第二章 祟り
宍道は高橋たちと連れ立って、件の工事現場まで向かった。
青野はその場で帰らせた。運転は柴田に変わり、高橋は花田と一緒に車の後部座席に乗った。
宍道は別の場所に停めていたオートバイで、彼らの後ろをついて行った。
高橋の車は、国産の中型車だった。昔のように高級外車を乗り回しているよりも、国産でそこそこ良い値段をする車に乗っている方が、やくざとして丁度良い。
中古の軽自動車などに乗っていれば、所属している組織の財力が衰えていると思われて、乗っ取りを図ろうとしている別の組織につけ込まれてしまう。逆に高級車などに乗っていれば、金のない連中にすり寄られて結果的に弱体化してしまう。
金があると演出しつつ、目立つような事はしない、これが昨今のやくざのやり口であった。
スモークガラスが張られた車を追い掛ける宍道のオートバイは、黒いスポーツタイプの中型バイクだ。
まるで船舶の先端のように、カウルが前方に向かって突き出し、尖っている。
タイヤは分厚く、どんな場所でも走行が可能であった。
“黒蓮華“と、宍道が名付けているバイクだ。
製造は、式月重工業。
式月グループの傘下の工場で造ったものである。
宍道は個人的に式月グループと交流があり、マシンのデータを提供する事で、税金や車検代などを払わずに、好きに乗り回す事が出来ている。
高橋たちの車と、宍道のバイクは、千羽公園の駐車場から国道沿いに走ってバイパスに合流し、暫く直進を続けて、西広門田町の辺りで左折した。
うらぶれたガソリンスタンドと道路を挟んで向かいに、小さな池がある。宍道たちがやって来たのは、その池の畔であった。
池の周囲は林になっており、特に何かに使われているという事はないようであった。
宍道たちが左折した道路も決して広いとは言えず、広げられるならば広げた方が良いと思えるくらいである。
適当な所に車を停めた宍道たちは、池を含んだ林の中に足を踏み入れた。
すると、バイパスを行き交う車の騒音が、少し遠退いたようであった。道路の近くとは思えないくらいの清涼な静けさが、林の中にはあった。
「こっちの方も潰すんですか?」
宍道が、高橋に訊いた。
「その予定です。池も埋め立てて、向こうまで道を通す事になっています。それと林の方は平らにして、何か建物でも造る予定だとかで」
「過疎ってテナント募集になるのが見える見える……」
「予算の問題ですから」
そんな話をしながら、高橋と宍道は、先導する花田と、彼を見張る柴田に続いた。
すると、それまでは大柄な宍道が真っ直ぐ歩けないくらいに密集していた木々が開け、ぽっかりと空いたスペースが現れた。その中央に、花田が言った桜の樹が伸びていた。
「これは、また……」
宍道はほぅと息を吐いた。
背丈で言えば大した事はない。周りの林よりも低いくらいで、だからこそ道路からは見えなかったのだろう。だが幹の径は巨体を売りにしているプロレスラーが四、五人腕を広げても囲み切れないくらいで、花も見事であった。
「ソメイヨシノ……じゃ、ないですね。新種かな」
日本には主に一〇種類の桜があるが、その殆どはソメイヨシノである。桜は交配によって様々な種類が生まれ、同じものは二度と生まれない事が基本である。しかし江戸時代、ソメイヨシノの美しさに感歎した人々が、接ぎ木によってクローニングしたのが、今、全国に一斉に開花するソメイヨシノの正体である。
それとは異なる種類であった。色はヒガンザクラ、咲き方はボタンザクラに似ているかもしれないが、やはり少し違う。
それに何より、花田が言ったように、その根元が凄まじくねじくれて絡み合っていた。まるで蛇の交尾のように、地上から抜け出そうとして別の根に巻き込まれ、螺旋を描いて上昇する。
それでいながらも一定の高さまで伸びようとすると横方向に転換し、自重で落下してしまったと思しき太い枝も、幾らか確認された。
「これを伐って、根っこも全部掘り返して、平らにする予定です」
高橋が言った。
「そんな!」
花田が悲痛な声を上げる。
「別に、この樹を伐る必要が、どうしてもあるって訳じゃないでしょう? それに見ての通り珍しい形をしていますから、観光名所にもなると思いますし……」
「ここじゃ交通の便が悪過ぎるんだよ。地元の人間が散歩で通るんなら兎も角、他所から引っ張って来る事は出来ねぇだろうな。集客を見込めねぇ観光名所なんざ、意味はねぇのさ」
高橋は吐き捨てた。
花田は高橋に何とか桜を伐らずに済ませてはくれないかと頼むのだが、高橋は決して首を縦には振らなかった。
宍道は桜の周辺を回って、その全体像を把握しようとした。
――こいつは手間だぞ……。
その太さもそうだが、根っこの部分も、余った予算くらいで掘り返すには些か大仕事になりそうだった。確かに高橋の言う通り、集客は見込めないにしても、珍種という事で保護しても悪くはなさそうである。
だが宍道の視点は、それだけではなかった。
――これは若しかすると……。
そういう顔であった。
すると、高橋のジャケットの内側で、彼の携帯電話が着信音を鳴らした。
高橋が電話に出る。
「もしもし――ああ、工事の……」
宍道は、どうやら現場に出て来る誰かからの連絡だろうと察した。
高橋が電話の相手をしている間、宍道はしみじみと桜を見上げていた。
と、不意に背筋がぞわぞわと、悪寒のようなものを覚えたのに気付く。
――何だ?
振り返ってみるが誰もいない。再び桜の根元に顔を戻した時、そこに、それはいた。
女だ。
まだ若い、黒髪の女が、白い裸体を晒して、ねじくれた木の根元に身体を丸め、背の低い椅子にそうするようにして腰掛けていた。
乳房や局部は、長い髪によって隠されている。ほっそりとした四肢は、美白と言うよりは不健康な蒼白さであった。
薄く、燐光を纏っているようにも見える。
人間ではない事が、宍道にはすぐに分かった。余程の手練れでなければ、接近する気配を感じ取れない筈がないからである。ましてや裸体の美女が要れば、若い瞳は釘付けになってしまう。
宍道は、周囲から音が消えたような錯覚に陥った。美女の魔力である。だが、邪悪な思念ではなかった。何かを求めているようではあったが、宍道に危害を加えようとしているのではなかった。
――何だ? 何か言いたい事があるのか……。
宍道は美女に問い掛けようとした。思念体との会話に言葉は要らない。向こうがこちらの思いを汲んで、反応してくれればそれが答えになる。
宍道を現実に引き戻したのは、柴田と高橋、それぞれの声であった。
「痛っ!」
「何だと!?」
宍道の世界に、音が戻って来た。
先ず痛みを訴えた柴田の方に眼をやると、その場に蹲った彼のズボンの裾から、赤い液体がこぼれている。突き出た枝で、脹脛でも切ったのであろうか、かなりざっくりとやられており、血液が靴の中にまで染み込んでしまっていた。
そして高橋は、電話の向こうの相手と何かを話しているようであった。
「工事が中止って、どういう事だ!?」
「――つまり、総合すると……」
「結局、その桜の樹を伐り倒す事は、なくなったって訳ね」
千羽公園に隣接した藩主庭園の中に、藤棚が造られている。
支柱から藤の蔓を絡ませ、桟の端から花の房が垂れ下がるようにしていた。
まだ季節ではないが気温は高めなので、急いたように色付き始めている。
藤棚の下にベンチが二つ、並んで置かれており、宍道と琴音はそれぞれ腰掛けていた。
水埜琴音は、如何にもと言った様相の美少女である。
黒い髪を二つに分けてゴムで括っている。髪の分かれ目に覗く白いうなじが、年齢に見合わぬ妖艶さを醸し出していた。
身長は低めで、胸元をざっくりと開いたセーターにも、起伏が少なかった。黄色い薄手のカーディガンを羽織っている。
しかし下半身にはそれなりの肉付きがあり、ハーフパンツから伸びるタイツに包まれた脚は、密集した筋肉で引き締まりながら、むちっとした女性的丸みを作り出している。
「そういう事になるな……」
宍道は琴音に頷きながら、甘酒を啜った。
藤棚の裏手に売店があり、そこで売っているものだ。
琴音も同じように、紙コップに注がれた甘酒を口にしている。ほんのりと頬がピンク色に染まって、同級生と比べるとやけに色っぽい。
猫のように吊り気味の眼を細め、桜色の唇を開いて兎のような前歯を覗かせながら、甘い吐息を醸させる。
「で、その理由が、桜の祟りだっていうの?」
「実際はどうか分からんがね……」
宍道は、高橋から聞いた話を、琴音にもしたのである。
昨日、高橋が受けた電話の内容は、掻い摘んで言えば次のようなものであった。
曰く――
宍道たちより前に、工事の主任をする事になった人間が作業員を連れて、現場にやって来ていた。
何処からどのように手を入れるか、それを頭に入れるのだ。
林の奥に入ってみると、例の桜を目撃する事となる。
手こずりそうだとは思ったが、やってやれない事はない。
予算をオーヴァーしそうだとは思ったが、これについては市の問題である。現場の人間は金を貰えればそれで良かった。
今の内に早速、樹を伐り倒す目印を付けて置かなければいけなかった。
樹を伐採すると言っても、やたらめったらにチェーンソーや斧を入れれば良い訳ではない。
どの方向にどのように倒すか、それを決めてからではないと、伐り倒す事が出来ない。出来なくはないのだが、次の樹を倒す時に足場が確保出来なくなったり、伐り倒した樹が道を塞いでしまったり、別の樹に被さってチェーンソーを入れる邪魔になってしまったり、する。
取り敢えず周りの樹を伐り倒してから、中央の桜をやっつけるという風に考えた。
その桜をやるにしても、上の方の太い枝を伐り落してから、重機で根っこを引っこ抜くという方法を採る。
周りの樹に印を付け、桜の上の方にも、同じようにやろうとした。
と――
作業員の一人が、妙な事を言い始めた。
“裸の女がいる”
最初は、欲求不満な若者の冗談かと思った。真面目に仕事をしろと叱責して作業を続けたのだが、最初に言い出したその作業員が、怪我をした。
そら見た事か、彼がふざけていたと思っていた他のメンツは、そう言って笑った。
現場監督が厳しく叱責した。
その場の作業を終えて、一同は現場を後にする事にした。
他にも、工事をしなければいけない場所があるのだ。
すると、その移動中に一人が気分が悪いと言い出した。
別の作業員は、いつの間にか手を切っており、どくどくと血を流していた。
そして最後に、運転手がハンドルを握っている最中に意識を失って、事故を起こした。
乗っていた人間は全員、むち打ち程度で済んだのだが、作業は出来なくなってしまった。
“若しかすると、これは桜の祟りではないだろうか”
事故を起こした作業員たちは、そんな風に言い始めた。
自分を伐り倒そうとする人間たちを、桜の樹が呪ったのではないだろうか、という事である。
誰もが本気にしない一方、そういう気持ちにもなって来た。
運転中に意識を失った作業員が、病院で眼を覚ました時、彼はこのように言っていた。
“裸の女がいる”
最初に怪我をして怒られた作業員と、同じものを見ていたのである。
気分が悪くなった者も、知らぬ間に手を怪我していたものも、同じように証言した。
現場監督もやはり、その裸の女を見ていたのであった。
一同は奇妙な一致に恐れをなして、工事の中止を提言したのである。
工事をするなら、他の場所をやった方が良い――
その伺いを、高橋に立てるべく連絡を入れたのであった。
「それに、まだ問題は保留って所らしい」
「工事をやるかやらないか?」
「うん。今回の工事を提案した市議だか何だかによれば、あの場所に道路を開通する事で、琴吹植物園やさくらの牧公園なんかにも行き易くなるし、西広門田の交通の便も良くなるってんで、是非ともと前々から言っていたらしいんだ。だから、祟りくらいじゃ中止にはしたくないんだろうさ」
宍道が言った。
単に予算を使い切りたいだけという話でも、なかったらしい。
「じゃあ、何か、やるの?」
「地鎮式みたいな事か? 気休めでも、やる心算ではあるだろうな」
家を新しく立てたり、道を開拓したりする時、何らかの儀式を行なう風習はまだ残っている。それにどれだけの効果があるかは分からないが、宍道の言うように、気休めであってもやらないよりは、精神衛生上良いという事もある。
宍道から言わせると、そういう儀式の多くは気休めの為のものだ。無論、軽んじている訳ではない。病は気からと言うように、何らかの儀式によって気を高潔に保って置く事で、不慮の事態に遭っても動揺したり錯乱したりしないで済む場合もない事はないと、そういう意味合いを持っての事だ。
「何なら、宍道くんがやったら?」
悪戯っ子のように、琴音が言った。
「俺じゃねーだろ、やるなら、親父だ。俺はまだ沙門だからな」
地鎮式をやるとなれば、出向く事が多いのは神主である。
しかし別に、宍道の父親が神主である訳ではない。
慣習的に、神道の人間に対して沙門という言葉は使わないからだ。
沙門とはサンスクリット語のシュラマナの音写語で“努力する者”、転じて修行者の事である。特に仏教修行者の事をして、そう呼ぶ事が多い。
宍道の父親は僧侶である。だから、仮に地鎮式をやるのであれば、沙門である宍道ではなく、僧侶である宍道の父親の仕事であった。
宍道が僧侶でないと言うのは、一先ずは年齢の事である。僧侶になるには自身の宗派から認められる必要があるが、この際に行なう出家には年齢制限があり、二〇歳を超えていなければならない。宍道はまだ学生であるから、この条件を満たしていないのだ。
「尤も、何処の誰とも分からない坊さんより、ヌシカンさんに頼むのが筋だわな」
飛鳥時代から江戸時代まで、仏教は国教であった。しかし文明開化によって、腐敗した仏教は国との結び付きを絶たれ、国産の宗教である神道が国教に返り咲いた。
今回の一件は市が委託した公共事業であるから、その地鎮式を担うのは国教である神道の人間であるべきだった。
「とは思うが――」
宍道は甘酒を飲み干して、唸った。
紙コップを握り潰し、折り畳んで、掌の中に隠せるくらいのサイズにしてしまう。
「あれは、あの桜を見ても分かるが、だいぶ手こずりそうだぜ……」
「その女の人の……霊? そんなに凄い怨霊なの?」
「怨霊? 素人のような事を言うなよ、人は怨霊になんか成らないよ」
「――そうだったね」
「人を怨霊にする事はあるかもしれないが、好き好んで怨霊に成るような人間はいない」
「じゃあ、その女の人は……」
「残留思念ではあるだろうがね。何を思って死んだのか……ちょいと調べる必要があるなぁ」
「でも話を聞く限りじゃ、その花田って人の恋人だったりして」
琴音が思い立ったように言った。
花田があの桜を伐らないよう懇願したのは、あの場所が、恋人との思い出の場所だからだ。その場に現れた、早世した女性の霊となれば、その事を連想するのも仕方がない。
「それも含めて、さ。第一、そうだとすれば花田さんがまだあそこの工事を知らないであろう内に、作業員たちが彼女の霊を見たのはおかしな事だからな」
「それもそうか……」
仮にあの女性が、花田のかつての恋人であるとすれば、あの場所で、花田を伴っていた宍道が見た事は特別に不思議な事ではない。
事前に花田の話を聞いて、あの場所がそういう場所であるという先入観が、宍道の中に生まれていたからだ。
あの桜の樹に何らかの霊的なエネルギーが宿っていたとして、先入観のない宍道にはその事が分かるかもしれないが、あの女性の姿になって浮かび上がるという事はない筈である。
「柳生さん――」
と、その話題の花田がやって来た。高橋たちに駐車場まで送って貰い、彼らから改めて謝罪をされて、宍道と合流する事になっていた。
琴音は、その間に呼んでいたものである。
「それじゃ、私――」
「ああ、よろしく」
琴音は花田に軽く会釈をして、その場を立ち去った。眼の前にやって来た花田の事を詳しく調べる為である。
宍道はもう一杯、甘酒を貰って来て、花田に手渡した。
陽もそろそろ斜めになっており、風の冷たさが勝って来る時間帯である。花田は駐車場から庭園の藤棚まで歩いて来るのに冷えてしまった身体を、甘酒で温めた。
「今日は、ありがとう御座います、柳生さん」
「大した事じゃありませんよ」
「でも、柳生さんって一体何者なんですか? 彼ら、貴方の事になるとすぐに……」
「ただの沙門です」
「しゃもん?」
「これですよ、これ」
宍道は両手を胸の前で合わせてみせた。合掌――
そういうポーズを取るのは、僧侶くらいのものである。花田は、ああ、と頷いた。
「水門組の人たちとは、祖父さんの頃からの付き合いでしてね――」
宍道は簡単に語った。
戦後、権力を失った警察の代わりに、闇市の取り締まりや犯罪行為に手を染める人々を抑え、又、一部の進駐軍による暴虐に対抗する為に、任侠が自警団のような事をしていた時期があった。
しかし時が経つに連れて任侠はやくざへと変わり、住民たちを力で脅して抑圧するようになる。
今でも警察は、暴力団追放を謳いながらも彼らとの繋がりを断ち切れていない。それは、かつて警察力を失った自分たちの代わりに、自警団として働いていた彼らへの負い目である。
宍道の祖父は、元々は東京の出身で、生粋の江戸っ子だった。或る事情によってこちらにやって来て宍道が現在住している寺の住職という事になったのだが、その頃の町に蔓延っていた暴力団を許せず、大立ち回りを演じて勝利を収めたのであった。
その祖父は宍道が三歳になる頃に亡くなっている。宍道の記憶で、祖父は寡黙な性質であったので、息子――宍道の父にも、自身のかつての武勇伝を語ろうとはしなかっただろう。
しかしこの祖父の大暴れが、水門組には伝説として語り継がれており、決して悪の暴力団には堕ちず、任侠としての組織として活動する事を決意するきっかけとなっている。
その証として、宍道たちと水門組は繋がりを持っているのであった。
又、宍道の住する
“
かつて将軍徳川家康の命により、鬼門守護の任を帯びて三三の密教集団が常陸国に置かれた。廃仏毀釈に際して多くが失われた中、今でもひっそりと教義を受け継ぐ内の一つであった。
そして宍道は、“裏鎭西”を始めとする様々な霊能力者、宗教的超能力者の中でも高位の実力者である事を証明する“
“裏鎭西”や“黒衣の獣王”の事は伏せたが、簡単に水門組との付き合いについて、宍道は花田に話した。
「凄いですね……」
花田はそう言うのだが、宍道はかぶりを振って、
「凄いのは俺の祖父さんや親父です。俺はそれに乗っかっただけですから」
と、自嘲気味に言う。
実際その通りだと、宍道は思っている。
“真影寺の息子”、“柳生の倅”、そう言われる事を厭う気持ちはあるが、その分、他人よりも幾らか優れた人脈を確保する事が出来ている。
人から讃えられる事があるとすれば、それは真影寺・柳生の名前を掲げているからであって、宍道個人には肉体的な能力は兎も角、社会的価値のある力はこれっぽちも存在しない。
自分が真影寺から出てゆき、跡目を継ぐのを放棄すれば、水門組だって敬語を使うのをやめるだろう。
そういう事が分かっていた。
「何にしても、今回は本当に、ありがとう御座いました」
花田は何度も、宍道に頭を下げた。
「いえ、まだ貴方の思う通りになるとは限りませんよ。飽くまでも工事が保留になったというだけですから」
「あ、そうか、そうですね……」
「ま、伐られたら伐られたで、それもやむない事ではあると思います。変わらないものなど何一つない……それがこの世界の摂理の一つですから」
諸行無常――
生生流転――
全ての事は常ならず、生きとし生けるものは全て流れて転じゆく。
草も花も樹も、村も町も建物も、昆虫も鳥も動物も、思い出や記憶さえ、時間の流れの中で風化して劣化して霧のように溶けてゆく。
そういう思いであるから、宍道はいまいち、花田の懇願に乗れなかった。その一方で、人が、やがて来るべく哀しみの喪失を喜ぶよりも、今の喜びが消滅する事を哀しむ事を分かっている。だから、例えいつかは消えゆく思い出やその場所であっても、花田が執着し、失いたくないと思う気持ちも理解出来るのだ。
「それにしたって、時間は少しも出来た訳です。今の内に、あの思い出の場所で、恋人さんとの懐かしい記憶を堪能するのが良いでしょう」
「――はい。重ね重ね、ありがとう御座います……」
花田は最後に深く頭を下げて、踵を返した。
宍道は花田を見送った。
いつの間にか、空が仄暗い藍色に侵食されようとしている。
庭園は高台にある為、常に斜面を這い上がって来る風に晒されている。
藤棚から出た宍道は、もうすぐ季節を終えようとしている梅の花と、遠くから風に乗って流れて来る桜の花びらの狂宴に、ほぅと息を吐いた。
月の光が翳っている。
さっきまでは雲の隙間から、蒼白いとも黄金色とも見える光が漏れていた。
強めの風に流された黒い雲が、紺色の空にぽっかりと開けた光の孔を塞いでいるのだ。
国道沿いの林――
その中央に佇む巨木に、月の光は注がない。静かな闇の中で、少しずつ花びらを落としてゆく。
乳と呼ばれる、横に伸びた枝から、下方向に垂れ下がる枝がある。或る程度まで垂れると、重力に敗けて切り離されて地面に落ち、根を張り、幹と一体化して太さを増すのに力を貸した。
本来、この乳は銀杏の樹に顕著なものだ。接ぎ木がされていれば、そのハイブリッドという事であろうか。その乳の成長と落下がかなり早い。実際に伐り倒してみれば、樹齢で言えばそこまでのものではないという事が分かるだろう。
嘆くように、桜の樹は涙を流して、哀しみで自らの身体を満たしている――
扶桑のようにねじれた幹は、その哀しみの体現であるようにも思われた。
その巨木の根元に、近付く人物があった。
黒い衣装に身を包んでおり、男性であるという事以外、分からない。
黒い衣装の人物は、林の中に静かに、けれどもなるべく気配を消そうとしているだけで、雑に足を踏み入れた。
慣れているように桜の根元に近付くと、その巨木の表面に手で触れ、ねじれ、盛り上がった部分を愛撫しながら、地面近くの場所まで眼の高さを下げてゆく。
交尾中の蛇のように、根と根を絡ませる桜、その地面との境目の、特に盛り上がった部分に、小さな隙間が出来ている。黒い衣装の人物はその隙間を探り当てると、ズボンのポケットからサバイバルナイフを取り出して、隙間に射し込んだ。
手首を左右に振りながら、刃先で隙間を抉じ開けてゆく。どうにか腕を入れられるくらいの大きさまで孔を広げてやると、ナイフを引き戻し、ほっと一息入れた。
男は気付いていない。
桜の枝の、特に太い場所に、あの裸体の女が腰掛けている事を。
彼女の頸から、赤い滝がこぼれている事を。
そして今、彼女の下腹部から同じように、命の液体が滴り落ち、根元を抉る男の身体に降り注いでいる事を。
「――よすんだ」
そこに、男の声がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます