第三章 怨霊
黒い衣装の人物はびくりと身体を震わせ、声のした方向に眼をやった。
木々の隙間から現れたのは、同じように黒い服を身に着けた、立派な体格の少年である。
夜風から身を守るのは、黒いライダースジャケットだ。黒いデニムを履いているが、太腿と比べて膝から下の部分がゆったりとしていた。裾が広がるのを嫌がってか、ライディングブーツを履いている。
ぶわりと、風が強く拭き付けた。林が揺れる。さざめく木の葉の中に、白っぽいピンク色が混じる。雲が少しずつ横に逸れてゆき、月光が射し込んだ。月明かりを透かして煌く桜の花びらが舞う中に、黒衣を纏った、獣染みた少年が照らし出された。
ゴリラのように逞しい上体。象のようにどっしりとした下半身。顎に沿って浮かぶ無精髭はライオンのたてがみを想起させ、薄い唇から狼の如き牙が覗く。狐のように鋭い左眼が黒い衣装の人物を睨み、蛇のように見開かれた右眼が桜の樹上に座り込む裸体の女を眺めた。
柳生宍道であった。
そして黒い衣装の人物は、顔をマスクで覆っているが、あの花田耕太であった。
「や、柳生さん……」
思わず花田は、くぐもった声を上げていた。
「どうして、ここへ……こんな時間に」
宍道はしかし、花田の問い掛けには答えなかった。宍道の左眼は殆ど見えていないので、花田は視界の外にいる事になる。宍道が眺めているのは、樹上の女であった。
女の身体は、昼間見た時よりも燐光を強め、存在感を増している。だが、その下腹部から滴る血液は花田の身体に降り注ぐも、柴田が脚を切った時のように染み込みはしない。霊体、アストラル体、エクトプラズム……言い方は様々だが、そういうものであった。
霊的存在、或いは精神的物質、質量を持たないエネルギーがそのような形状に変化したもの。
「それ以上はやめるんだ。貴女を、怨霊にしたくない……」
「怨霊? な、何を言っているんです?」
花田が額に冷や汗を浮かべていた。宍道は花田に話し掛けているのではない。
女が、頸から血を流しながら、宍道の方に眼をやった。昼間見た時、彼女の眼は穏やかであった。だが月の光の中、血を纏う女の眼に湛えられた穏やかさは、抑え付けられた心の内の何ものかを引き千切るような、自棄になっているとも感じられる色であった。
「あんたの骸は、俺が弔ってやる。だからこれ以上、ここに留まるのはよせ……」
「――っ」
「早く、愛しい彼の所へ逝くんだ」
宍道の言葉を聞いて、動揺したのは花田であった。花田はがくがくと震えながら、ナイフを胸の前まで持ち上げ、宍道の方へ切っ先を向けた。
宍道が、花田の方へ視線を移す。月の光を湛えた右眼が、花田の心を見透かした。
「糞ッ」
花田は心臓を握り込まれたような気分になって、思わず、宍道に向けてナイフを投擲した。宍道が、用意に肉薄した青野を撃退したのを見ているからだ。だが、接近しての肉弾戦ならまだしも、ナイフを投げられては宍道も少しは怯むであろうと考えたのだ。
だが闇に煌いた銀の輝きが、放たれたナイフを弾き飛ばした。ナイフはくるくると回転しながら舞い上がり、花田の足元に戻って来た。一方、ナイフを弾いたものは、飛んで来たその先にあった樹の幹にぶっつりと突き刺さった。
それは銀色の棒であった。突き刺さったのは鋭利な円錐状の先端で、反対側にゆくに連れて径が太くなり、もう片方の端は丸みを帯びていた。ティアドロップを伸ばしたような形状だ。
「
女の子としては低めな声が言った。
花田がそちらを振り向くと、水埜琴音が立っていた。純銀製の棒を投擲したのは、彼女らしい。
「な、何の事です……」
「とぼけちゃって。花田耕太……それは貴方の本当の名前じゃないって、言ってるんです」
溜め息を吐きながら、琴音が花田に突き付けた。
「貴方の事を調べました。十三年前、佐倉高校に一浪した花田耕太という男子生徒はいませんでした。数年間遡れば、同姓同名の人間も出て来るとは思いましたが、花田という生徒は三年間の間でも二名、耕太という男子生徒は同じ期間内に一四名確認されました。但し、その花田という生徒の二名の内、一人は女子生徒でした。この女子生徒は、貴方が在籍していたと考えられる期間にいた人です。そして彼女……花田
琴音は続けた。
「一四名の耕太さんの内、
琴音は表情を氷のように凍て付かせようと努めたが、その大きな黒い瞳には隠し切れない哀しみを孕んでいた。
「二人は付き合っていて、高校を卒業したら同じ大学へ進学する事を考えていました。けれど、咲良さんが受験に落ち、別の大学に行く事になりました。二人で東京へ出られたという事では良かったのですが、それから先が、学生らしい浅慮さが露呈しました」
「手厳しいねぇ」
宍道が苦い顔をした。樹上を見上げると、裸体の女は静かな眼で琴音が語るのを聞いている。まるで何かを思い出そうとするように。
「同棲しながらそれぞれの大学に通っていた二人でしたが、咲良さんに子供が出来てしまったんです。学生の身分で子供を育てる事が出来ないと二人は判断して、堕胎を考えました。その為のお金を借りる為に、咲良さんは地元へ戻りました。その時、彼女は精神的に追い詰められた……」
琴音の顔も、苦々しく歪められていた。まだ未来に希望のある少女が、他者の罪を問い質す序章として話すには重たい内容である。
花田耕太改め梅田孝二は、眉根を寄せながらも、まだしらを切る心算でいるようだった。
「一体、何の話をしているんだ!? 柳生さん、彼女は何なんです!?」
「俺が代わろう」
宍道は琴音にそう言うと、梅田孝二に対して話し始めた。
「琴音がしたのは、岡村さんと花田さんの担任教師が知る限りの話だ。けれどそれは真実じゃない。世間的にはそれだけで片付いた不幸な一頁に過ぎないが、あんたには俺の言っている事がどういう事か、分かっている筈だ。さっき、うちのが東京に行って、色々と調べてくれたよ……」
うちの、というのは、宍道たちの活動をサポートする
真影寺に住してはいるものの、僧侶としての修行をしているのではない女性である。
「花田さんが進学した大学で、暴行事件があった。新入生歓迎会で未成年者に酒を飲ませてそのまま、ってぇ類の事件さ。花田さんはこの事を訴えようとしたが、その暴行犯たちから幾らかの金を渡されて被害届を取り下げている。泣き寝入りって奴だ。しかし彼女がその後、大学の校内で男性と頻繁に会っていた事が目撃されていたらしい。岡村さんでもないし、暴行した連中でもない。俺はそれが梅田孝二さん、あんただと睨んでいる」
「何を根拠に、そんな事を!?」
「おたくは高校時代、花田咲良さんに執拗に言い寄って交際を迫った。しかし当時から彼女と付き合っていた岡村さんに追い返されたって事があったらしいじゃないか。おたくはその後、自主退学して学校から姿を消した。地元にもいられなくなったおたくは独り、東京に出た。彼らを追って、な」
「そして咲良さんの動向を観察し、彼女が暴行され、泣き寝入りしてしまったのを良い事に彼女に接触し、関係を迫ったんだ」
琴音は唇を噛み締めながら、怒りを顔に滲ませている。
「彼女が妊娠した時、岡村さんは自分の子供だと思った。けれど本当は、おたくが無理矢理に作らせちまった餓鬼だったんだ。おたくは、彼女を支配した心算になって生むように指示をした。けれど彼女と岡村さんは互いに相談し合い、堕胎する事を決めた。彼女は地元に戻り、その事を家族に相談したが相手にされず、勘当されてしまった。おたくは地元に戻って彼女に迫った。自分の子供を産め、そうでないのならば――」
宍道は顔を持ち上げた。桜の樹の上に腰掛けている女は、宍道たちの話を聞いて、全てを思い出したようだった。穏やかでさえあった表情に、鬼気迫るものが浮かび上がろうとしている。頸や下腹部から流れ出した血が、彼女の皮膚の上に、鎧のように固まり始めている。
「彼女はそちらを選んだ。おたくのものになる事を、どうあっても拒んだんだ。お前はそんな彼女を殺害し、遺体をばらばらに切り刻んで、この場所に捨て去ったんだ――」
「違う、いい加減な事を言うな!」
梅田孝二が吼えた。足元から一度は投げ落とされたナイフを手に取ると、宍道に向かって突進しようとする。素手の相手にならば恐怖しなかった宍道でも、興奮して刃物を持った男には少しでも怯むと思ったのかもしれない。
「――やめろ!」
宍道は叫んだ。彼の大声に怯んだ梅田であったが、その言葉は梅田に向けたものではなかった。
梅田のすぐ頭上で、裸体の女――花田咲良の思念が、血を纏って立ち上がっている。その下腹部はぐっとせり出しており、凝固した血液の表面が人間の子供の顔に見える模様を浮かび上がらせていた。
すると、風にさざめく彼女の髪に感応したように、桜の樹の根元が掘り返された。土の中から現れたのは無数の根であり、それらはタコの触手のようにうねって梅田の手足に絡み付いて行った。
「な、何だこれは!?」
捉えられた梅田は、桜の樹の根元に向かって引き寄せられる。彼自身がこじって広げた孔の中に、顔をねじ込まれてしまったようだった。梅田は抜け出そうともがくが、彼を捉えた根はきつく身体を絞り上げて、皮膚を千切って血を吐き出させようとしている。
「宍道くん!」
琴音が鋭く叫んだ。
宍道は両手を胸の前で合わせた。宍道が合掌すると、その足元から蒼白い光が発生し、螺旋を描きながら宍道の身体に沿って上昇した。
気力と呼ばれる生命エネルギーである。
蒼い気は宍道の腕から合掌した掌に集まり、指をがっちりと組み合わせると、手の内側で密集した気の塊が作り出された。今度は手を開き、人差し指と中指を突き出した刀剣印に作り変えると、その指先に集中した気力が纏わり付いた。
「
宍道は裂帛の気合を込めて、刀剣印を振り下ろした。蒼白い光を湛えた指先は刃のように、梅田を捉えた根を切断してゆく。
素早く梅田に駆け寄った宍道は、彼の身体を根元の孔から引っ張り出した。すると今度は、その宍道に根っこが巻き付いてゆく。
宍道は気にした様子もなく、刀剣印を解くと開手を作り、気を指先に集中して腕を孔の中に突っ込んだ。そして桜の樹の根に向けて、聖なる気を放出した。
だがそれは、根を切断した時のような苛烈な奔流ではなかった。宍道は襲い来る根に身体を蝕まれながらも、飽くまで優しく、穏やかに、気を送り込んでゆくのである。
その宍道の傍に、赤い鎧を纏った花田咲良が降り立った。彼女は今度は、宍道の身体に直接、自分の怨みのエネルギーを注入しようとした。だが梅田と違い、清気に守られた宍道の身体に、彼女の血は染み込んでゆかない。
「あの男を憑り殺したからって、あんたが生き返る訳でもねぇ……だけど分かるぜ、あんたはあいつを殺したら、もう、怨みや憎しみでこの世に災いを齎すだけの存在になっちまう。そうなったら俺は、あんたをぶった斬ってでも祓わなくちゃいけなくなる。俺は……俺は嫌だ。死人に、しかも、人の悪意の所為で殺されたあんたを、今度は怨霊として殺してしまわなければならないなんて、嫌なんだ。あんたの怨みが大きい事は分かる、怒りも憎しみも……でも、あんたはもう死んだんだ。死んだ人間が、生きている人間を呪ったらいけないんだよ。それは、あんたを殺した悪意と同じ存在になるって事だからだ」
宍道は悲痛な声で語りながら、気をプッシュした。樹の根元に埋められた花田咲良の遺体が放つ憎悪や怨念を、少しずつ霧散させてゆくのだ。
宍道のすぐ傍に佇んでいた花田咲良の霊体の表面から、赤い鎧が剥がれ落ち、粒子となって溶けてゆく。それは悪性なものと化していた彼女の残留思念が、本来の無害なエネルギーへと還元されてゆく表れであるようだった。
鎧を引き剥がされた裸体の花田咲良は、口惜しいような表情を浮かべたまま、足元から少しずつ消滅して行った。宍道は根元の孔から手を引き抜くと、右手の指をぱちんと弾いた。指先に集中していたエネルギーが弾けて、清気も瘴気もゼロに返す。
すると、まるで花田咲良の思念こそが栄養源であったかのように、桜は一瞬にして全ての花を地面に落としてしまった。その地面にも、梅田や宍道を襲った根が掘り返した痕跡も、なくなっていたのである。
「な、何をしたんだ……」
薄ピンク色の雨が降りしきる中、梅田孝二が訊いた。
「怨みを残して死んだ彼女の思念は、この場所に留まり、この桜を媒体にして表出していた。憎悪や怨念は精神的物質であり、余程巧く扱わない限り、物質的存在に悪影響を与えるようになってるんだよ。それ自体は何も不思議な事じゃねぇ」
宍道は梅田がまだ握っていたナイフを取り上げた。
「こいつだって、人を殺すか、食べ物を細かく切るか、使い方次第で凶器にも便利な道具にもなる。心持ち次第で、道具も人も、植物も、何かを傷付けたり何かを癒したりするようになるって事さ。おたくを、世の中を怨んで死んだ彼女は、この桜の樹に……俗っぽく言うのなら憑りついて、祟ろうとしていたんだよ。俺の仕事ってのは、そういう憑き物や祟り物を、落としたり祓ったりする事でな……」
「あ……ありがとう、あんた、俺を助けてくれたんだ……」
梅田はすっかり緊張が解けたのか、その場でへたり込んで笑いを漏らし始めた。そして、自分が一三年前に行なった全ての事を語り始めた。誇らしげに、友人に思い出を話すように。
「俺はあの女が好きだったんだ。だのに、あいつは俺を、ゴミを見るような眼で見やがったんだ。岡村の奴は俺を一方的に悪人に仕立てやがって……お陰で俺は高校もやめて、大学進学の夢も失くしてしまった。でも、あの女もざまぁないぜ、Fランのバカ大学に進んで誰とも知らない連中にまわされて、しかも泣き寝入りしちまうなんてさ。少し脅してやればやり放題だったよ、岡村の奴がやった事もないような事をいっぱいしてやった。やってる時は何度も俺の事を好きだとか愛してるだとか言ったくせに、いざ子供が出来たら掌を返したように
遭難者が、救助された瞬間に張りつめていた緊張の糸を緩めて、そのまま安堵の中で死んでゆく事は珍しくないという。梅田孝二の告白はまさにそのさまに似ていた。
琴音は罪を誇らしげに語る梅田孝二を眺めて、今すぐにでも口汚い罵倒を吐き出したい気持ちを抑え込んだ。身勝手な男に対する嫌悪感が、琴音の中で膨れ上がっている。
宍道も同じなのだろう。梅田孝二を見下ろす細い左眼には、誰の眼にも明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。同じ男である事が恥ずかしくなるような、そんな男だった。
けれど宍道は、情動に任せて梅田孝二を殴り付けるような事はしなかった。それに、彼に感謝される謂れはない。何故なら宍道は、花田咲良の残留思念を還元したとは言っても、梅田孝二がこれ以上、彼女の思念に苦しめられないとは言っていないからだ。
「成仏ではなく、どちらかと言えば往生と言って欲しいものだな。……それはそうと、梅田さん。俺の仕事はさっきも言ったが、彼女のような怨みの思念に基づいて生まれた悪性のエネルギーを、無害なものに戻してやるという事だ。だがね、俗に言う怨霊って奴が今回のように、何らかの媒体を通じて発生するという事は、実は比較的珍しい例なんだ。良いかい、梅田さん、何度も言うぜ、悪性のエネルギーってのは精神的物質、生命エネルギーが変質したものだ。そして生物である限り、命ある限り、生命エネルギーの強弱や多少はあっても、それがなくなる事はない。常に何らかのエネルギー、波動、その影響を受けざるを得ないって事だ」
「――」
「人は怨霊に成ったりしない。人が人を怨霊にするんだよ」
宍道がそう告げた時、梅田は悪寒に背中を震わせた。そして恐る恐る背後を振り返ると、そこに、血みどろの花田咲良が佇んでいた。宍道が見ていた花田咲良ではない、今の彼女は臨月のようにお腹を膨らませ、更に全身から血をこぼし、そしてその表情は悪鬼そのものであった。
血涙をこぼす眼は吊り上がり、赤い涎掛けをした唇は耳まで裂け、到底、梅田が身勝手な恋をした花田咲良とは思われないものであった。
「ひぃぃいっっ」
梅田は悲鳴を上げて、その場から逃げ出そうとした。
その身体を、花田咲良の身体から迸った血液が、根のように絡み付いて捕らえた。梅田は地面に引き倒されて、仰向けにされた。
花田咲良に似て非なるそれは、梅田の身体に跨ると、妖艶に腰を振り始めた。梅田が仕込んだ褥の技だった。その血みどろの女が腰を揺するたび、下腹部からは血が滴って掻き混ぜられる。梅田の腹の上に広がってゆく血は、生き物のように蠢き、内側から餅のように膨らんだ。
「あ、ああっ、た、助けてくれ……何だ、これは、何なんだよぉ!?」
「――」
宍道は無言で、先程と同じように刀剣印を結び、女の身体を切り裂いた。だが、霊力の剣によって切り裂かれた部分は忽ち再生して、梅田を苛み続けた。
彼の腹の上で膨らんだ血の膜が、何かの生き物のような形状を作り始めた。頭部や手足をラップで包まれながらも、気にせずに前進してるようだった。むにぃ……と、血の膜が変形する。赤い膜が作り出したのは赤ん坊の顔であった。
「うわああっ、やめろ、来るな! 許して……許してくれぇ! 俺が悪かった、俺が、俺が……なぁ、助けてくれ、助けてくれよ、柳生さん! こいつを追い払うのがあんたの仕事なんだろう!?」
梅田は腹の上を這いずり回る、文字通りの赤ん坊からどうにか逃れようとした。だが、罪から逃れたいだけで真実の伴わない謝罪など、霊的存在には通じない。最後には宍道に助けを求めるのだが、宍道は冷たく溜め息を吐いた。
「そこまで来ると俺にはどうしようもないぜ。それはおたく自身が生み出している呪いだからな。おたくの罪悪感が生み出している幻覚だよ。おたくが心から彼女に申し訳ないと思わない限り、そいつは消える事はないだろうさ。どれだけ俺が祓っても、おたくの心の内側まで綺麗にする事は出来ねぇんだよ」
「そんな!」
「俺は助けを求められれば、何度でも手を差し伸べる心算だ。でもね、誰に対しても同情はしない心算でいる。だってそーだろ、治療を諦めている患者に尽くしてやる程、医者ってのは暇じゃねーんだぜ」
冷酷とも言えるくらいに、宍道は簡単に吐き捨てた。彼の見守る中、梅田は耳を覆いたくなるような悲鳴を上げながら、自らが生み出した怨霊によって自らを苛み続けた。
月は再び、雲に隠されていた。
「後味の悪い事件だったね……」
琴音はぽつりと呟いた。
宍道と琴音は、警察に通報して、あの場を後にした。警察とは式月グループを通じて繋がりがあり、後の事はその式月グループと警察に任せる事にしたのである。
これは、夜が明けてからの事であった。
宍道と琴音は千羽湖畔の桜並木を、並んで歩いている。粗野な容貌で大柄な宍道と並ぶと、琴音はまるで子供であった。美女と野獣という表現が、これほどしっくり来る組み合わせもそうそうないであろう。
梅田孝二は警察に保護され、取り調べを受け、明らかになった花田咲良殺害事件の捜査が始められる事となった。あの桜の樹は根元が掘り起こされる事となり、梅田の証言通り、花田咲良の白骨死体が発見された。
花田咲良の骨には桜の根っこが複雑に絡み付いており、鑑識は取り出すのに苦労したという。最後には根っこを切って、それごと遺体を取り上げたらしい。
不気味だったのは彼女の頭蓋骨で、頭蓋骨の各所の孔から入り込んだ根は、額の骨を突き抜けて生えており、それがまるで鬼の頭部のような形を作り出していたというのだ。
ただ、その鬼の頭蓋骨は既に割れており、祟りを心配する者は少なかった。
普通に考えれば、埋められてから一三年も経ち、複雑に絡み付いた根っこに突き破られて割れたという見方が出来る。だが鑑識によれば頭蓋骨が割れたのは、掘り出される直前であるようにも思われたという事である。
鬼になっていた花田咲良の頭蓋骨を、宍道が気のプッシュによって割り、彼女が怨霊悪鬼となる事を防いだ――というのは、出来過ぎているだろうか。
そういう話を聞いた宍道は、「出来過ぎだよ、それは」と一蹴して相手にしなかった。
自分が使う技術は、ごく一部の例外を除いて、精神的物質存在にしか通じない。例えば精神的物質に近い性質を持つ生物や、生命エネルギーを操る事に長けている人間に対しては効果を発揮するかもしれないが、死骸はただのものである。生命エネルギーを持たない物質的存在に、ダメージを与えられる能力ではなかった。
取り敢えずこれで、事件は解決したのである。
結局工事は、執り行われる事になった。地鎮祭をやってあの場所を清め、池を埋め立てて林を伐採し、当然、桜の巨木も伐り倒す事になった。あの林や、桜の樹は何らかの形で再利用される事になるだろう。
それを聞き届けた宍道たちは、早くも見頃を終えてしまいそうな桜が最後に煌くピンク色の吹雪の中、或る人物との待ち合わせ場所である千羽湖の一角に向かっていた。
湖の北側、ぽつんと建てられた東屋で、その男は二人を待っていた。
「柴田さん……いや、岡村耕太さん」
東屋に腰掛けていた柴田は立ち上がり、呼び掛けた宍道に頭を下げた。
柴田耕太――旧姓は、岡村といった。
東京の大学へ出たものの、咲良との問題で自然と別々になり、地元に戻って自棄になっていた所を高橋に拾われた。彼の紹介で、水門組系列の組織の女性を紹介され、婿入りする形で結婚した。だから柴田と名乗っている。
「あの時、あの場所に関係した人間で、怪我をしながらも誰もが見たという女を見なかったのは、おたくだけでした……」
作業員は皆、裸体の女――花田咲良の姿を見て、怪我をしたり、気分が悪くなったりした。
宍道は咲良の残留思念を見たものの、自身を霊エネルギーで守っているから、怪我をしなかった。
霊エネルギーを扱えず、咲良の姿を見ず、しかし怪我をしたのは、柴田・岡村だけであった。
あの場所へ行った人間で、霊力に疎い人間は、何かしら不調をきたしている。そうした形に、生命エネルギーが変質していたからである。その変質した気に当てられて、気分が悪くなったり、一瞬とは言えバランス感覚を失ったりして怪我をする。
柴田は暫く俯いてから、静かに口を開いた。
「あの場所は、二人で、良く行っていました……」
柴田が語ったのは、おおよそ、花田耕太を名乗った梅田孝二が話したエピソードと同じであった。
金がない学生が、恋人と静かに暇を潰せるのは、喧騒から隔離された自然の中であったのだ。
「俺も、人から教えられた事だったから、他にもそういう思い出がある奴はいる事は、別に不思議じゃないとは思っていました。だからあいつの話を聞いても、何も感じる所はなかったんです。梅田でしたっけ、そんな奴がいた事も、憶えていませんでした。……それに、あの子はもう死んでしまったから、あの場所が残っていてもしょうがないって、そう思ったから……」
柴田は拳を握り締め、肩を震わせて、鼻を啜った。宍道が琴音と共に、彼に背中を向ける。
琴音は立ち去り際に、柴田に言った。
「彼女は、貴方に、今の自分の姿を見せたくなかったのかもしれませんね」
「――ありがとう御座います」
柴田はその場に膝を突いて、頭を下げた。
「俺、やり直します。高橋の兄貴は、やくざとは思えないくらい良い人だし、真影寺さんたちのお蔭で、俺たち、外道にならずに済んでいます。でも、俺、やっぱり堅気で生きて行かなくちゃいけないっす。水門組に、盃を返さなくちゃなりません。あいつが、帰って来てくれたから……」
宍道は肩越しに、涙を見せないように額を地面に擦り付ける柴田の姿を見た。
彼の傍らに、穏やかな表情の花田咲良が佇んでいた。哀しみがある。怒りもある。憎しみや怨みもあるだろう。過去に受けた理不尽な仕打ちや、残酷な運命を呪う気持ちだって、完全になくなったとは言えない。けれどそれ以上に、ひれ伏して涙する柴田……岡村耕太への愛があった。
宍道と琴音は、桜並木を歩いた。
白い雲と、空の蒼さを映す水面、温かな日差しと、優しい風。
誰かが幸せであっても風は吹く。
誰かが不幸であっても花は咲く。
誰の為でもなく陽は射して、全ての人の為に桜は吹雪く。
人を怨霊にして自らを呪うのも人ならば、人を守護霊として自らと共に歩むのも人なのだ。
喜びも哀しみも怒りも、全てを呑み込んで世界は回るのだ。
「綺麗だね……」
琴音が囁くように言った。舞い踊る桜色の風が広がる景色の事だ。
「いつかは枯れるさ」
「ロマンがないな、君は」
「悪かったなぁ」
「だから、守るんでしょ――」
「ん……」
「いつかは枯れる美しさだからこそ、守るんでしょ、君は」
琴音の言葉に面喰ったような顔になりながら、宍道は薄く笑った。
「ったく、お前さんは、本当に素人染みてるなぁ」
「何ィ?」
「良いか、本当に美しいものはな、枯れねぇんだよ。悪意に敗けない正しい真実の心はな――」
宍道は、そう言った。
俺が守るのは、決して枯れない
そう言って、獣の王の名を持つ少年は微笑んだのだった。
桜の恋人たち 石動天明 @It3R5tMw
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます