいかしら。

見つめられたままどうしようもできない私は、ひかりって単語について考えていた。

おばさんの話の中に何回も出てくる言葉。

普通に私たちを照らす太陽とか照明のことかと思っていたけど、どうやら違うらしい。けど、じゃあ、なに。希望の光とか、そういう比喩みたいなこと?

いくら聞いてみても、やっぱり答えてくれない。その目に私は入っていない。

そう、そうね、私じゃどうにもできないものね。

結局おばさんは皺を増やして戻っていって、扱いづらい空気だけが残る。

……今日の日記、これでいいのかな。

このあと泣き虫さんを見かけることができても、手放しに喜べる状態じゃないし、この辺で終わりにしておこうかな。

もしおばさんに読まれたりしたら。それかこの部屋の持ち主に見られたりしたら。もし読んだとしたら、ごめんなさい。悪口じゃないのよ。私はおばさんに拾われて、泣き虫さんに恋をして、今までにないくらい幸せなんだから。

ありがとう、おばさん。

ああ嫌だ、遺言にするつもりなんてなかったのにな。大丈夫、まだもう少しあると思うから。おばさんに救われた命、最後まで使い切るから。もう少しだけ続けさせて。


土曜日

今日も晴れた。どうやらまた朝早くでかけた泣き虫さんらしい人を見かけることができた。

二つ結びを揺らして黒い箱を背負って走っていった後ろ姿は、たぶんあの泣き虫さんだと思う。

でも、今日も学校なの?

朝の早く出かける人が少なくて、スーツの人も少なくて、家族連れででかける人たちや車をよくみかけるから、今日は休日ってやつよねきっと。

泣き虫さんの部活らしきものは今日もあるのかしら。

大変なのね。純粋にすごいと思う。

すごいといえばね、今日の空がすごくきれいなの。雲ひとつない青空。なんだっけ、下の階のテレビから聞こえてきたのは、そうだ、小春日和って言ってた。

春っていうくらいだし、外は暖かいんでしょうね。私も外にでて遊んでみたい。自由に走り回りたいし、空を飛びたい。

泣き虫さんと同じ空気に触れたい。

ああもう、ほんとうに、なんでこんなに気になるの。

日記を始めようと思って、突然顔を合わせてしまって。恋に落ちて、気が付かなかったことにいくつも気が付いた。

世界に色が付いたみたい、ってよくいうけど、そうね、どちらかと言うと、私が色づけられた気がする。

思い人によって色づく乙女。いいじゃない。

そんな私の下の階から、なんだか今日は音がいろいろ聞こえる。動きが多い、気のせいじゃない。おばさん、なにしてるんだろう。あ、なんか不思議な香りがする。

顔を見ない日も珍しくないけれど、今日ばかりは気になってしまう。私が昨日なにも理解できなかったこと、怒ってるかな。あきれてるかもしれない。

ごめんね。ごめんなさい。

最近さらに体が鈍感で、なのに頭は軽くて、もうよくわからなくて。

いつが最後の泣き虫さんになるかと思うと、身が切られるような、針で刺されるような気持ちになる。

ここまで読んでくれている方へ、もしこの日記が途中で途切れたら、そういうことだから。

忘れないでなんて言わないけど、手を合わせるくらいしてくれたっていいのよ。

あーあ、こういうこと書いてたらほんとうに最期みたいじゃない。

せめてもう一度泣き虫さんの顔を見るまでは死んでやらない。

お願いだから。声を、温度を、瞳を、私に。


必死でなにかを願っていたような浅い意識から戻ると、お日様が落ち始めていた。

嫌だ、意識まで曖昧になってきてる、の?

うそ、嫌、そんな。……ううん、大丈夫、まだ書ける。

おばさんにも最期にありがとうって言いたいけど、また上がってきてくれるのはいつになるかわからない。

……ここに書いておけば読んでくれるかな。

でも急に終わりが近づくなんて、もう少しわかっておけばよかったし準備すればよかった。

日記もそのつもりだったのにね、熱に浮かされて忘れてた。

涙で歪む窓の向こう側、現れた影に体が硬直する。

ここから見える位置に、泣き虫さんが歩いてくる。

とぼとぼと、ゆっくり。出会いの日、そうしていたように。

彼女はいつかと同じように、足を止めた。今度は、きちんとした意思があるように、ドアの前で立ち止まる。

あの時泣き虫さんは天を仰いで、私を見つけてくれた。

そして今、その顔はもう一度私を向く。その瞳に私を映してくれる。

……ああ、お迎えが来る。

泣き虫さんは何事かをつぶやくように、口元を動かした。

瞬間、私は自分が終わるのだと悟った。

あなたの瞳に包まれて朽ちるんだもの、もういいの。やっぱり一目惚れは嘘なんかじゃなくて、好きだよ、あなたのこと。


短命の私に恋を教えてくれてありがとう。私はなにも返せなくて、ごめんね。………………。

    


月に一度訪れている、通学路の途中にある一軒家。

一瞬ドアの前でためらって、二階の光の部屋のほうを見上げる。いつも通り、だと思ったけれど、なにかが一瞬きらめいたように見えた。なんだろう、気のせいか。

ぴーんぽーん。

チャイムを鳴らすと、光とよく似た、光のお母さんの声がする。進藤ですとマイクに入れると、向こうはなにも言わずにインターホンを切り、急いで降りてくる。

「霞ちゃん。来てくれたのね、ほんとうにありがとう」

光のお母さんは、いつも優しそうな顔をして出迎えてくれる。

「お邪魔します」

「あら、部活帰り?」

「……今日、コンクールでしたから」

お母さんは私の荷物、ユーフォニアムを運ぼうとしてくれたけど、断った。

「そっか。どうだった?」

「駄目です。あんな部活でいい演奏なんてできるわけない」

「霞ちゃん……」

「すみません、荷物ここに置きますね」

これ以上この話はしたくない。するなら、光にする。

荷物を置いて向かうリビングの奥、畳の部屋。また前とは違うお線香の香りがする。

部屋の電気は消したまま、蝋燭に火をつける。

線香を手に取っていざ写真に向き合うと、話したかったことが全部どこかへ飛んで行ってしまうようで。

言葉も涙も飲み込んで、手を合わせる。

よりにもよって、光の命日に、こんな。あの部活のコンクールが当たるなんて。

もしあんなことにならずに生きていたら、一緒に出たのかな。優勝を目指してたのかな。

なんにも戻ってこない。誰も反省しない。私はあいつらを許さない。

ああ、だめだ、こんなネガティブばっかりだと光が心配する。空の上から今でもきっと、自分のことなんか二の次にして心配そうに私を見ている。

正座に疲れて、手で風を送って蝋燭を消して。気が付いたら後ろでお母さんも手を合わせていた。

「ありがとうね」

光のお母さんは毎回ありがとうと言う。その言葉は私には重すぎて、ほとんど零してしまうというのに。

顔を見るのは少し怖くて、うつむいたまま声を出す。

「……お母さんは、私のことを憎んだりしないんですか」

「どうして私が霞ちゃんを責めるの? 霞ちゃんだってつらかったのに、今でも部活を頑張っているなんてえらいじゃない」

「もう、やめますから。……私が光に好きだって言わなかったら、付き合ってる事がばれなかったら、私と出会わなかったら。光は自殺なんてしなくて、今でも笑顔で生きてて」

「霞ちゃん」

光のお母さんは、私を壊れ物かなにかのように優しく抱きしめる。

「私はね、霞ちゃんが光のことを好きになってくれて、大事にしてくれて、とても嬉しいの。女とか男とか関係なく、娘をこんなに大事に思い続けてくれる人がいるなんて、親冥利に尽きる。お願いだから、霞ちゃんは自分を責めないで、あなたはなにも悪くないの。感謝を言いたいくらいだもの」

娘を抱くように私を抱くお母さんの声が涙色に染まっていく。そしてそれは私にも感染する。

「光は、私に好かれて平気だったかな。幸せだったかな」

「光はずっとあなたのことを楽しそうに話していたし、幸せそうだった。あなたが大好きだったからこそ、迷惑をかけまいとして」

「光、光……」

もうお互い光の名前しか言わなくなっていた。涙が引いてきたころには、線香がほとんど灰になって落ちていた。

「ごめんなさい、いっぱい泣いちゃって」

「ほら、こんなに想われているなんて、最高に光は幸せ者でしょ?」

お母さんは優しい顔に涙をいっぱい浮かべている。

「ありがとう、ございます。あの、光の部屋、行ってもいいですか」

「もちろんよ」

温かい体を離れて、階段を上がる。

いつもどおり、誰にも読まれない手紙をポケットに入れて。

よく遊びに来た光の部屋。お母さんはほとんどものに触らないようにしているから、遊びにきたころとほとんど変わらない。

唯一違うのは、窓際で秋の日差しに影を伸ばす花瓶。

そっか、さっき光っていたのは、この花瓶だったのか。太陽光に反射していたんだ。

これはいつもあるもので、お母さんが欠かさずに毎回違う花を買って挿しているそうだ。

「あ……」

今日はなんの花だろうと思って見るも、それはすでに散ってしまっていた。

床に散らばった花びらがとても寂しくて、手ですくいあげた。生命を感じさせるあたたかさに、仄かにチョコのような甘い香りがする。

色も言われてみるとチョコレートっぽい。コスモス、かな。

花瓶を見上げると、部屋の隅、窓際に立てかけられたままの楽器ケースが目に入ってまた泣きそうになった。

『あれ、同じクラスの子だよね。あなたも吹奏楽部入るの?』

『私、ホルンだって。霞ちゃんは?』

『こんな近くに住んでたのに今まで出会わなかったなんて、不思議だね』

『……霞、私たち、このまま吹奏楽できるのかな』

光、私ね、あの部活やめるから。光を殺したような人たちと音なんか作れないし、そんなことしたって仕方がない。

ねぇ、光。

光は私に愛されて、幸せだった? 死のうと思ったのは、苦しかったから? それとも私のため? 

同性同士とか関係ないよ。私は光のことが大好きだったんだよ。今でも大好きなんだよ、忘れられないんだよ。

もし次会えたら、もしやり直せたら、その時は、一人で死を選んだりしないで。

周りになんと言われようと、迫害されようと、一緒に立ち向かおう。私たちの愛はなにもおかしくなんてないって、堂々と胸を張ろう。手をつないで、一緒に生きよう。

光の部屋の空気は私を包んでくれる気がして、少しずつ乾いていく花びらを握りしめたまま、再び涙を流していた。



チョコレートコスモス:恋の終わり、恋の思い出、移り変わらぬ気持ち


                            終

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